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よみがえったお釈迦さまの瞑想

作者: 前岡光明


        第一章 ある余生


         一 ライフワーク・分子雲の進化論


 私は、傘寿になった。頭の働きも衰えかけたようだが、ふんだんにある自分の時間をライフワークの「分子雲の進化論」に注ぎ込んでいる。

 天文学は、たぶんにイマジネーションの世界であると思う。量子論、相対性理論の難しい理論は手に負えないし、詳しい正確なデーターを持たない門外漢だったけど、技術屋の私は入門書、解説書の、安易な表面的な解説に、「その説明は短絡していないか? 私ならこう考える」と反撥することが多かった。独学の私は、本質は何かと考えた。そうなる理由がある筈だと追及した。

 そうやって十年も打ち込んでいると、私なりの思いつきが少しずつ溜まっていって、いつの間にか、私なりの星形成論がまとまった。

 どうしてそんな大言壮語を吐けるのかと呆れられそうが、理由がある。

 現代の天文学には死角がある。それは、量子力学の密度分布のゆらぎで銀河が出来たとしていることだ。銀河は星の集まりなのに、先に銀河が出来てしまっては、個々の星の形成論の育ちようがない。スターバーストで星(星の材料?)が出来ると、お茶を濁している。

 星の材料は水素分子である。水素分子が、どのように集って星になるか、考えられてないのである。水素分子は電磁波を出さないから、観測にかからず、その存在がおざなりにされていることもある。

 私は水素分子の挙動を考えた。

 そんな誰も関心を寄せない分野で、私は高校物理程度の知識で、勝手な術語を創って、独自の星形成論を組み立てようとした。それは結果論で、最初は、そんな大それた気持ちはなかった。「なぜ、こうなる?」と考え、自分なりの答えを得た。そのような断片的な項目が、次々に有機的に結びついていったのである。それは結びつける仕組みの概念を創ることでもあった。そうやって体系だって星形成論にまとまっていったのである。

 ふと閃いた考えが、最初のうちは疑心暗鬼であっても、二年、三年と温めるうちに周りとの因果関係が固まって、確固とした説に育つ。たくさんの断片的な思い付きが結びついて、さらに、新しい概念を生んで、次第に体系化していく。

 最初、私は、宇宙空間、というより「公転運動する分子雲内」では、転向力が働いているに違いないと考えた。素朴にそう思って、それを前提に、いろいろなことを考えた。そして、「分子雲の進化」という、水素分子が分子雲にまとまれば、中心星が生まれ、さらに「内部分裂」するという一連の仕組みを考えた。

 転向力の仕組みを明確にするには、十年ほどかかった。それは、「最初の分子雲」とか「銀河分子雲」とかの考えが煮詰まってからのことである。

「最初の分子雲」が無数にまとまり、それがダイナミックに再編して「ボイド外縁」となった。そこに、どんな仕組みがあったのか? 再編するには「最初の分子雲たち」は衝突したに違いない。なぜ、衝突したか? 密集した中で連星運動したとすれば、そうなる。

 また、「銀河分子雲」の中で銀河が生まれたのは、そこに「転向力」が働いているからに違いないが、「銀河分子雲」が、もしも、連星運動していれば、内部で「分子雲内転向力」が働く、と読んだ。

 また、膨張する宇宙空間で、「銀河分子雲たち」が銀河団としてまとまっているのは、なぜか? 連星運動していると考えればうなずける。

 では、なぜ、「最初の分子雲」とか、「銀河分子雲」とかの、「始原的分子雲」が連星運動をしたのか?

 そこで、思いついた。

 四方八方に膨張する宇宙空間で、生まれたばかりの巨大な「始原的分子雲」が互いの引力で引き合っている。そうやって、引き合った方向の動きを規制していると、それらの分子雲は横方向に動こう。引き合って距離を保っているから、やがて互いの周りを回りだす。その遠心力が引力に釣り合うと、連星関係となる。これが、「膨張する宇宙空間で働く転向力」の仕組みである。

 そうやって連星運動をする分子雲は、見かけの自転運動をするので、その内部の別な形態の「分子雲内転向力」が滑らかに働くのである。

 諸々の現象が私の理論で説明でき、うれしくてならない。まだまだ独りよがりの記述が多いので、細部を煮詰めねばならないし。論旨のきちんとした文章にすべく、連日、夢中で励んでいる。


       二 TMのある生活


 朝食の片付けをするのが私の務めである。そのあと、再びベッドに行って、壁にもたれて胡坐をかき瞑想をする。寒いので毛布を被る。そして、静かに目を閉じる。気持が落ち着かないと、また目を開ける。そして目を瞑り、秘伝の、私に授けられた短い言葉(想念)を思い浮かべる。言葉というより響きだが、そのリズムに乗って私の意識は心の奥底に沈んでいく。お腹が、グウと鳴るのは、内臓の緊張がほぐれるのだ。呼吸がいつのまにか柔らかくなって、私の意識は絶対界へと超越する。

