161話 地獄で一歩を踏める者
「それでは本日より魔力増幅訓練に入ります」
今、僕は動きやすい運動用の服に着替えている。キリールさんと……それとなぜか、
「兄様、頑張ってくださいねー!」
ミルフィアもそこにいた。同じく2人もいつものメイド服ではなく運動用の服に着替えている。
「この訓練は貴方が過去に経験したどの訓練よりも、厳しいと思っていてください。正直、慣れるまでは地獄です」
今から何をするのか皆目見当もつかないが、キリールさんの言葉で僕は喉をゴクリと鳴らす。地獄……か。
いや、望むところだ。僕にはできないことがあまりにも多すぎる。「普通の魔法騎士」にも劣っているんだ。
そのために、皆が知らないことを一つでも多く吸収して強くならなくちゃいけない。むしろ地獄でなくては困る。
「まずは『ファルス』を発動してください」
指示通り、僕はもはや相棒とも言うべき初歩魔法『ファルス』を唱える。
一気に身体強化を施され、これからの訓練に準備万端と胸も高鳴る。
「それでは、その状態を保ったままランニングです」
「はい!…………え?」
ら、ランニング?
「それからは……?」
「? ランニングだけですが」
はい??? 本当にランニングだけ?
そんなバカな。それのどこが地獄だというのだ。
『ファルス』を発動している間は体力だって増加する。かなりの長距離を休みなしで走ることが可能だ。走るだけなんて訓練にもならない。正直に言って、時間の無駄にしかならないと思う。
「ちなみに……どれくらいの距離を走るんですか?」
「距離?」
キリールさんは首を傾げる。
え?
「貴方が血反吐を吐いてくたばるまで。どこまでも。永遠に」
「くた、ばる……?」
「走っている途中に『ファルス』の効果が切れればすぐにかけ直す。それを魔力が続くまで何度も繰り返し、貴方が魔力欠乏状態になるまで走り続けます」
は……!? な、なんだそれは。
訓練なんてものじゃない。ただの拷問じゃないか……!
体を痛めつけるだけ痛めつけて死の淵で苦しめと言っているのと何も変わらない。
「魔力欠乏になれば、体はさらに多くの魔力を受け入れられるようになろうとして器を大きくする。それと走ることで体力増加を狙った訓練です。私達使用人に採用されているちゃんとしたトレーニングメニューです」
「兄様。これは本当に辛いですよ……」
言葉だけで圧倒されてもう足が重くなってくる。
待て。地獄を望むところと言ったのは誰だ。そうだ。強くならなくちゃいけないんだ。
こんなところで何を弱気になろうとしているんだ。これでも初歩だ。むしろ早く慣れなきゃいけないことなんだ。
「わかりました……やります」
♦
「は…………かは………はぁ……は……!」
汗はシャワーを浴びた後のよう。息もかすれ、纏っている魔力は維持することすら難しく体から漏れ出ているような状況。足はいくつもの重りを括りつけられているかのごとくズシリと地に縛りついている。
それでも、なんとか、走り続ける。
現在、走り続けて1273kmを突破したところだった。
「ふぁ……ふ、『ファルス』……」
『ファルス』もかれこれ40回以上かけ直している。
これまでの戦いで成長した僕でも、もう魔力が……
「がっ…………お、え……!」
僕は突如膝をつき、喉からせり上がってくるものを盛大に吐いた。
とうとう魔力欠乏状態になってしまった。
それに加え、身体強化がなくなったせいでここまでの地獄の苦しみが一気に襲い掛かってきたのだ。
「大丈夫ですか兄様!」
そんな情けない様子の僕へミルフィアが駆け寄る。キリールさんも同じく。
(嘘だろ……2人共、全然疲れてない!?)
