035 ヴァンボッセ
「……っ」
教室で欠伸を噛み殺すのはどこか眠気の取れていなさそうなリリアンヌ。
そんなリリアンヌの頭の中にあるのは昨日の一件だ。
昨日の夜、リリアンヌはエレンの部屋を訪ねた。
そしてその時のエレンの発言のせいで、昨日は禄に眠れなかったのだ。
「あれ、やけに眠たそうですね」
「エ、エレンさん」
しかしどうやら欠伸を噛み殺していたところをエレンに目撃されていたらしい。
予想していなかったエレンの登場にリリアンヌは僅かにたじろぐ。
「何かしていたんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……」
エレンさんのことを考えていました、などとは言えるわけがない。
リリアンヌは適当な苦笑いを浮かべながら手を振る。
そんなリリアンヌの妙な反応にエレンは僅かに首を傾げるが、それ以上は聞かない方がいいと判断したのか特に追及してくる様子はない。
とりあえずの危機は脱したリリアンヌはホッと息を吐くと、窓の外を眺めながらもう一度昨日のことを思い返してみる。
『僕はこの国の人間じゃありませんから』
留学生であるエレンがこの国の人間ではないということは別に今に始まった話ではない。
エレンの留学期間は卒業までの約二年間と少し。
それが過ぎればエレンは当然、ヘカリムに戻るのだろう。
そんなエレンが留学している間という制約がついている状況で、誰かと交際するというのはエレンの性格からは考えにくい。
それに万が一、エレンがヘカリムに帰らないとなれば外交問題にもなりかねない。
なぜならエレンは世界でも数える程度しかいない最上級魔法を使える実力者なのだ。
そんなエレンをわざわざ魔法大国のヴァンボッセではなく、わざわざアニビアに寄越したのも人材を引き抜かれたくないというヘカリムの思惑が窺える。
「……やっぱり帰っちゃうんですよね」
それはエレンが留学生である以上、もはや避けることは出来ないだろう。
当然だ。
しかしそんな当然のことが、リリアンヌの気持ちを揺さぶる。
エレンがヘカリムに帰ってしまうことを考えるだけで胸がちくりと痛む、ような気がする。
リリアンヌもこの気持ちをどうしたらいいのかさっぱり分からない。
そもそもどうしてこんな気持ちになっているのかが分からないのだ。
エレンが留学の間は誰とも付き合ったりしない。
それならむしろその間は二人の日常を続けられることを喜ぶべきではないのか。
リリアンヌにとってエレンとの登下校だったりの日常はかけがえのないものになっているのは疑いようがない。
だからエレンがもし誰かと付き合ったりした時、それがなくなってしまうのは何というか嫌だった。
でも今、エレンとの日常が変わらずに続けられると分かっているはずなのに、リリアンヌの妙な気持ちは晴れることがない。
むしろ酷くなっていると言っても過言ではなかった。
「……ヌさん。リリアンヌさん?」
「は、はいっ」
じっと考え込んでいたリリアンヌは、自分が呼ばれていることにしばらく気付かなかった。
慌てて声のした方を見てみると、僅かに心配の色を見せながらこちらを見つめてくるエレンがいた。
「何か深刻そうな顔をしていましたけど、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですっ」
まさか顔に出ているとは思ってもみなかったリリアンヌは必死に平静を取り繕う。
窓の方を向いていたこともあり、完璧に油断していた。
「きつそうだったら言ってくださいね。保健室まで連れていきますから」
「ほ、本当に大丈夫ですから! それよりもエレンさんは保健室の場所がちゃんと分かるんですか?」
「編入してから一カ月が経ってますからね。さすがに保健室くらいは行けますよ。……リリアンヌさんと一緒なら」
「それ一人じゃいけないってことですよね!?」
エレンが珍しく柄にもないことを言うので、リリアンヌも思わず声を大きくしてしまった。
聖女として知られているリリアンヌの大きな声にクラスメイトたちの視線が集まる。
ハッと我に返ったリリアンヌは大きな声を出してしまったことに赤面する。
「うぅ、エレンさんのせいですよ……!」
「ふふ、ごめんなさい」
「何を笑ってるんですか……っ」
リリアンヌは頬を膨らませ、エレンにジト目を向ける。
しかしエレンに反省した様子は全く見られない。
何か仕返しをしてやりたいところではあるが既に視線が集まっている以上、あまり目立った行動はしたくない。