 瞑想中でも、意識はある。外の風の音が分かるし、呼びかけられれば返事する。

 雑念が湧いて、考えごとをしていると気づいたら、意識してその言葉(想念)を思い浮かべる。と言うより、無言で唱える。出来るだけ意識をかすかにして、その言葉を念じる。

 でも、神経が高ぶっている時は、すぐに雑念に囚われてしまう。何度もその言葉を念じ直すが、うまく瞑想に入れずに、時計を見ては、まだこれしか経っていないのか、と思うことが、けっこうある。そういう時は、そうやって過ごしていることでも、私の心のストレスが拭われるのだそうだ。

 うまく瞑想に入っている時は、時間が来ても、もう少しこのまま居たいと思う。

 二十分間の瞑想から抜け出たあと、私の頭の中はすっきりしている。そして、無心に、懸案の作業に取り掛かっている。こんがらかっていた考えが解けていて、すらすら文章にまとめることが出来る。支離滅裂だった考えが、瞑想中に整理されている。

 あるいは私の心のストレスが拭われて、私は素直に考えることが出来るので、枝葉の考えを整理できるのだ。

 時として、気づいてみたら一時間ほど瞑想の至福の時を過ごしていることがある。半分は居眠りしているようだが、これこそが三昧サマーディに浸っていたのだと思う。

 老いて、つつましい生活ながらも、このように穏やかに毎日を過ごせることはありがたい。





      第二章 超越瞑想TMとの出会い


       一 最初にTMを得た時


 私がこの瞑想を得たのは四十六才の時だった。

 ダム技術者の私は、それまで、各地の工事現場を転々と移ってきた。引越し、転校ばかりで、家族に苦労をかけてきた私は、転勤のない職場を選択して、土木工事の調査・設計を行う設計コンサルタントに転進した。

 都心の小さな会社に勤めたが、慣れない仕事で、私は厳しい状況に陥った。友人後輩たちが、私の技術力を買って仕事を廻してくれたが、まだ部下も育ってないところで、調査、解析内容を報告書にまとめるのが大変だった。私は寝る暇がなくなった。打合せの出張の電車の中で爆睡した。三ヶ月間一日も休めないことがあった。何日も会社に泊まり込んだ。

 常にいくつかの仕事を同時に進めているので、どれからやるかが問題であった。一つをやれば他が遅れる。遅れたところから催促が来るのでそれにかかると、他が遅れる。

 完全に能力オーバーだった。眠れないのがつらかった。

 フトンに入っても、遣り残した仕事が気になって目が冴える。そんなときは、私は起き上がって仕事を始めた。カバンの中には常に作業中の書類と資料があった。一つのことをやっていると、ふと、「あれはどうだったか?」と他の仕事が気になる。そうやってパニックになる。神経を太く持たねばと思うが小心者はそうはいかない。このままだと自分は潰れると思った。周りもそういう目で私のことを見ていたようだが、お互い自分のことで精一杯で手を差し伸べる余裕はない職場環境だった。

 いつしか私は深夜の駅にたむろするホームレスをうらやましく思うほど疲れ切っていた。

 そんな時、偶然、ある雑誌の広告で、その超越瞑想、TMのことを知った。鈍重な気持ちを励まして、藁をも掴む思いで説明会に行き、何日か後にその技術を授けられた。

 その、音の響きというか、短い言葉が私のものとして授けられた。すぐに、教師に導かれるまま、催眠術にかかったかのように瞑想に入った。二十分後、教師の合図で気がついた私は、頭がすっきりしているだけでなく、身体が軽やかに感じ、生き返った思いがした。私は劇的に救われた。

 何よりありがたかったのは、夜ぐっすり眠れたことである。

 そのあと何回か通って、正常に瞑想に入れているか、チエックしてもらった。瞑想によって不安が消えストレスが拭われる。しかし、急にストレスから解放されると、長年プレッシャーを受けていた体の歪があらわれて、頭や顔や肩や首などが痛むことがあるらしい。幸い私の体はどこも痛まなかった。


 私は、瞑想を教えてもらう時に、この瞑想を伝えてくれたインドの歴代の大師たちに感謝の意を表すために一輪の花を捧げた。そして、自分はみだりにこの瞑想の技術を人に教えないことを誓った。

 古代インドの時代から、師から弟子へ口伝で伝えられてきた、微妙な技術である。インドという国では、この瞑想が何度か国中に広まったが、すぐに廃れた歴史がある。わずかにヴェーダーンタの修行者たちが師から弟子へと連綿と瞑想の技術が受け継がれてきたのである。

 この技術を純粋に正確に後世に伝えるために、教師以外の者は人に教えてはならないとされる。そして、教師になるにはみっちり鍛えられるらしい。そういうことで、私は、TMの具体的なテクニックを書くわけにはいかない。


 私は多忙を極めたから、「朝晩二十分間ずつ規則正しく瞑想をしなさい」といわれても無理だった。会社で疲れて頭の中が白くなったら、机の上で瞑想した。私は、「瞑想しているから起こすな」と宣言した。瞑想した私はそのまま居眠りすることが多かった。瞑想に入ると、体は、その時に最も欲することを、していたのだ。

