①とあるメイドの一日
執事やメイドの朝は早い。主のために様々な仕事を行う彼らに惰眠を貪る時間などない。
それはベルベットの館でも同じだ。
これはまだアスト・ローゼンがアーロイン学院に入学する前の、ベルベットの館のとある一日に密着したお話である。
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~午前5時~
寝室にて1人のメイドが目を覚ます。目覚ましなど使用していない。魔法の類も同じく。
彼女はこの時間になると自然と体が目覚めるように「していた」。彼女にとって睡眠からの覚醒をコントロールすることなど造作もない。
その者の名はキリール・ストランカ。ベルベットの使用人の1人であり、館のメイド達を束ねるメイド長でもある。
彼女はたった今目覚めたはずなのにも関わらず少しの眠気も感じさせないテキパキとした動きで朝の身支度を整えてメイド服へと着替える。
「さて。仕事を始めましょうか」
キリールは扉を開き、自室を出た。
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~午前5時15分~
「「「おはようございます!!」」」
「はい。皆さんおはようございます」
ここは使用人達専用の大広間。
使用人達には仕事に入る前、朝会を行うためここへ一度全員が集まる時間が存在する。もちろんこの朝会に遅れることのないように使用人達は起床するのだ。
これに例外となるのは主であるベルベット。特別扱いをされているアスト。まだ子供であるミルフィアだけ。
執事やメイド達がキリールの前で背筋を伸ばして等間隔に整列している。
使用人達には「序列」があり、基本的に自分より位が上の使用人には従わなければいけないルールがある。とはいえ絶対の強制力があるわけではない。単に上司と部下みたいなものだ。
キリールの序列はかなり高い位置にあることで「メイド長」という仕事を任されているのだ。それに、彼女は使用人達からも尊敬されており誰一人として彼女に逆らおうなどという者はいない。
「では報告をお願いします」
「はっ。魔法騎士団のことですが……先日第一隊から情報がありました。ミリアドエリア8で不思議な魔力反応を検知したとのことです」
「なるほど。人間の国で『魔力』……ですか。きな臭いですね。では後ほどエリア8へ向かう調査隊を編成してください。構成は……3人チームで魔法騎士2人に魔女1人がいいですね」
「了解しました」
今行われているのは朝会の内の1つにある「報告会」。
使用人が行う仕事の1つに「諜報」がある。主の代わりに耳となって様々な情報を集めるのだ。
情報は立派な武器となる。事前に企みを潰すこともできれば相手との交渉材料にもなる。「知る」ことは「強さ」なのだ。
一通りの報告会が終了した後、本日の仕事の割り振りを行う。
「レーリアとアルミダは武器庫の掃除をお願いします」
「えー! キリール様、あそこ昨日すっごい散らかってましたよ! なんで今日の当番が私達なんですかー!」
「ベルベット様がまた変な武器作って全部無理やり押し込んでたせいだよぅ……キリール様、ベルベット様に一言言っておいてください……」
2人のメイドは文句を垂れるがキリールはそれを無視。武器庫の掃除が嫌なだけなので言いたいだけ言わせておいてやるのが一番の薬だ。
しかし、武器庫を「試作魔法武器のゴミ箱」と勘違いしている主も主である。アルミダの言うことは頭の隅に置いておこう。
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~午前7時~
今日のキリールの仕事は庭の掃除。箒を使って落ち葉を掃いていく。
魔法を使って楽に掃除を……と考えたいところだがこういった仕事をきちんと自分の体でこなすことでメイドとしての気構えを維持できる。楽を求めては堕落の一途を辿るだけだ。
「キリール」
「……フォア―ド、どうしましたか?」
庭の掃除中に話しかけてきたのは眼鏡をかけた、使用人序列4位の執事─フォア―ド。
「どうしたも何もない。アスト・ローゼンのことだ」
それを聞いてキリールはまたか、と内心で大きな溜息をついた。
「やはりベルベット様は本当にあの小僧を学院に入れる気なのだろうか……お前はどう思う?」
「その質問は昨日も聞きました。直接ベルベット様に聞かれては?」
「ベルベット様に直接聞きづらいことだからお前に聞いているのだ」
キリールはまた内心で溜息をつく。もうこの質問は「4回目」だ。
このフォア―ドという執事のベルベットへの忠誠心は使用人の中でも群を抜いている。だからこそ「人間」であるアストがベルベットへ近づくことを快く思っていない。
