特別編『自壊の救世主』(2) 「そして少年は空腹を知る」
「ゲイル。今日はお散歩しよっか」
「んぁ……?」
数日経っての朝。そんな呑気な声で起こされる。
自分が寝ている間に母はもう支度を済ませてしまっている。笑顔でテキパキと自分の毛布をはぎ取って出発の準備を済ませる。
母は自分の体の具合が良い時にはこうして自分を散歩に連れ出す。
弱っている時に家に伏している時の反動なのだろうが、それでも大人しく寝ていろと言いたくなる。
こうなれば何を言っても連れ出されるので、文句を言いだけ疲れるだけだ。従うしかない。
「ふんふんふーん♪」
二人で横に並びながら川の近くなんかを歩いている。……のだが、母は自分の手を固く握って上機嫌に鼻歌の始末。
「……おい。恥ずかしいから手握るのやめろ」
「もう。お母さんと手握ることのどこが恥ずかしいの」
「ちっ」
「……その舌打ちの癖をやめた方がいいと思うけど」
ミレーユは息子の態度にげんなりとする。せっかく散歩に出たのにさんさんと輝く朝日を黒く塗りつぶすんじゃないかと思うくらいに酷く嫌そうな顔をしている。悲しい。
「優しい子は~光の子~♪ 皆を照らす輝く子~♪」
「なんだそりゃ」
「私の自作歌。名前は『我が息子の歌』」
「おいやめろ」
まさか知らぬうちに自分の歌が作られていたとは。油断も隙も無い。このままでは上機嫌になる度に黒歴史を量産される。
「えぇ~、我ながら良いと思ったのに」
「歌詞はともかく音痴を治せ」
「え!?」
まるで自分がそうだと知らなかったような反応。これだから……
そんなこんなで日々を生き抜く。空腹や貧しさで辛い日もあれば今日みたいに笑う日もあった。自分は笑顔なんか得意ではないが、心は少しだけでも穏やかだったとは、思う。
「今日も来たのかい」
「ドーナツくれ」
またあの婆さんがいるドーナツ屋に行き、今度は単刀直入に遠慮なく言った。その態度に婆さんは溜息をつく。
「面の皮が厚くなったねぇ。坊主がクソ坊主になったよまったく」
「じゃあ婆さんからクソババアに昇格させてやろうか?」
「うるさいね。ほら、食いな。腹満たしてちょっとはその悪い口を直したらどうだね」
「うっせぇ」
受け取ったドーナツを半分に割って、片方にかぶりつく。
しばらくこの婆さんのドーナツを食ってるが、味は大して美味くなくても今や貴重な栄養源になっているのだ。こんなことを言えば殴られそうだが。
「つーか、ここ儲かってんのか。悲しくなるくらいにボロっちぃな」
「余計なお世話だね。腹膨れてそんなことを言う余裕ができたかい」
ふんと鼻を鳴らして店の前に椅子を出して座る。俺もドーナツを食い終わりペロっと指を舐めて一息をついた。
「ここはね。死んだ主人が残した店なんだ」
「主人?」
「ああ。とうとう自分で売ろうとするほどドーナツが好きでね。あたしゃ甘いもんなんか好きじゃないから昔は困ったもんさ」
婆さんは昔を思い出して、心底嫌そうな顔をしていた。それだけ甘いものが得意じゃなかったのか。それでこの店を任されているのだ。それは……しんどそうだな。
「おい。その話、長いのか?」
「あんた人のドーナツをタダで食いまくってるんだからババアの昔話くらい聞きな。…………んで、その主人が言うんだ。『お前の作るドーナツが世界で一番うまい』ってね」
「なるほどな。それが……店を続ける理由ってわけか」
死んだ主人が好きだったもの。その遺志やなんかを受け継いで店を続けているわけだ。まぁありがちってものだ。
「……わからん」
「はぁ?」