 二、三十分して瞑想から醒めた私は、何の気負いもなく、ひとりでに、一番先に仕上げねばならない仕事に取り掛かっていた。いくつかのレポートを仕上げなければならない切羽詰った時の、そんなときの優先順位は後になって分かることだが、私の直感は冴えていた。選択するなどという意識はない。無心でその業務に取り掛かっていた。

 そうやって何年か、私は机の上で不規則な瞑想をした。

 そのうち部下も増え楽になったら、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、私はあまり瞑想をしなくなった。それでも苦しい時の神頼みで、窮地に陥った時に瞑想をした。そして、ストレスを拭い、直感で解決策を得、私は活路を開いていた。でも、だんだんそんなこともなくなっていた。

 そして、この瞑想は、酒浸りになったら出来ないのだ。それで、私は瞑想から遠ざかってしまったのだ。

 会費納入が途絶えたら自動的に退会するのがその組織の決まりだが、あの困難な状況を救ってもらったという意識があるから、会費は納め続けた。毎月、機関誌が届くが、封を切らず書棚に積み上げていた。

そうやって、私は現役を退いた。


         二 取り戻したTM


 そして、六十八才の時、私は家庭内の問題でストレスを抱えていた。私は苛ついていた。こういう時こそ瞑想だと思い出して、目を瞑ってその言葉を念じるが、瞑想に入れない。瞑想の入り方を忘れていた。瞑想に入ろうとどんなに努力してもだめだった。何日も試みたが、座って、落ち着かずただ時間が過ぎていくだけだった。

 それで、あれ以来初めてセンターを訪れ、個人チエッキングをしてもらって、私は再び瞑想の技術を習得した。教えてもらえば簡単だった。私は、改めて口伝の微妙な技術だと知った。本を読んで理解したつもりになっても、実際に出来るものではない。形というか雰囲気を真似しようとしても絶対入れない。私は瞑想は日々規則的に実践して身体に着くものだと痛感した。そして、飲酒が大敵だった。

 家の中の問題は、私がストレッサーだったから、すぐ解消した。


 国語辞典で「瞑想」を引くと、「目を閉じて静かにある物事を考えること」とあったが、私の超越瞑想の理想というか目指す境地は、そういうものではない。瞑想中は何も思わないし、考えない。

 意識を集中させると言うが、そのようなことで心を緊張させると超越できないから、瞑想に入る時は心を空っぽにする。しかし、この言い方には、盲点がある。

 意識して何も考えないのではない。単純に、素直に瞑想に入ろうとするだけである。無邪気でなければ瞑想に入れない。

 瞑想にうまく入ると、私の意識は超越して純化する。

 そう、私が習得した超越瞑想(TM Transendental Meditation)は、意識をこの現象界から絶対界(超越界)へ超越させ、絶対なるものに合一させるものである。

 信じる神をもつ人にとっては、その神の足もとに跪く瞬間である。

 私のように信心のない者にとっては、この世を超えたところの、絶対界に満ちている「純粋意識」というものに意識を触れさせて、浄化させることである。後述するが、マハリシは、そのように教えてくれる。


 私の瞑想の理想はそうではあるが、実際の私は、国語辞典の「目を閉じて静かにある物事を考えること」をやっていることが多い。

 瞑想中に、星形成論の懸案事項が浮かんできて、こんがらがった考えがひとりでにほどけていく。うれしくて、私は、雑念であるそれらを打ち払うことが出来ない。

 冷静に判断すれば、超越瞑想の実修時間をそんなことに費やすのはもったいないことなのだ。懸案事項の解決は超越瞑想から覚めてから考えても到達するはずである。

 ともかく、瞑想によって不安感が拭われ心のストレスが払われる。それと同じように、頭の中の錯綜した考えが瞑想中に整理される。頭の混乱が私のストレスであって、それがほぐれていくのである。

 それに加え、瞑想から醒めた後の直感力、潜在力の働きがある。それは私が頭脳明晰になることである。

私は何事についても、その本質は何かと考え、探るようになったと思う。





         第三章 超越瞑想の伝統


 私はこの瞑想の伝統、背景を知りたくなり、その組織の機関誌を読み、瞑想の解説書やインド思想の入門書を読み漁った。

 この瞑想方法は、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーというインド人聖者が、インド古来の瞑想の技術を、その純粋性を維持したまま現代人向けの実修体系にし、宗教色を払拭して世界に広めたものである。


 マハリシは、この瞑想の哲学を「存在の科学」としてまとめた。

 その著「超越瞑想(存在の科学と生きる技術)」(マハリシ総合教育研究所翻訳)は、口述筆記によるもので、難しい概念が平易に語られており、見事な読み応えのある書である。

 マハリシは大学で物理学を修めてから、ヒマラヤ山中で隠遁生活を送っていたシャンカラーチャーリヤのグル・ディブに師事した。師の死後、マハリシは「精神復活運動」を開始し、人々に瞑想を教えた。