主に悪影響を及ぼすのではないか、と一々聞いてくるのである。そうなれば目の前で見えるように溜息をしないだけ褒めてほしいものだ。
「何度聞いても答えは変わりません。ベルベット様に直接聞いてください」
これも何度目かの解答。だが、イライラしていたのであろう。声に若干、イラつきが入っていた。
「だから……」
「うるさいです。さっさと仕事に戻ってください」
「……」
そこまで言ってようやくフォア―ドは館の中へ戻っていった。「ぐ……アスト・ローゼン……ベルベット様……ぐぬぬ……」と呻いたが放っておこう。面倒くさい。
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~午前7時30分~
「ミルフィア。起きてください」
この時間はメイドの1人であるミルフィアを起こす時間だ。
子供だからと5時に起こすことはしなかったが、それでも長々と寝させるわけではない。子供だからこそ早い時間に起きる習慣をつけておくのだ。
「むにゃむにゃ~。兄様~♡」
ゴロゴロとベッドの上で寝相の悪さを発揮しながらキリールを無視する。夢の中でアストでも出てきているのか。
「もう時間ですよ」
今度は声だけでなくユサユサと体も揺する。
「んむむ~、兄様こそばゆいですよ~♡ やんやんっ♡」
「私はアストさんではありませんよ」
ミルフィアは笑顔を浮かべて体をモゾモゾと動かす。何を勘違いしているのか起こしに来たキリールをアストだと思い込んで夢の中では居心地が良さそうだ。
こうなってはどうやっても起きない。なのでこの時のキリールの起こし方はいつも……「殺気」を当てることだ。
「……ッ!!」
少しチリ……ッ!と殺気をぶつけるとミルフィアはすぐさまベッドの上を飛び出しながら空中で別空間から剣の魔法武器─【ミドラージュ】を手に取り着地する。
「誰ですか!?………………あ、あれ?」
ミルフィアは一気に戦闘態勢に入り殺気を当てた者へ叫びをあげるが、キリールの姿を目に映すと拍子抜けしたようなポカンとした表情になる。
「起きましたね。では、着替えてから来てください」
「もーっ! その起こし方やめてくださいって言ったじゃないですかー!!」
抗議の声はもちろん無視。きっと明日も同じ起こし方が待っているだろう……。
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~午前7時40分~
この時間は洗濯物を干す時間。日が出ているこの時間に干すのが一番良い……なんてことは関係ない。
魔人には「熱を発生させて洗濯物を急速に乾かす魔法道具」が存在している。それを使えば朝に干そうが夜に干そうが変わらない。
だがベルベットやアスト、そして使用人達の洗濯物となればその数は膨大。道具の力より自然の力を借りた方が手間も省けるのだ。
「キリールさん!」
「……アストさんですか。おはようございます」
「あ……おはようございます」
洗濯物を干していたキリールの前に現れたのはアストだった。
アストはこの館で何かの仕事を任されているわけではない。起きた後は剣や魔法の修行をするなり、街へ出かけるなり、館の中でゴロゴロするなり自由だ。
それでもこの少年は拾ってもらっておいて館の中でゴロゴロして過ごすような図々しい心を持ち合わせていない。だから……
「僕も手伝いますよ」
これだ。アストは色んなところに行っては仕事を手伝おうとするのだ。
別に悪いことではない。しかし、使用人には仕事に対するプライドもある。仕事を奪われることは正直言って嬉しいことではないのだ。
「では、そこの袋の中にある物をお願いします。ここではなく室内に干していただけますか? 専用の部屋がありますので」
「は、はい! 任せてください!」
アストは意気揚々と、置いてあった特別な物が入ってそうな袋を手に取る。
中を拝見すると……
「ぶっ!!!! これって……!」
小さな、様々な色の衣類がたくさん。ハンカチのようにも見えるが……形状から微妙に違うとわかる。大体そんな大量のハンカチを干すとも思えない。
「全部女性のぱ、パンツじゃないですか!」
「パンツだけでなく、ブラジャーもありますよ」
「余計ダメですって!!」
顔を真っ赤にしてあたふたしている少年を見てキリールは心の中で笑う。それは滑稽だと思っている笑いではない。少年をからかって面白がっている笑いだ。
アストが慌てたせいで袋から一枚の下着が落ちた。必然的にアストの目にその下着が映る。レースが入った白のパンツだ。
「それは私のですね。まさか私の前で一発で引き当てるとは。アストさんは相当の変態ですね」