「もう知りません……!」
堪えきれなくなったリリアンヌはエレンから顔を逸らすと、不貞腐れた様子で窓の外に顔を向ける。
自分が誰のことで悩んでいるのかも知らないで、と思わないこともない。
しかしそんなことを言えるわけもなく、リリアンヌは窓の外の景色に少しでも早く平静を取り戻そうと試みる。
「エレンくん! おはようございます!」
「あ、おはようございます」
そんなリリアンヌの耳にふとエレンが誰かと挨拶する声が聞こえてくる。
やけに元気のいいもう一人の声に、リリアンヌはちらりと二人の方を盗み見る。
そこには昨日の放課後、エレンに告白していたクラスメイトの女子が笑顔を浮かべながら立っていた。
「そういえばなんか今日新しい編入生が来るみたいなんですけど、エレンくんは知ってました?」
「新しい編入生ですか? このクラスに?」
「はい。何でも関係者がいるとか何とかーって」
「関係者って、いったい何でしょうね?」
親し気に話をする二人は告白を振った側の人間と振られた側の人間にはとても見えない。
普通はもっと気まずくなったりするものではないのか、とリリアンヌは自分の目を疑ってしまう。
もしかして実はエレンは初めから告白を振ったりなどしていなかったのかとも思ったが、エレンがそんな嘘を吐くとは思えない。
その後一言二言交わすと、クラスメイトは自分の席に戻っていく。
残されたのは特に表情を変えないエレン。
「エ、エレンさんは昨日告白を断ったんですよね……?」
不貞腐れていたことも忘れて、リリアンヌは思わず隣に座るエレンに尋ねる。
それくらい衝撃的な光景だったのだ。
「はい、断りましたよ?」
だがそんなリリアンヌの胸中を知るはずもないエレンは不思議そうに首を傾げながら頷く。
「き、気まずくないんですか?」
恐る恐る聞いてみる。
リリアンヌにはどうしてあんなに自然に話を出来るのかが分からなかった。
しかも昨日の今日で、だ。
「もちろん多少の気まずさはありますけど、それでも僕たちがクラスメイトであることは変わらないですし明日からもよろしくお願いしますっていう話で落ち着いたんですよ」
何でもない風に言ってのけるエレンだが、それでもリリアンヌは納得することが出来なかった。
とてもじゃないが同じ立場だったら気まずくて、禄に顔も見ることが出来ないだろう。
「そういえばリリアンヌさんは昨日、王様から呼ばれていたみたいですけど何か大事な話だったんですか?」
「えっ……」
自分とは根本的に考え方が違うのだろうかとリリアンヌが唸っていると、エレンがふと思い出したように聞いてくる。
昨日の話ばかりをしていたのが、逆に仇になってしまった。
まさかエレンの実力が周りに知られないように気を付けろなどと言われたとはいえるわけもなく、リリアンヌは口ごもる。
しかしこれまで昨日のことを散々聞いてきた手前、自分だけ何も言わないのは妙に気が引ける。
「そ、それは……」
何と言って誤魔化せばいいか。
いつもなら何か上手く誤魔化すことが出来たかもしれないが、自分の範疇外のことばかりが起こって混乱していた今のリリアンヌには少しばかり厳しい。
「おーい、朝のHRするぞー」
そんな時、教室に響き渡ったのはクラス担任の大きな声だ。
どうやら天が味方してくれたらしい、とリリアンヌはほっと胸を撫でおろしながらエレンに断りを入れて会話を切り上げる。
「突然だが今日はこのクラスに編入生が来ることになった。皆仲良くしてやれよー」
「……え?」
しかし安心しきったリリアンヌの耳に、担任のそんな言葉が聞こえてくる。
因みに先ほどのエレンとクラスメイトの会話の内容は、動揺が上回っていたせいで禄に聞いていなかった。
一カ月前、エレンが留学生として編入してきたばかりなのに、明らかにタイミングがおかしいことは明白だった。
どう考えても何かしらの意図が働いているとしか思えない。
そこでリリアンヌは昨日の国王との話を思い出す。
「ま、まさか……」
しかし昨日の時点では、そんなことは全く聞かされていない。
いくら意識が他のことに向いていたとしても聞き漏らしなどはなかったはずだ。
だがこのタイミングで編入など、リリアンヌには一つしか思いつかなかった。
そんなリリアンヌの考えを裏付けるように、新しいクラスメイトが教室の中に入って来た。
「————ミリィ=トゥ=ヴァンボッセよ。これからよろしく頼むわ」
強気な口調と共に、宣言するように言い放ったその名前は紛れもなく魔法大国からの留学生であることを示していた。