 やがて、マハリシはインドを出た。そして、街角で説法する一介の修行者を囲む欧米人の輪が出来た。見る見るうちに瞑想者が増えていった。

 各国の研究機関がマハリシの超越瞑想を科学的に分析した。瞑想中の脳波を測定し、その効果をもたらす仕組みを立証した。

 マハリシは実務家でもあった。マハリシは多数の教師を育てた。そして、厳格な訓練を受けた教師でなければ、TMのことを他の人に教えてはならないとした。それはTMが繊細な技術だから、誤った指導でこれまで途絶えてしまった歴史からの反省であり、また、これから受講する人が先入観を持たないためである。

 そして、人々は、各国に瞑想のセンターを建てた。それらの資金は受講者の受講料による。「それだけの価値があります」ということで、その人の年収の一割が受講料だったそうだ。ビートルズなどはさぞかし多額なお金を支払ったのだろう。後年、ポールマッカートニーが、TMは自分の生涯で受けた贈り物のなかで一番のものだったと語っている。

 この五十年間で世界中で五百万人がこの瞑想を習った。マハリシを取巻いた世界規模の組織とセンター、そして学校が出来た。

 そして、マハリシは、インドのヴェーダの伝統を守るために、尽力した。


 この瞑想は、古代インドで、お釈迦さまの時代よりも古くから伝わるものである。

 この瞑想は、東洋の英知とされる、世界最古の聖典、ヴェーダの伝統の瞑想である。「ヴェーダの伝統の瞑想」と呼ぶのは私の勝手な造語で、ヴェーダで瞑想のことが講釈されているわけではない。

 まだ文字のない時代、リシ(真理を知る人)たちが、瞑想により絶対界と交信してヴェーダをつむぎ出した。それで、ヴェーダは天啓の書と称される。

 膨大なヴェーダは、バラモンの家系が手分けして、口承で代々受け継がれてきた。その響きが一字一句そのまま現代に伝えられている。ヴェーダはその響きが命とされる。マハリシのような聖者は、ヴェ―ダの響きによりインスピレーションを与えられるようである。


 私は、「超越瞑想と悟り」(マハリシ著、読売新聞社)を読んだ。この本は、「バガヴァッド・ギータ」の注釈書である。「バガヴァッド・ギータ」(神の詩)は、ヴェーダのダイジェスト版とされる。

 マハリシは、その『はじめに』で、全インドに瞑想を広めた人物として、お釈迦さまとシャンカラの、二人のことを書いていた。

 私は、お釈迦さまが瞑想をされていたことを知った。

 そして、驚くことがあった。

「瞑想は、簡単なことである。お釈迦さまは、まず瞑想して悟りを得なさい。そうすれば、ひとりでに功徳を施せます、と教えられた。

 しかし、それが、人々が瞑想を失ったために、善行を積みなさい、そうすれば悟りが開けますと、逆の教えになってしまった」 マハリシは、そう指摘していた。

 お釈迦さまの教えられた瞑想に人々は夢中になり、わずか四、五十年で全インドに仏教が広まったのだ、と私は、知った。

 そして、マハリシは、その本で、「バガヴァッド・ギータ」の従来の注釈書の誤り箇所を正している。一言でいえば、それは、練達のヨーギ―が、これまでの観念的な見解を修正するものである。私の理解は、「問題を解決しようとあれこれ努めないで、まずは瞑想をしなさい。そうすれば、道は開けています」、ということだ。





         第四章 原始仏典の勉強


          一 原始仏典に見るお釈迦さまの瞑想


 それからの私は、お釈迦さまの瞑想のことが知りたくて、岩波文庫にあるパーリ語の原始仏典(中村元訳)を読み漁った。そして、「ブッダのことば」(スッタニパータ)、「仏弟子の告白」「尼僧の告白」に惹かれた。二千四、五百年前のお釈迦さまの清冽な教えが伝わってくる。また、弟子たちの飾らぬ言葉がある。

「スッタニパータ」(ブッダのことば)に、お釈迦さまが瞑想をされ、瞑想を勧められていたことが載っていた。端的に瞑想に触れているのは、七〇九頌他で、あまりないが、親しむほどに、「スッタニパータ」のほとんどの内容が、瞑想することを前提にした記述であると知る。

 お釈迦さまの時代はまだ文字はなく、その教えは言いやすく覚えやすい韻文で伝えられた。「スッタニパータ」はパーリ語の詩文だが、韻を踏んで訳すのは難しいので原文に忠実に訳した旨、中村元先生が解説に書かれている。

 しかし、心に沁みる清冽なお言葉は、まさにお釈迦さまじきじきの教えだと思う。

 お釈迦さまの教えは自力救済である。そこに甘えは許されない。


          二 お釈迦さまが悟られた時


 お釈迦さまは、シュートラ(王侯士族)の出でバラモンではないが、当時の学問であるヴェーダを八歳から学ばれヴェーダに習熟されていた。そして、二十七歳の時に出家された。