「ちがっ……違います!! 失礼しましたー!」
ピューッとアストは足早に逃げ出してしまった。キリールは袋回収して洗濯物を干す作業に戻る。
やはり、アストの反応は面白い。
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~午前10時~
朝食を済ませ、その後のこの時間はベルベットを起こす時間だ。起床には遅い時間だがベルベットは放っておけばまだまだ寝る。
「いい加減に起きてください。もう10時ですよ」
ベルベットの部屋に入るなりいきなりシーツをはぎ取る。相手は主だがミルフィアの時とは変わって容赦はない。そうしてパジャマ姿のベルベットが晒された。
ベッドに大の字になって眠るベルベットはそれでも起きない。それどころか心地よさそうな顔をしている。こっちはわざわざ起こしに来たというのに呑気なものだ。
「起きてください」
体を揺する……すると、
「んー!」
ベシッとキリールの頭を叩いて睡眠の邪魔をするなという意思を伝えてきた。それにはキリールもイラっときて、
ドゴンッッッッ!!!!とハンマーを振り下ろしたような音を出したチョップを主の頭へ繰り出した。
「いたー!! あ、頭! 頭陥没した! 絶対陥没したー!!」
ベッドの上でゴロンゴロンと泣きながら転がる主を無表情で見下ろす。
「起きましたね。では着替えてください」
「誰かさんが叩いてきたせいで無理ですー。頭痛くて立てませーん。今日一日寝ないと治りませーん」
「………………ちっ」
「今舌打ちしなかった!?!?!?」
主と使用人の関係性が破綻しかけているような気もするがキリールは変わらず起きろと威圧をかける。
それに観念してベルベットは大人しく着替えることにした。主が服を脱ぎ出したのでキリールは部屋を出ようとする。
さすがに着替えまでは手伝わない。使用人なら……と思うだろうがそこまでしては堕落し続けているこの主をさらなる堕落へと誘うだけだ。
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~午前11時~
「キリール」
キリールがベルベットや使用人達のお金の動きを計算している時、年老いた男の声がかけられた。その者は……
「なんでしょうか?……ルーガン様」
相手の名は『ルーガン・デミスケス』。人の優しそうな顔に眼鏡をかけた老人でありながらその背筋は真っ直ぐに伸び、その身に黒い執事服を纏っている。ルーガンもまた例にもれず使用人の1人なのだ。
ここのメイド長であるキリールですらベルベット同様に敬称をつける相手。それはルーガンがここの使用人につけられている「序列」においてキリールよりも上に位置しているからだ。
とはいえ、ルーガンの使用人序列は「1位」。メイドを束ねるキリールと同じく、執事を束ねる「執事長」であり、全使用人の頂点に立つ者。そんな者となればどの使用人も敬称をつけるのは当たり前だった。
「最近働きすぎに思えますぞ。街にでも出て少し休んできなさい」
ルーガンの提案はキリールに休息を与えようというもの。この館の中でキリールの仕事は山のようにある。多くの仕事をこなす彼女には休息が必要と思えたのだ。
「ですがまだまだ仕事が……」
「ほっほ。そう言わずに。それでは……そうですな。オルテア街に行って買い物をお願いしましょうか」
そう言ってルーガンは財布を渡してきた。思惑は読み取れる。仕事と称して息抜きさせようということだ。
断ることもできるだろうが……これ以上厚意を無駄にするわけにもいかない。
「わかりました。それでは」
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~12時~
キリールは私服に着替えて準備を整えた。メイド服のままでも良かったがルーガンがどうしても私服で行けと言うものだからそれに従うことにした。一体私服で行くことに何があるというのか。
そう思っていると、
「あ、キリールさん! お待たせしました!」
「アストさん? お待たせ……というのは?」
「え? ルーガンさんがキリールさんと街に出かけて来いって……」
そこまで聞いた時、キリールは「なるほど」と全て理解した。
どうにもあの方は自分とこの少年に変な期待をしている。男女の……そんなことを。主のこともあるというのに。それを差し置いて、だ。
溜息をつきたい気持ちを抑えながらキリールは靴を履く。
「では、行きましょうか」
「はいっ!」
オルテア街に着くとルーガンからもらったメモを開く。そこには買ってきて欲しい物のリストが書かれている。
さて、買う物は……
「はぁ……」
