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忘れ物をしたと気付いたのは、登校時の成り行きから一緒に下校していた浅井のクソどうでもいい反抗期の妹の話が中盤まで差し掛かった頃だった。
財布がない。カバンのチャックに付けていたはずの財布が、いつの間にか無くなっている。今日は学食の食券を買う時に使ったから、恐らく食堂か教室にあるだろう。
俺が全く興味を示さなくてもなお妹についての愚痴を続ける浅井に別れを告げ、なるべく目立たないように通学路を逆走する(走ってる時点で目立つけれども)。
不思議そうにこちらを眺める同級生の視線が、体の隅々に突き刺さって痛かった。
浅井に別れを告げてからおよそ十分が経過し、高校生活史上最大の辱めを受けつつも、なんとか1年3組の教室に辿り着いた。
試験前でもなかったため殆どの生徒が下校している廊下は静かで、窓から差し込んでくる夕日も相まって、なんだかロマンチックな雰囲気を醸し出していた。
ドアノブに手を伸ばす。誰か残っていると気まずいから、誰もいないといいのだが...
少し遠慮気味にドアを開けると、悪い予想は当たるもので、教室の中心で1人佇んでいる女子生徒を発見してしまった。当然ドアの音に反応して振り向いたその女子生徒はこちらの方を向く。目が合う。
うわあ気まずっ。しかし、いまこそ俺のコミュ能力の見せ所だ。
「いやあ、財布忘れちゃって。今日昼食堂だったからさ」
なるべく明るい声を作りながら言って、同時に自分の席の方に近づく。よし。導入は完璧だ。
「多分机の中に入ってると思うんだけど...おっと、盗まないでよ。結構な大金が入ってるからね。盗まれると今月の生活がーー」
冗談混じりに話を続けながら、歩みを早めて女子生徒の前を通過し、自分の座席の方に進んでいく。これで財布を取ってさっさと家に帰ればすべて終わり...
いつものように平穏な帰り道が、俺を待ってくれているはずだった。
が、その時。体のバランスが急に後ろに崩れた。突然のことに体の制御が効かなくなり、自分のを含めた周囲の机、椅子を蹴飛ばしてしまう。ガタガタガタっと、耳障りな轟音が教室中に鳴り響いた。
数秒後、自分の目の前に女子生徒の顔がある事と、制服の襟が彼女によって掴まれ、机の上に押さえつけられていることが分かった。
そこからしばらく沈黙が続き、2人でなぜか見つめ合う。黒がベースながらも、若干青色が混じっている目がこちらを舐めるように凝視していた。
すまない。見つめ合ってるんじゃなくて、一方的に観察されてるだけだった。
その後もそんな時間が続き、俺は特に抵抗するでもなく、ただただ困惑しながら無事に帰れることを祈っていた。こういう時に騒いだり抵抗したりすると、逆効果だってテレビのクマに襲われた時の対処法特集で言ってたからな、うん。
「......あなた、名はなんという」
沈黙の時間は5分ほど続いただろうか。女子生徒がようやく口を開く。
「名...?名前は南雲だけど」
「現世の名ではない。旧名の事を言っている」
......????この人が何を言っているのか俺には全く理解できないのだが、この表情の真剣さからして、冗談を言っているわけではないんだろう。言葉に詰まる。
いやもちろん、俺としては冗談であってほしいのだが...
「ここまで言っても分からないか。『第3世界線』での名の事を言っている。...誰かに監視されている可能性もあるのだから、ここまで言わせないで欲しい」
第3世界線とは。いや、パラレルワールドの事だってのは何となく分かるんだが、
「第2世界線はどこにいったんだ」
「第2世界線は既に消失した。あそこは『能力』の制御もままならない人が多かったから、仕方がなかった。賛否両論あるが、私は『彼』の判断は正しかったと思っている」
まるで暗記でもしていたかのように、スラスラと事の顛末を話すその様は、テスト直前に世界史における出来事について因果関係付きでドヤ顔で解説しているインテリ気取りのまさにそれである。
やられてイライラしない分、まだこちらの方がマシかもしれないが。
「それで、『第3世界線』でのあなたの名はなんという?」
話題が再び第3世界線とやらに戻る。と、言われても。俺が生きているこの世界線以外、俺はどの世界線も知らないのだが...
「あー、その......すまんが俺はこの世界でしか生きてないから、『第3世界線』での名前とかは無い。そういった類の奴を探してるなら、多分人違いだ...」
言うと女子生徒は、左右に首を捻って難しい顔をする。そして数秒後、急に合点が言ったような顔に変わる。
「なるほど、するとまだ『覚醒』てないということか。了解した。ならば仕方ない。...引き止めてすまなかった」
制服の襟から女子生徒の腕が離れる。
人違い自体は解消されてないっぽいが、取り敢えず自由には動けるようになった。とりあえずここはさっさと逃げよう。こいつは恐らく、いや確実に、関わっちゃいけない感じの奴......もっと具体的に言えば、哀れな中二病患者さんだ。
さっき襟を掴まれた拍子に床に落としたカバンを拾い上げ、散らかっている机椅子をアバウトながらもだいたい元の位置に戻す。そして足早に教室から退散...といったところで、再び女子生徒の声が聞こえた。
「私の名は、間宮 司。『第3世界線』では、『漆黒龍星』と呼ばれている」
間宮...司?というと、浅井が朝話していた保健室登校とやらの生徒か?......残念だったな浅井。容姿に関しては確かに申し分ないと思うが、性格はアレだったようだぞ。
残念なものを見る目で間宮を見つめていると、考えていることがバレたのか鋭い目で見つめ返される。思わず目を逸らしてしまう。
「そしてあなたとは、『第3世界線』で既に邂逅を果たしている。今はまだ、『覚醒』ていないようだが...まあ、それもまた一興。あなたが記憶を取り戻すまで、この身体での生活を楽しませてもらう」
間宮はニヤリと、不敵な笑みを浮かべる。
えぇ、結局俺も第3世界線とやらの住人の設定なのかよ。なんて呼ばれてるんだろうか。この貧弱そうな間宮ですら「だーくねすどらぐーん」なんだから俺は...いや、よそう。考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
「では、さらばだ」
「だーくねすどらぐーん」間宮に怪盗の去り際のような別れを告げられ、今度こそ教室を後にする。
さっきまで夕日の光輝いていた空は、いつの間にかすっかり暗くなっていた。
ああ、なんかよく分からないが、災難な1日だったなあ。まだ蒸し暑い通学路を、1人寂しく歩く。
肝心の財布の回収を忘れていたのに気付いたのは、ちょうど家に着いた頃だった。
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お腹すいたので夜食食べてきます。