 そして、三十五歳の時、お釈迦さまは、菩提樹の樹の下の瞑想で悟りを開かれたとされる。

 難行苦行では悟りは得られないと、苦行を否定されたのが、お釈迦さまの悟りだとされるが、私は別な考えである。

 釈迦牟尼と称されるように、お釈迦さまは、瞑想によって成就する、「ムニの道」を究められていた。難行苦行に励んでも無益なことは、もっと前から承知されていただろう。

 このときのお釈迦さまは、転機を迎えられたと、私は受け止めた。

 そのお釈迦さまの転機とは、ヴェーダの主神ブラフマンの権威を否定するための理論構成が成った時だと思う。その理論は、縁起説、二種の観察、空思想と、それを支える諸々の理法である。

 スッタニパータにこの時のお釈迦さまが描かれている。つきまとう悪魔を振り払って、ヴェーダに決別する、意気込みがうかがえる、今から諸国を遍歴して説きまわろうと決意されたお釈迦さまの姿である。(スッタニパータ、第三大いなる章、二つとめはげむこと)

 しかし、お釈迦さまご自身の修行について悟られた時があった筈だという意見に対しては、お釈迦さまが、自分はブラフマンに帰依せずとも解脱できる、と確信されたのが、この三十五歳の時だったと、私は思う。


       三 お釈迦さまの慈悲の心


 ヴェーダの世界で育ったお釈迦さまが、なぜヴェーダの主神ブラフマンに反逆されたのか? 

 お釈迦さまの慈悲の心が、ヴェーダの主神の権威を否定することになったのだと、私は思う。

 お釈迦さまは、身分制度の頂点にいるバラモンたちが、下層階級の人たちは前世の報いを受けているから虐げられるのは当然だ、と考えることに反撥された。また、お釈迦さまは、ヴェーダの祀りに専念するだけでよしとする、バラモンの祭祀主義を否定された。バラモンたちの堕落を批判されるとともに、ヴェーダの供犠で火にくべられる動物たちを憐れまれた。

 人々に慈悲の心を持たせるためには、ヴェーダ体制を崩さねばならない、と決意されたのだ。





     第五章 お釈迦さまはいろいろなことを教えられた


      一 お釈迦さまの教えはすぐに全インドに広まった


 ヴェーダの世界では、人の内奥にはブラフマンの分身アートマンが在り、人が解脱するということは、アートマンがブラフマンのもとに帰入することだとされていた。

 しかし、お釈迦さまは、ブラフマンの権威を否定された。そうすれば、アートマンが帰入する先がない。それで、お釈迦さまはアートマン(霊魂)を否定された。

 お釈迦さまは、人は絶対神が作ったものではなく、真実、法があって、因果報応の縁起によって五蘊(肉体と受、想、行、識の精神活動)として生まれるのだと説かれた。

 お釈迦さまは、瞑想により、智慧を得、清らかな境地になって、ニルヴァーナ(涅槃)で解脱することを教えられた。画期的な考えであった。

 しかし、お釈迦さまの教えが爆発的に広まったのは、お釈迦さまは、それまでバラモンのものだった瞑想を大衆の手の届くものとしたからである。

 インド学の世界的泰斗ゴンダ(オランダ人)は、仏教が人々の心を捕らえ、僅か四、五十年で全インドに広まったのは、お釈迦さまが瞑想を教えられたからだと看破した。そして、現代の様々な瞑想と区別して、この瞑想を「正しい瞑想」と呼んだ。(岩波文庫「インド思想史」p102)。

 瞑想すると不安が消える。満ち足りた気持ちになる。そして、直感で正しい行動をとることが出来る。瞑想を授けられた社会の底辺の人々は、あの時の私のように劇的に救われたのだろう。

 仏教が全インドに広まったのは、紀元前五、四世紀頃の、お釈迦さま存命中のことである。

 そして、お釈迦さまが広められたかった、慈悲の教えは、アショーカ王(紀元前三世紀)の心を捕らえ、仏教はインド国教となった。そして、国外へも広められた。

   

        二 長広舌のお釈迦さま


 仏教が急速に広まったもう一つの理由がある。

 お釈迦さまは、名のあるバラモンたちとの論争にことごとく勝ち、説き伏せたことである。それで、その一門の弟子たちもこぞって仏教教団に加わった。「スッタニパータ」にはその様子が描かれている。

 そして、お釈迦さまの弟子たちも、バラモンに挑まれて論争したことだろう。論争の仕方ともいえるお釈迦さまの教えが、「スッタニパータ」の「二種の観察」にある。(第三大いなる章 一二、二種の観察 p156~)

 しかし、「スッタニパータ」には、論争のむなしさが述べられている。(第四、八つの詩句の章 八パスーラ。十二並ぶ応答―ー小編。十三並ぶ応答――長編) 志を果たされたお釈迦さまの本音であろう。