それを見た時、さすがに溜息が出てしまった。メモには……『ゆっくりと休息を』とあったのだ。こんなものを見れば溜息が出てしまうのも仕方ない。
しかし、ここまで来て用はないかと引き返すのも正解ではない。どうせ戻ってもルーガンは良い顔をしないだろう。またどこかで同じことが起こるだけだ。
それならば……
「アストさん。食事でもしましょうか」
「わかりました」
従って、遊ぶしかないようだ。
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~14:30~
「キリールさん! これすごいですよ!」
アストはデカい熊のヌイグルミを見せてきて子供のようにはしゃいでいる。
食事を済ませてからは適当に店に寄っている。といってもどこに寄っていいものかと困っていたので今も玩具が売ってある子供向けの店に寄る始末だ。
「買いましょうか?」
「い、いやいや! 僕はいいですよ。キリールさんはどうですか?って意味で見せたんですけど……。キリールさんもこういうの好きかと」
「私が? 冗談で言っているんですか? 私がヌイグルミを愛でるような人に見えますか?」
買おうかと言ったのは冗談でいつものからかいの1つであったがまさかそこから自分にオススメされているとは思いもしなかった。
いつも無表情で、面白いところなんか1つもない、実は周りの使用人から少しだけ恐れられてもいる自分に何を薦めているのか。あちらもこっちをからかってきているのか……と疑るのが普通だが……
「?」
アストは何もわかっていないという顔をしている。本気というわけだ。
この少年はいつもこうなのだ。
人の内面を覗こうとしてそれにわざわざ触れようとする。見かけで判断して何かを否定したりしない。
無垢で、真っ白な人だ。自分の主であるベルベットが好きな人であり、ミルフィアも懐いている人である。
(ベルベット様はこんなところに惚れたのでしょうか?)
ほんのちょっぴり。納得してしまった自分がそこにいた。
「ではアストさんがオススメしてくれたことですし、購入してみましょうか」
「あ、僕が出しますよ。自分が薦めましたから」
「……そうですか」
結局、熊のヌイグルミを購入してもらった。
お小遣い制である彼の手持ちのお金なんて、きっと今にも消えるくらい少ないはずなのに。彼はそれをまったく顔に出さず。
今、自分がどんな表情をしているのかはわからない。
♦
~17:00~
十分にオルテア街で羽を伸ばした。さぁここからは仕事に集中しなければ。
この時間は戦闘訓練だ。
戦闘訓練……もちろんキリールは教える側だが。
「うっ!!」
苦悶の声を漏らして少女は地に転がされる。その少女はミルフィア。
「早く立ちなさい」
「は、はい……」
ミルフィアは細い脚で傷ついた体を支える。剣を構えようとするが……
「構えるのが遅い」
掌底を胸に打ち込んでまたも地に転がす。起き上がれば倒れさせ、それを何度もだ。
主を守るため、使用人なら子供であろうと戦闘のことで甘やかしはしない。朝、他の者より眠ることを許そうがこれだけはダメだ。
ミルフィアはすぐに起き上がり、剣でキリールに襲い掛かる。
「もっと殺すつもりで攻めなさい」
ミルフィアの手首を押さえて攻撃の手を潰し、そのまま蹴り飛ばした。
使用人達は皆、地獄のような訓練の果てに強き力を得ている。キリールとの訓練は一際キツイと使用人の間で噂されているが、それを受けているミルフィアだからこそこの歳で序列7位とされるほどの力を身に付けているのだ。
主の剣となり盾となる。皆、その想いに一切の曇りはない。
♦
~19:30~
ミルフィアの訓練を終えると夕食の時間だ。
ミルフィアは訓練の傷の治療を済ませるとすぐに厨房へと走っていった。彼女は料理を任されている使用人を束ねるシェフだ。早く向かわねば厨房全体に迷惑がかかる。
キリールはベルベット用の食事テーブルの掃除と配膳を担当している。
「ねーねー。これニンジン入ってないわよね」
「今日もしっかり入っていますよ」
「なんでよー! 入れるなって言ったでしょ!」
「駄々こねてないでさっさと食べてください」
「もがもがー!」
ベルベットは嫌いな物があると一切手を付けようとしない。そんな時はキリールが無理やりベルベットの口にねじ込んでいる。……何かとここの主は使用人達に好き放題やられているような気はするがそれは気のせいだ。多分。
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~21:00~
主が食事を終え、使用人達も食事を終えるとお風呂の時間だ。