「さっきも言った通りドーナツ屋なんて主人がいなくなったら即刻やめてやろうと思ったよ。こんな好きでもない物売ってる店なんてね。けどね……なんでか、やめられないのさ」
「意味わかんねぇ」
「あたしも、意味がわからん」
話が噛み合っているのか噛み合っていないのか。この婆さんはいよいよボケたのかと疑ってしまいそうだ。
お金の問題じゃなければ店なんて辞めたきゃいつでも辞められそうだとは思うが。それも、儲かってなさそうなボロボロの店なんて。
「自分のドーナツの味も、知らん。ただ主人が『うまい』って言うから作ってるだけで。レシピ見て試しに作って、味見もしたことがない」
「ひでぇドーナツ屋だな」
「ああ、そうさ。人気もなーんもない酷い店さ。まさにクソドーナツ屋だね」
婆さんはそう言って、どこか何も無い空間だけを見つめる。
「それなのに、やめられないんだ……」
「……」
ゲイルも言葉は出ない。感想も、変わらない。変わらず、意味がわからない。
なのに、言葉が出なかったのだ。
最後に家を帰る時、
「明日も来るんだろ」
と、聞いてきたので。
「俺しか客いねえだろこんな店」
「それは言えてるね。ま、あんたは客ですらないけどね」
婆さんはニッコリと笑っていた。続ける理由もわからない、人気もないドーナツ屋。
意味がわからない……
♦
ふーっと息を吐いてさっきのドーナツ屋に負けず劣らずのボロボロな家に帰ると、異変に気付く。
扉が何者かに破壊されていた。まるで乱暴に蹴りつけて破ったような。
心臓がバクバクと鳴って耳障りなほど体中に響く。持っていたドーナツの袋を投げ捨てて走った。
「おい!! な、なにが……!」
家の中に入ると、中は荒らされていた。ぐしゃぐしゃに破壊されて服もあちらこちらに散っている。
その中で一番目に入ったのは、頭から血を流している母──ミレーユ・ガーレスタだった。
「しっかりしろ! おい!」
「う……」
母は小さな声をあげて恐る恐る目を開ける。相手が自分の息子だと知ると脱力して安堵した。
頭から出ている血は、どうやら誰かに突き飛ばされてどこかに頭をぶつけたようだ。元から体が弱く細いので強い力で突き飛ばされれば簡単に飛ぶ。見ているだけで心配になるほどなのだから。
「ごめんねゲイル……わたしの、せいで……」
それを聞いた時、確信した。これはあの金貸しのせいだと。
また。まただ。嵐のように、来ては全部ぶっ壊して去っていく。
どれだけ楽しいことがあったって。日々負けないように生きたって。結局、金がない俺達は誰かに支配されて生きているのだ。いつ割れるともしれない薄氷の上で無理して笑っているにすぎない。その足場の氷は、自分達ではなく他の誰かが容易く割ってくる。
「ごめんね……ごめんね……」
「謝んな。悪いのはあいつらって言ってるだろうが……!」
どうして謝る。
息子を生かすために、苦肉の策として金を借りた。本当は借りたくなかっただろうに。自分一人生きるだけならいくらでも俺みたいな一緒にいて楽しくもない嫌なガキ捨てられただろうに。
何も悪いことはしていない。生きるために必死だっただけ。そして必死に息子を守っているだけ。それなのにどうして俺に謝る。
意味がわからねぇ。いみがわからねぇ。ああ、いみが、わからねぇよ。
散々降り積もったイライラと。自分の弱さと。母への申し訳なさが。
自分の中でどうしようもないくらい膨らんで、それが破裂した時。
「空腹」は止まらなく、決して得られない自由やら何やらを誰かに要求し始めていることを認知できなかった。
俺は母を寝かせて、壊れた扉をなんとか入口に立てかけた。
歩を始める。歩く。そして走る。
ああ。ああ。ああ。ああ。
ああ……たまらなく、腹が減った。