 お釈迦さまは、ヴェーダの主神ブラフマン(梵)の権威を認められなかった。

 絶対神を否定されたお釈迦さまの教えは、自力で解脱する道である。それは瞑想によって智慧を得、清らかになってニルヴァーナへ行くのである。

 自力救済の教えは清冽である。神仏に縋るのではない、「自力でやるのですよ」と、冷ややかな教えである。

 また、お釈迦さまは、この世の生老病死の苦しみから逃れるにはどうすればいいかと問われ、この世は空だから、執着してはならないと教えられた。そして、出家を勧められた。人が自力で解脱するには、すべてを捨てなければならないのだ。普通の人にとっては、厳し過ぎる教えである。

 お釈迦さまの教えは、自力救済である。そこには拝むものはない。お釈迦さまが見守ってくれるということでもない。

 お釈迦さまは、自分が仏教という宗教の開祖だとは思っておられないだろう。


       三 お釈迦さまの教えの二面性


 お釈迦さまが亡くなられて、弟子たちが集まり、その教えを一つにまとめようとしたが、まとめられなかった。まだ、文字のない時代である。

 弟子たちには様々な人がいた。お釈迦さまはその人の学識、精神性に応じた教え方をされた。それでお釈迦さまの教えは、対機説法と呼ばれる。

 そういうことで、お釈迦さまの教えは人によって異なるし、また多岐にわたるので、一つにまとめられなかったとされている。しかし、私はもっと根本的な理由があったと考える。

 釈迦牟尼と称されたように、お釈迦さまは、ムニの道、瞑想修行に励まれていた。

 お釈迦さまの教えの本質は瞑想である。そんなお釈迦さまは、乾慧を嫌われた。知力であれこれ考えることを避けられたのだ。

 しかし、人々に慈悲の心を植え付けるには、ヴェーダ体制を破らねばならないとして、お釈迦さまは、一念発起し、知力の世界に戻られ、いろいろなことを考え出され、人々に説かれた。三十五歳の時である。

 頭脳明晰なお釈迦さまは、縁起説という新しい考えや、二種の観察と言う論理的な思考の仕方とか、様々なことを教えられた。しかし、それは、バラモンたちを釈服するための手段、いわば方便であって、お釈迦さまの教えの本質ではない。

 お釈迦さまが人々に説かれたことは、真理ではあるが、おしゃか様にとっては方便である。

志を果たされたお釈迦さまは、自らの「ムニの道」に埋没された。弟子たちは、お釈迦さまは考えることを止めてしまわれた、と受け止めた。(「仏弟子の告白」第九九九頌。サーリプッタの言葉)

 お釈迦さまの教えには、根本的に、二面性があったということだ。お釈迦さまの本質はすべてを捨て瞑想修行することにある。しかし、バラモンを説得する方便として、もろもろの真理を語られたのである。





     第六章 厳しいお釈迦さまの教え


     一 死んだ人のことは分からないとされたお釈迦さま


 ゴンダは、「仏陀は、すべてのヨーガ行者達と同じく、悟性に基づく思惟を意識的に抑制した」と観ている(インド思想史p108)。

 悟性(自分の理解した諸事実などに基づいて論理的に物事を判断する能力)ではなく、お釈迦さまは瞑想で育む直感、潜在力を大事にされたということだ。

 私にとって驚きだったことは、お釈迦さまは、死後のことのような、分からないことを語るのは意味がないとして、ニルヴァーナのことは詳しく語られなかったのだ。

 そのことを、「スッタニパータ」より引用する。


 まずは、学生がくしょうウパシーヴァの質問。

……「(前略)

一〇七〇 ブッダは言われた。

「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

一〇七一 ウパシーヴァさんがいった。

「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、――かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するでありましょうか?」

一〇七二 師は答えた。

「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、――かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

一〇七三「あまねく見るかたよ。もしかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、彼はそこで解脱して、清涼しょうりょうとなるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

一〇七四 師が答えた。

「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在するものとしては)数えられないのである。」

一〇七五「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

一〇七六 師は答えた。

「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」……


 一言で言えば、「死んでしまった者のことを、ああだこうだと論ずることはできない」 

 何とも冷たいお言葉だ。でも、これが真実だろう。


     二 世間への執着を離れることがニルヴァーナへの道である


 次に、学生へーマカの質問。

……「(前略)

一〇八五 聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り超えましょう。」

一〇八六(ブッタが答えた)、

「へーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

一〇八七 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執着を乗り越えているのである」と。……


 この世で経験した欲望や貪りを除き去ることが、ニルヴァーナ(涅槃)の境地なのだ。

 何事も、執着しないよう、よく気をつけていなければならない。見聞きしたことを忘れてしまえということだ。

 ここまでお釈迦さまが現世を否定されるのは、最初、私はふしぎだった。

 この世はそんなにつらいことだらけなのか? 

 お釈迦さまは「スッタニパータ」で、これは世俗の信者への教えだが、「こよなき幸せ」と語っているじゃないか?