ベルベットの館には大勢の人が一斉に入れる「大浴場」というものが存在する。そこではクレーターのようにとても大きなバスタブにお湯を溜めて人が浸かるのだ。
何やら「人間」の間ではこれが普通のようだ。昔、ベルベットが人間の国行った時にこの文化を持ち帰ったとかでこの館でもそれが採用されている。
確かに使用人達に浴室を用意しては何人かで使うにしても部屋数はバカにならない。こうしてみれば面白いものだ。
キリールは男女分けられている大浴場の「女」の入り口へ。
エプロンドレスを脱いで肢体を露わするとタオルを持って中に入る。
中では女性の使用人達が実際に「入浴」していた。きゃっきゃっと仕事中にはない自由の時間を各々楽しんでいる。
「あ、キリール様!」
「うわ~いっつも思うけどキリール様ってとっても肌綺麗ですよね……」
メイド長であるキリールが入って来るなり色々な声が飛んでくる。タオルで要所を隠しているとはいえ裸を見られるのはあまり気分が良くない。けれどここでそれを言うのは間違っているだろう。目に入ってしまうし空気もぶち壊すことになる。ここくらいは自由にしてあげたい。
「失礼します」
ちゃぷ……と溜めてあるお湯の中に入る。一瞬、熱さに体が驚くが、次にはじんわりと体を温めていく。この感触を感じる度に「これは良いものだ」と心で感想が漏れてしまう。
「あー! もう皆入ってるじゃないですかー!」
大きなドアの音を立てて中に入ってきたのは一糸纏わぬ生まれたままの姿のミルフィアだ。
早く入浴したいのかペタペタペタ!!と走ってくるが、途中で盛大に滑って仰向けに転ぶ。「いたー!」と頭を押さえて泣いていた。
魔力を纏っているとはいえ、ああも見事に頭を打っては少しばかり痛みもあるだろう。
「走ると危険ですよ」
「ううぅぅ……はい……」
しょんぼりとして頭をさすりながらゆっくり入浴してきた。通常の浴室でもそうだが水に濡れたところは滑りやすい。ここでも移動には気を付けなければならないのは変わらない。
「あー! もう皆入ってるー!」
と、今度は……なんとベルベットが入ってきた。
誤解してはならないがもちろんベルベット専用の浴室が用意されている。が、1人は寂しいということでたまーにベルベットはこっちの大浴場に入りに来るのだ。今日もそういうことだろう。
ミルフィアと同じように早く入浴したいのかペタペタペタ!と走ってくるが途中でズテーン!と盛大に滑って仰向けに転ぶ。「いたぁー!」と頭を押さえて泣いていた。
使用人達も「ベルベット様ー!」「きゃー!」「大丈夫ですか!?」と悲鳴を上げる。
(アホですね……)
キリールは子供と変わらない主の姿に呆れながらも救出に向かう使用人達に続いた。
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~22:00~
この時間になるとベルベットは自室に籠って魔法研究をしているので主の動向を気にしなくて済むようになる。それでも使用人の細かな仕事は残っているがほとんどは用意されている使用人用の各自室で自由時間となっている。
キリールはこの時間帯は基本的に全体の仕事達成度を見たりしている。使用人は100人以上いてそれぞれが色々な仕事を任されているのでなかなか管理が難しい。
あってはならないことだがどこかでサボっていないかなどを確認しないといけない。なので各自に毎日報告書を作らせてからこうして時間を取って全て目を通す。明日の朝、自分の目で現場を確かめもする。
その報告書の確認作業が終われば今度は自分の魔法武器の手入れ。これは使用人のルールで、毎日武器を手入れして不備がないようにしないといけなくなっている。肝心の時に壊れては元も子もない。
魔法武器に傷はないか? 流れている魔力に不調はないか? 使用に違和感はないか?
それらをしっかりと見直すことで初めて戦闘を「普通に行う」ことができるのだ。武器の手入れを怠る者はすでに戦闘で後れを取っていると言ってもいい。
キリールの使う武器は「双剣」なのでその分大変なのだが、それを面倒くさいと思うほど愚かではない。
武器の手入れを行う机の上には今日アストから貰った熊のヌイグルミが置かれている。どんな魔物をモチーフにした物かは忘れてしまった。けれどこれを見る度に今日のことを思い出すだろう。
(さて……そろそろ寝ましょうか)
手入れが終わり、時刻はちょうど0:00。キリールはベッドに入り睡眠をとる。
明日も5時から仕事の始まりだ。仕事漬けで大変な毎日である。
そう思うと確かに、たまには出かけてみるのも息抜きになって悪くなかった。
またあの少年に付き合ってもらおうか。
それを楽しみにしている自分が、心のどこかにはいた。




