余命あと…
4
ひどく、胸が苦しかった。
その感情を僕は前から知っている。
この感情を感じたのは、きっと最初の時。
彼女の美しく広がる白い翼を見た時から。
そして、その白い翼に相対した綺麗な黒の瞳を見た時。
まだ、声が出るというのなら、僕は伝えたい。
ただ、今の僕では、それを伝えられないし、彼女の体温を知ることも出来ない。
ベッドの上で、ただ沈み込むことしか出来ない。
ふと、涙がほろほろと、目のふちから落ちては、頬をつたっているというのに気がついた。
ヴィータは、僕のベッドの隣に、常に置いてある椅子に座っている。
彼女は、僕が泣いているという事に少し驚きながらも、その手を僕の頬へと持っていき、
涙の跡を辿るように、するりと、撫でた。
僕は、涙で汚れてしまうという意を込めて、咄嗟に彼女の手を頬からはがした。
ふと、違和感を覚え、自分の意思で動かせられる手を眺める。
動いている。
バッと、ヴィータの方を向くと、ヴィータは照れたように笑い、口を開いた。
「…私の、なんと言えばいいのでしょうか。
奇跡の力を使っております。もちろん、ユウキ様の願い事の中には、それらを含めていません。
私からの、何気ない日常の贈り物だと思ってください。
声も出せますよ。」
「あ、あー…本当だ…。でも、なんで?」
「それは……、野暮なことを、お聞きになるのですね。」
「あ、ええと、ごめん…。でも、天使だからと言って、私的に奇跡という力を使ってもいいの?」「大丈夫です。あなたの、使うはずだった…未来の奇跡です。」
「そっ、か…、うん、ありがとう、ヴィータ。」
「っ…!はい」
嬉しそうに微笑まれる。しかし、その目には、どこか切なげな感情が含まれている感覚がした。
手を動かすたびに、声を出すたびに、小さいが苦痛を感じる。
やはり、身体的には限界が来ているのだろう。
「そういえば、昨日の雨は?」
「止みました、今は少し曇り空です。」
いつもの調子に戻ったヴィータは、天気の様子を伝えてくれる。
「桜が見たいなぁ、桜って知ってるかな。
花弁が落ちると、地面に桃色のカーペットができるんだ。
桜道を歩くと、気分が上がるんだ。」
「そうなのですか」
「うん、ヴィータも気に入るんじゃないかな。
いっぱい屋台があるんだ。」
「…屋台」
「綿あめとか…ヨーヨーとか、あとはね、りんご飴とか。」
「とても、楽しそうですね。」
うん、とっても楽しいんだ。
とっても楽しかったんだ。
「うん」
僕は、言いたかった言葉を飲み込んで、代わりに笑顔で答えた。
3
心臓部が痛くなって、頬が熱くなって、その人を見るだけで周りがキラキラしちゃうんです。
すると、彼は私のほっぺたをムニムニと指で遊びながら、答えてくれました。
それは、恋という病なのです。
すかさず私は、天使もかかるものなのですか。と質問をした。
そうだね、と彼は答え、少し悩んだ素振りをした後に、再度笑顔でこちらを向いた。
「そうだ、天使もかかる。」
「なぜ?不必要なものだと、私は考えます。」
「君は、感情を冷凍庫にでも入れてきたのか?
いや、こうして、恋を体験しているということは、解凍している途中なわけか。
はは、面白い。その相手は誰だい?」
「…黙秘させていただきます。」
「面白い、実に面白い。ここまで長生きするものだね」
「一体何年お生きになられたのですか?」
「数えるのは、やめたからね」
そうですか。と、私は彼に目線を向けるのをため、マグカップに入ったものを眺めた。
暖かく、湯気がさらに天へと上っていくのを見て、一体どこに行くのだろうかと、考える。
「ねぇ、ヴィータ。」
「次は、何だい?」
「私の名前」
「ああ、君の名前は、そうだね、こんな名前はどうだい?」
彼の口から紡がれた私の名前は、儚くきらめいていた記憶と共に消え去った。
*
「ヴィータ」
「お決まりに?」
「うん、でもその前に、僕は君が好きだということを伝えさせて。」
「はい」
「最初の夜から、その白い翼も、翼と相対した黒い瞳も、笑顔も、綺麗だと思ったんだ
話を聞いてくれてありがとう、ずっと好きだ。
返事はいい、今から言う願い事は」
「お待ちください」
そう言い、ヴィータは白い肌を赤く染めていた。
瞳は少しうるみ、表情からも嬉しいということがうかがえた。
しかし、その表情の中に悩みが見えた。
「大丈夫だよ、言ってごらん」
彼女が動かせるようにしてくれた手で、僕は彼女の手を取った。
彼女の瞳から、悩みの色は消えていた。
*
「…奇跡というものを信じますか」
「今、天使が目の前にいるんだから、信じるよ」
「私も、奇跡の力とは別の…本物の奇跡というものを信じます。」
「本物?」
「神が関わらない、私たち天使も関わらない、人の因果のみで形成された純粋な奇跡を。」
私たちからすれば、これらは人でいう、人工的なものでしかない。
ならば、本物の奇跡をどう捉えるか。
例えば、今にも死にそうな患者が医者の力のおかげで、奇跡的に生きれるということ。
例えば、困っている人を助けた後、お礼を言われること
例えば、そう、今、大好きだったあの人に似た誰かを好きになって、また出会えているということ。
「それら全ては、全て奇跡でしょう?
嗚呼、いえ、人間でいうならば…運命というものなのでしょうか」
「そのどちらでもあるって、僕は思うよ。どっちも、幸せな事っていうのには、変わらないからね。」
「…私の名前は、ヴィータではないのです。」
突然言われ、思わず目を見開いた。
が、すぐに僕は微笑みながら、できるだけ声音を優しくして、聞いた。
「じゃあ…本当の名前を教えてくれない?」
「私の…名前……ミハーチャ…本当のヴィータがつけてくれたんです。」
そうやって、僕を見つめて話をする彼女は、とても美しく、魅入ってしまった。
「本当は…この名前は、彼が消えたあの瞬間と共に捨てていたんです。
私は、ヴィータの…成りそこないに近いものなので。
ヴィータと名乗る、偽物のヴィータでありたかった。
けれど、ミハーチャという名前は、運命という意味がある、ヴィータはそう言ったんです。
だからこそ、私は、その運命を捨て切れなかった。
今、それを名乗れるというのは、とても心が温かくて…ええ、恋をしているような。」
そんな気分です。と言い、目を細めた。
虚空を見つめながらも、その瞳から溢れる感情に、僕は全てを察した。
ちょっと、コピペ用に