 自力救済の解脱の道に、甘えは許されないのだ。解脱を願うなら、出家してすべてを捨てなさいという、厳しい教えなのだ。そこには、いささかの妥協もない。

 




       第七章 お釈迦さまの教えが変わっていく


        一 仏教が変わっていく


 やがて時代の波に呑まれ、仏教は変質していった。

 インドで大乗仏教が生まれた西暦紀元の頃には、すでに仏教は「正しい瞑想」を失っていた。そして、黙想、空想のような瞑想になっていたようだ。

お釈迦さまの瞑想は、口伝で受け継がれる技術だから、いったん途切れると、復活できず、形をなぞったものになる。

 お釈迦さまの教え、「人間存在は五蘊(五種の構成要素)である」という考えはすぐに忘れられたようである。(ブッダ、悪魔との対話、第Ⅷ篇、第四節、お釈迦さまの従者アーナンダが、後輩のヴァンギーサに自己という言葉で諭した話)

 お釈迦さまは宇宙の絶対神を否定されたが、それが裏切られ、拝む対象の「如来」を祀るようになった。

 そして、「誰の心の奥にも仏が居る」(如来蔵思想)というふうに、仏教は、ヴェーダのウパニシャッドのアートマンの考え(梵我一如説)に近づいた。

 また、ヨーガを取り入れた密教が起り、瞑想が復活されかけたが、そのテクニックの陀羅尼は伝わったものの、教える人が居なかった。

 七世紀に玄奘が中国へ伝えた大乗仏教の経典では、お釈迦さまの瞑想はどういうものかまったくわからなくなっていた。


         二 三昧の境地


 私は、あるインド思想入門の訳本で、お釈迦さまが坐禅をされたと書いているので、奇異に思っていたが、漢訳経典では、瞑想の境地の「三昧サマーディ」の語を「禅定」と訳すしきたりがあると知り、瞑想=三昧=禅定=坐禅、と短絡する背景を理解した。

 でも、ひどすぎる。禅宗は中国で興った宗派である。

 座禅でも、習熟した修行者は、いずれ三昧の境地に達しようが、形から入る座禅は、それはすごい回り道なのだ。

 このように禅定という言葉は、一般には坐禅の用語となっているようなので、三昧を機械的に禅定と訳しては混乱する。

 三昧の原語サマーディは、マハリシが純粋意識、超越意識と呼んだように、瞑想により意識が超越して得られる境地なのだ。三昧こそ、瞑想により得られる、呼吸が静まった、超越した境地である。三昧サマーディを語るときは、瞑想の境地と補うべきだ。


        三 般若波羅蜜多の呪文


 プラジニャー・般若とは、智慧の意である。

 そして、智慧の完成(般若波羅蜜多、プラジニャー・パーラミタ)は、「般若経」の主題である。

 玄奘三蔵がインドから持ち帰ったお経のうち、「般若経」が最も多かったのは、智慧を得ることこそがお釈迦さまの教えの真髄であることを反映していると私は解した。

 しかし、漢訳経典では、六波羅蜜の「布施、戒律、忍耐、努力、三昧(禅定)、智慧の完成・プラジニャー・パーラミタ」の、「プラジニャー・パーラミタ」は訳すこと不能ということで、原語の響き「般若波羅蜜多」と表記するそうだ。

そ して、我が国で親しむ人が多い「般若心経」では、「般若波羅蜜多」は呪文となっている。

 私が思うに、布施を心がけ戒律を守り忍耐強く努力するのは意識して行うことであり、三昧の境地を楽しみ、知力を超越した潜在力(直感力)という智慧を得るのは瞑想によることである。そのゴールは解脱である。

 プラジニャー・パーラミタは原語の意味どおり「智慧の完成」と訳すべきである。


 私は、パーリ語の仏典の「スッタニパータ」で、「智慧の完成」という言葉を探したが見つからなかった。「智慧の完成」とは大乗仏教の用語のようである。

 お釈迦さまは、瞑想で智慧を得、清らかになって生きると言われている。(第一蛇の章 一〇アーラヴァカという神霊)

「豊かな智慧を得ること」が、「智慧を完成させる」となったのだろう。同じようなことだから、目くじら立てることはないと思うが、こうやってお釈迦さまの教えが形骸化していくのだろう。

 完成させるとなれば、その基準はどういうものか? と思うし、修行者は、日々、精進が続く中で、完成したなどという意識はないだろう、と私は思う。

「正しい瞑想」を失って、智慧の本質を見失っているのだ。

 また、お釈迦さまの頃は、「智慧を得る」ことがいわれて、「悟りを開く」とはいわなかったと思われる。お釈迦さまが悟りと言われた場面は少ないし、それも後世の脚色の可能性がある。と私は思う。

 後世の仏教では悟りという言葉が主役になったので、智慧の完成が呪文になっても、支障がなかったということだろう。





       第八章 瞑想の普及


        一 TM実践を継続する難しさ


 インドでは、仏教がすたれた後、ヒンズー教の中興の祖、シャンカラが全インドに瞑想を広めた。でも、やがて時が経つと、インドの大衆の信仰「親愛の道」から瞑想はなくなった。瞑想に入る繊細な技術が失われたのだ。

