007 隠し事
「特におかしなところはないですよね……」
リビングで静かに本を読むエレンを盗み見ながら、リリアンヌは呟く。
一体どうしてリリアンヌがこんなことをしているかと言うと、話は数日前にまで遡る。
◇ ◇
「エレンさんについて、ですか?」
「ああ。あいつが普段どんな生活してるのか教えてくれないか?」
リリアンヌが休み時間を過ごしていると、ラクスが声をかけてくる。
それもちょうどエレンが手洗いに向かったのを見計らったようなタイミングだとリリアンヌも思ったが、どうやらその通りだったらしい。
「どんな生活をしているかと聞かれても、迷惑になるようなことは決してせず、いつも周りに気を遣ってくれていますよ。家の者からの評価もとても高いですし。ただやはり貴族の生活は慣れないとよくぼやいています」
「……そうか。だとするとやはり実力面で何か事情があるのか」
リリアンヌの答えにラクスは何やら考え込むようにぶつぶつ呟く。
「エレンさんがどうかしたんですか?」
さすがに不審に思ったリリアンヌが遠慮がちに聞いてみる。
ラクスは逡巡するような仕草を見せるが、すぐに何かを覚悟したような顔をリリアンヌへと向ける。
「実はだな……」
「……確かによく考えてみればおかしいですね」
今回の留学がおかしいということについてはリリアンヌもラクスに同意せざるを得ない。
リリアンヌは自分の家が国内でどういう立場にあるのか十分に理解している。
そしてそんなリュドミラ家が留学先の宿泊先になるなんてことは今まで決してなかった。
以前、どこかの国の皇太子がアニビア国を訪れた際に、リュドミラ家とは別の公爵家が応対したというのは聞いたことがある。
しかしつまりそれはエレンさんが他国の王族と同等、もしくはそれ以上の待遇を受けるだけに値する人物であるということだ。
「ただやはりリリアンヌの話を聞く限りではエレンが身分を隠した大貴族、という線はなさそうだな」
「そう、ですね」
リュドミラ家で過ごすエレンは、公爵であるリュドミラ家に恥じないように貴族の振る舞いを覚えようと努力している。
リリアンヌにはそれが演技であるようには見えなかった。
「だとするとエレンさんは相当な実力者ということでしょうか?」
二択の内の一つの可能性が否定された今、残されたのはその可能性しかない。
しかしリリアンヌの言葉にラクスは難しそうな顔で唸る。
「そうか。あの時リリアンヌはいなかったんだったな」
「あの時?」
「ああ。エレンが編入してきた初日の昼休みだよ」
「あ、あぁ。その時ですか」
少しだけ恥ずかしい思いをした日でもあったリリアンヌは曖昧に頷く。
確かにリリアンヌはあの日、エレンたちが昼休みに楽しそうに話をしているのは知っていたが、どんな内容を話しているのかまではあまり知らなかった。
「あの日、エレンはこう言ったんだ。『僕は精々、中級魔法が限界だよ』って」
「え、でもそれじゃあ……」
「ああ。おかしいんだよ」
エレンが本当に貴族ではないのであれば、つまりは相当な実力者なのだろうとリリアンヌは考えていた。
しかし今、それが否定された。
でもそれではラクスの言う通り、エレンがどうしてこのような好待遇で留学生として迎えられているのか説明できない。
「俺はこの留学の裏に何か隠されてるんじゃないかって思ってる」
「それは一体……」
「今はまだ分からん。でも少なくともリュドミラ家の当主は何か知ってると思ってるんだがな」
「お父様が、ですか?」
「さすがにエレンの宿泊先である公爵家現当主が何も知らされてないというわけにはいかないだろう。少なからず父上から何か聞いているはずだ」
「……それもそうですね」
でも、とリリアンヌは呟く。
「どうしてエレンさんのことをそこまで調べようと?」
確かに今回の留学についてはきな臭いところがいくつもある。
しかし現状、特に何か問題があるわけでもないことは事実だ。
「エレンさんは優しい方ですし、努力家でもあるようです。商店街の方々とも既に一杯仲良くなっているみたいです」
エレンと一緒に登校するリリアンヌは知っている。
毎朝、色んな人たちから笑顔を向けられるエレンを。
エレンと一緒に下校するリリアンヌは知っている。
毎日、エレンが店の人たちから好意で色んなものを貰っていることを。
「それなら別に、今のままでもいいんじゃないんでしょうか」
少なくともリリアンヌはその選択に何かしらの不利益があるようには思えない。
触らぬ神に祟りなし、という言葉もあるくらいだ。
もし自分たちが今回の留学の裏に隠された何かを知った時、何が起こるかは分からないというのはあまりにもハイリスク、ローリターンだ。