ミルフィアも、キリールさんも、汗一つすら浮かんでいない。まるでさっきまで読書でもしていたような落ち着いた表情。この訓練が、苦にもなっていない何よりの証拠だ。
思えば2人の『ファルス』は……まだ1回すらかけ直されていなかった。まだまだ効力を失っていないのだ。
信じられない。これは「魔人」と「人間」の差ではないだろう。きっとカナリアやライハだって僕ほどではないにしろ1000km以上も走っていれば多く『ファルス』をかけ直すことになるはずだ。
単純に、潜り抜けてきた「訓練」としての地獄の数が違う。
「兄様、お水です。ゆっくりと飲んでください」
ミルフィアは自分の膝に倒れているアストの頭を乗せて、持ってきていた水の飲み口を彼の口へと運ぶ。
その時、アストは見てしまった。
キリールの顔を。
自分に失望したような表情。
「この程度でもう終わりですか?」と言いたげな冷めた顔。
それを見た時、アストは自然とミルフィアの水を持った腕を跳ねのけていた。
そのまま無理をして立ち上がり、
「はぁー……はぁー……ふ、ファ……ルス……!」
魔力欠乏状態に突入してからの魔法発動。
体は警告を鳴らし、その上で宿主に従うため緊急措置として絞りに絞ってなんとか捻出した残りかすの魔力を使い魔法起動。
その瞬間、体には地獄を越えたさらなる激痛が襲い来る。
今度は吐瀉物ではなく血を盛大にぶちまけそうな勢いで体の中の内臓がかき混ぜられた感覚の吐き気が僕を揺さぶる。
足は疲れで震えるどころか、「もう立つな、立ってくれるな」と僕に訴えかけるくらいにミシミシと悲鳴を上げる。
魔力欠乏状態で無理に魔法を発動することは死ぬ危険があるほどの狂った行為。狂気の沙汰だ。
だが、
「まだ……やれます……! 僕は、やれる……!!」
僕は折れない。折れてはならない。
アルカディアよりも強くなる。世界を救う。
そんな奴が、こんな走って魔力欠乏になったくらいでもう今日は終わりにしましょうだなんて口が裂けても言えるわけないだろ……!
今、目の前にいるミルフィアやキリールさんだって僕よりも遥か、遥か、背中すら見えないほどの高みにいる。
それでもなお、さらに先にもっと強い人達がこれから僕の敵となるかもしれない。
そしてそのさらに、さらに、さらに先。
そこに、アルカディアはいる。
もう、背中が見えないだとか、そんな次元じゃない。どこにいるのかさえ、どこで待っているのかさえ、見当すらつかない。
それに、追いつくんだ。
早く、高みに登るんだ。
少しでも早く、皆と同じ場所で戦えるようになるんだ!
諦めるな。死ぬ地獄からさらにもう一歩だけでも踏み進め。
「では、続けましょうか」
キリールは踵を返してランニングを再開する。
僕もそれに続き、ミルフィアはアストを気にしながら横に並走する形で続いた。
しかし、キリールは胸中で「よし……」とホッとした声を落とす。
この訓練、実はただ魔力欠乏になっただけでは急激な魔力の増加など見込めない。
今回の、真の訓練とは……「魔力欠乏状態からさらに魔法を発動すること」
そうすることで体の中の魔力の器は劇的に成長する。
無論1回だけでは爆発的とは言えないが、それでも元々魔力が少ないアストからすれば一気に器が倍加するほどの効果だ。
それほどにこの自殺行為はアストに意味があった。
そして、あそこで心が折れた時にはもう二度とキリールはアストを鍛えることはなかった。
この程度、これから魔法騎士として戦いを行っていく者からすれば地獄とも思えない。
もっと、地獄はある。
魔力欠乏になった状態で、仲間の命がかかった一瞬。
国が滅ぶほどの一撃を阻止できるかの一瞬。
自分よりも格上の相手の首をもう少しで取れるかという一瞬。
そこで、「もう力が残ってなかったから」といって諦められる者ではダメだ。
そこで、限界を超えて一歩踏める者でなくては。
この歪み切った残酷な世界を救う、資格すらない。
ミルフィアもこの訓練を潜り抜けたこともあって、それは知っていた。
結果、試すようなことになってしまったが、先の水はもちろん彼を心配しての行動だ。
今回ついてきたのも、彼の訓練を見届けるため。
彼が成長するところを。何かを乗り越えていくところを。
たとえ必要なくとも、邪魔だろうとも、支えようと思ったからだ。