 しかし、シャンカラーチャーリアの導統は、ヒマラヤの山中で修行するヴェーダンタの歴代の聖者から弟子へ連綿と受け継がれ、瞑想の技術は純粋に伝えられた。

 師に導いてもらえば、努力なしに簡単に瞑想に入れる。しかし、旅行で何日も怠ったり、酒浸りになったりすれば、体は瞑想の入り方を忘れてしまう。瞑想の技術は繊細、微妙である。毎日規則正しく実践し体に定着させなければならない。

 また、修行者が瞑想の境地を高め、高次の意識状態に達するには、大変な意力と精進が要る。瞑想に練達した人は、睡眠時間が極度に少ないそうだ。その宗教的な精神性は、とうてい私などが真似できることではない。

 でも、私はこの瞑想を身につけて、はからずもお釈迦さまの教えの本質に触れていたことを、ありがたく思う。私は、いくつかの病を幸運にも乗り越え、無心にライフワークに打ち込める幸せな余生を送っている。

 精神の安定を得るほか、直感力という能力開発の技術としてこの瞑想に親しむ人は多い。実業家たちにも、この瞑想で直感力を養い成功をおさめた人がいるようだ。

 こんなにも有用なTMなら、なぜもっと広まらないのか? その価値を知った人は広めようと努力する。でも、周りの人の理解はなく、冷たくあしらわれる。

 ある国では刑務所の受刑者たちにTMを行わせたそうだ。軍隊に取り入れた国もあるようだ。

 きっと、成果は上げただろう。でも、それを導いた人が退くと熱意は失せ、それまでになるのだろう。

 荒廃している学校で子供たちに朝の一定時間、瞑想をさせる取り組みがある。映画界のデヴィッド・リンチ監督は基金を設け、世界各地の荒廃した学校へこの瞑想導入を行っている。

 体を病む病人に薬が処方されるように、精神的に追い詰められて苦しむ者にとっては、TMが最高の薬となる。そして、病状がよくなれば薬の服用を止めるように、抑圧された精神が解放されて自由になれば、TMを忘れてしまうのも当然ともいえる。

 しかし、TMは、ストレス解消の他に、直感力を培う働きがある。それを放棄する人は、もったいないことをしている。

 このTMにとっては飲酒が大敵である。体にアルコールが入っているとTMに入れない。お釈迦さまは飲酒を厳しく戒められた。(例えば、スッタニパータ第三九八頌)

 酒を飲まない人でも、しばらくTMをしてないと、自分ではTMに入れなくなるのだろう。

 日々TMに励む人は、TMをしないと落ち着かない。TMを覚えてから、疲れやすくなったと感じるのは、自分が精神的なストレスに敏感になっているからだ。心が疲れ、鈍重になりかかれば、すぐにTMで解消したいのだ。


      二 TMセンターの火を消してはならない


 マハリシは、師の死後、一九五八年に人類を精神的に復活させる「精神復活運動」を開始された。超越瞑想(TM)の実践を通して世界中の人々が生命の質を高めるようにと願われたのだ。

 このTMというのは、一人の聖者が始められ、ここまで世界中に広まったものである。

 TMを習った人の受講料によって、その基盤が成り立っている。

 教師たちの生活を経済的に支えなければならない。各地のTMセンターの建物の維持もお金がかかることである。毎月のわずかな会費で維持されているのだろう。

 私のように精神的に追い詰められた者が、いつでも頼れるように、このTMセンターの灯を消してはならない。

 マハリシは、二〇〇八年二月五日、九十一歳で亡くなられた。マハリシは、自らの死後に備え、TM教師の育成プログラムを確立し、各地にセンターを設けるよう指示されていた。 

 このような公益の事業は国家事業として取り上げて欲しいが、その道は簡単ではない。

 この瞑想はもともとはヒンズー教で伝わったものである。ヒンズー教というのはインドの宗教という意味で、多様な宗派から成っている。インドでは、仏教もその中に含まれるそうだ。

 マハリシは、この瞑想を世界中の異なる宗教の人々に広めるために、宗教色を払拭して、「存在の科学と生きる技術」という哲学を打ちたてた。

 とはいっても、この瞑想を、宗教ではないかと疑う人もいよう。そういう人はぜひ「超越瞑想」(マハリシ著、マハリシ総合教育研究所翻訳)を読んでほしいものだ。

 TMを、世の苦しんでいる人々に紹介したい。それには、精神科の医師たちにTMの理解を深めてもらいたいと願う。

 これまで多くの科学者たちが、マハリシのTMのことを研究している。その成果に触れれば、「存在の科学と生きる技術」ということが分かるだろう。 

                                 了


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― 新着の感想 ―
[良い点] 導入でSFかと思わせて仏教の核心へと入っていく。粋なストーリー展開だと思いました。寝る間もないほど仕事が忙しかったとのこと、それも瞑想に一役かっていたのかもしれませんね。貴重なお話、ありが…
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