「友達のことをよく知りたいって思うのは、普通だろ?」
しかしラクスは全く動じた様子もなく、勝気な笑みを浮かべながら告げた。
その表情には全くの迷いも見られない。
少しの間、二人の視線が重なり合う。
だが遂にリリアンヌが諦めたようにため息を零す。
「分かりました。私も少しエレンさんの動向には気を付けてみます」
リリアンヌ自身、エレンのことについて知りたくないというわけではなかった。
むしろ毎日生活を共にしているエレンのことは、常日頃からもっと知りたいと思っていたくらいだ。
もちろんそれは今回の留学に隠された何かではなく、エレン自身の料理の好みだったりとかそういったものだったのだが、エレンに隠された何かがあるのなら知ってみたい。
リリアンヌは早速家に帰ったら、エレンの行動に注意することに決めた。
◇ ◇
「——とは言ったものの、至って普通で、真面目な生活しか送っていないんですよね」
リリアンヌは思わずため息を零しそうになるのを堪える。
ラクスと話してから既に数日の時間が過ぎているが、全くと言っていいほどに進展がない。
ラクスはククルと手を組んで色々と探っているようだが、これだけ進展がないというのはさすがに気が引ける。
ここまで何もないと、今回の留学の裏に隠された何かが本当にあるのかさえ疑わしくなってくる。
「どうしたんですか?」
「——っ!? エ、エレンさん」
そんなことを考えている隙に、リリアンヌの前にエレンがやって来ていた。
咄嗟のことに思わず驚くリリアンヌは、何とかその動揺がエレンに悟られまいと平静を装う。
「何か思いつめた表情をしていましたが、大丈夫ですか?」
「そ、それは……」
——いっそのこと、ここで直接聞いてみましょうか。
リリアンヌの頭にそんな考えが浮かぶ。
馬鹿な考えだとは分かっているが、これ以上の進展が見込めない以上仕方ない手段なのではないかとも思ってしまう。
「エ、エレンさん、あの」
「はい。何ですか?」
相変わらず何を考えているのか分からないような表情で、リリアンヌに視線を向けてくるエレン。
そんなエレンに、リリアンヌは覚悟を決めた。
「————私に、隠してることありませんか?」
「…………」
エレンは何も言わない。
しかしリリアンヌは見逃さなかった。
僅かにエレンの表情が引き締まったのを。
リリアンヌは追及を止めるつもりはないという思いで、エレンから視線を逸らさない。
「……バレていたんですね」
「じゃあ本当に……っ」
しばらくして観念したように、エレンが肩を竦める。
どうやらラクスの言っていたことは本当だったらしい。
エレンは何かを取り出すように制服のポケットに手を突っ込む。
そこに一体どんなことを隠していたのかと、リリアンヌは身構える。
「これです。隠しててごめんなさい」
「……え?」
エレンがポケットから取り出したのは、何やら装飾の凝った小包だった。
どんな隠し事があるのかと身構えていただけに拍子抜けしてしまう。
この小包が一体何だと言うのだろうか。
「実はこれクッキーが入ってるんですけど、今日の休み時間にクラスの女子に貰って」
「……ん?」
「最初はリリアンヌさんと半分こにしようと思っていたんですよ? いや、本当に」
「……はい?」
「ただあまりに美味しそうだったので、夕食後にでも一人で食べようと思っていたんですが……」
「えっと、エレンさん……?」
「やっぱりリリアンヌさんに隠し事は通じませんね。ごめんなさい」
雲行きが怪しくなってきた、とリリアンヌが感じる暇もなかった。
エレンは心底申し訳なさそうに小包をリリアンヌに差し出してくる。
「隠していたのは僕なので、遠慮せずに受け取ってください」
どうやらエレンは隠していたことを反省して、全てをリリアンヌへ渡そうとしているらしい。
リリアンヌも反射的に受け取ろうとして――
「————ってそんな話してませんよ!?」
我に返ったリリアンヌが叫ぶ。
「そもそもこれエレンさんが受け取ったんですから、私と半分こする必要なんて皆無ですからっ!!」
ここでリリアンヌが受け取ってしまえば、せっかくエレンのために作ったクッキーがまるで台無しである。
そんな野暮なことをリリアンヌがするわけにはいかなかった。
「そ、そうじゃなくて、もっと他に私に隠してることがあるんじゃないんですかって聞いてるんです!」
「え……」
リリアンヌの言葉にエレンは呆然としたような表情を一瞬見せたかと思うと、何を思ったのかポケットの内袋を外へ出す。
「さ、さすがにこれ以上は何も隠してませんよ……?」
「————っ!」
どうして隠しごとがポケットの中にある前提なのか。
リリアンヌは思わず手で顔を覆った。