016 宿屋
「そういえばアニビアって暖かいですよね」
「まあそうですね。一応は四季もありますが、冬の時期もそこまで寒くないので比較的過ごしやすいですよ」
王都から少し離れた街の商店街を歩くエレンたちは軽く雑談を交わしながら、今日泊まる予定の宿屋へ向かっていた。
その中でエレンが気になったのは、ヘカリム国との気温の差だ。
ヘカリム国は基本的に気温が低く、雪が降ることも多い。
しかしこのアニビアでは気温も高く、冬にも雪が降ることはないと言う。
「綺麗なんですけどね」
暖かいというのはそれだけ過ごしやすくて良い。
しかし雪が見れないのは、それはそれで残念でもある。
「そんなに綺麗なんですか?」
エレンの珍しい表情に、雪を見たことがないリリアンヌも興味が湧いてくる。
リリアンヌの質問にエレンは力強く頷く。
「視界全部が真っ白になって凄く幻想的なんです。少なくとも僕は大好きですね」
エレンにそんなことを言わせるとは相当なものなのだろう。
リリアンヌの雪に対する興味がますます強くなる。
機会があればぜひ見てみたいものだ、と意気込むリリアンヌにエレンはどこか懐かしむような視線を向ける。
「……リリアンヌさんの髪は、雪みたいです」
「っ……」
あまりにも唐突なその言葉にリリアンヌは息を呑む。
これまで散々、雪が綺麗だとか幻想的だとかの言葉を並べていた直後に、どうしてそんなことを簡単に言えるのだろう。
まさかまた何も考えていないのだろうか。
だとすると心臓に悪すぎる。
さすがに何か一言文句を言ってやるべきだろうかと、エレンを睨む。
しかし初めてやってくる王都以外の商店街に、辺りを物珍しそうに見回しているエレン。
その姿は普段の大人しい彼からは想像できないくらいに年相応の反応を見せており、そんなエレンに水を差すのも申し訳なく感じてしまう。
リリアンヌはそれ以上、エレンの言葉を気にしないようにしようと決意する。
だがそれがもはや決意というより諦めに近いものだと分かると、思わずため息を吐いた。
「な、なんでこんなことに……」
リリアンヌは薄暗い部屋の中で、ベッドに腰かけていた。
そのベッドはリリアンヌが使うには大きすぎ、しかも枕は二つ並んでいる。
誰がどう見ても、そのベッドは二人用だった。
リリアンヌの頬は上気し、その白髪は僅かに湿りを帯びている。
明らかにお風呂上りそのものだ。
そして、そんなリリアンヌの耳には浴室から魔道具を使ったシャワーを浴びる音が聞こえてくる。
一体誰が浴室に入っているのか。
そんなの一人しかいない。
「……なんでこんなことに」
リリアンヌはもう一度同じ言葉を嘆くように呟いた。
◇ ◇
「そういえばリリアンヌさん、巡礼は大丈夫なんですか?」
商店街を歩く途中で思い出したようにエレンが尋ねる。
すっかり観光気分で商店街のお店を周っていたが、本来の目的はリリアンヌの巡礼だ。
エレンはそれに乗じて、アニビア国の観光案内をしてもらっているに過ぎない。
「大丈夫ですよ。巡礼する場所は基本的に決まっているんですが、とりあえず今日のところは何の予定もないので、思う存分エレンさんに付き合えます」
しかしエレンの心配にリリアンヌは首を振る。
そもそも今回の巡礼は、本来全く予定のなかったものだ。
そのせいで今回リリアンヌが巡礼しなければいけないのはただ一か所。
急に治安が悪くなりだしたという、ミルタ街だ。
「それじゃあお言葉に甘えて、今日は付き合ってもらいましょうか」
そう言うと、エレンたちは再び商店街を観光しだした。
「へ、部屋がない……!?」
宿屋へやって来た二人は受付で部屋の手配をしている。
しかし受付の言葉を聞いたリリアンヌは声をあげずにはいられない。
「すみません。ここ最近、妙にお客様が多くてですね……」
「は、はあ」
今いる宿屋は一般的な宿屋とは異なり、貴族御用達の造りが良いものだ。
宿泊費もそれなりに高いため、満室になるということなどこれまでなかった。
だからこそリリアンヌも油断して、事前に予約していなかったのが仇となった。
いくら意外だったとはいえ、こちらの不手際の責任を押し付けるわけにはいかない。
リリアンヌはどうするべきかと頭を悩ます。
他の宿屋という選択肢もあるが、基本的に宿屋は冒険者たちによってほぼ毎日満室状態だ。
今から行って「今日泊まらせてくれ」と言ったところで、部屋を借りられる可能性は低い。
リリアンヌは後ろで自分が部屋を借りるのを待っているエレンを見る。
だがリリアンヌの反応を見て、雲行きが怪しくなっていることをエレンも理解し始めていた。
今もどこか心配そうな表情でリリアンヌを見ている。
このままでは二人とも寝るところすら決まらないまま、夜を迎えることになってしまう。
とりあえず寝るところだけでも確保しなければいけないが、とはいえ何か良い案が思いついたわけでもない。
「あ、あのー……」
一人で考え込んでいたリリアンヌはそこでようやく宿屋の受付が声をかけてきていることに気が付いた。
「一人部屋二つはないんですけど、二人部屋が一つであれば一部屋だけ空いていますが……」
◇ ◇
「やっぱり二人部屋にしたのは早計だったでしょうか……」
リリアンヌたちが連れてこられた部屋は二人部屋とは言われたものの、ベッドが一つしかなく、いわゆるそういう関係の人たちが泊まるような部屋だった。
ベッドの上で膝を抱えるリリアンヌは、この状況に思わずと言った風に呟いた。
今、リリアンヌはお風呂から上がったばかりで、エレンに関してはお風呂に入っている真っ最中だ。
浴室からのシャワーの音がやけに部屋の中に響く。
自分の時も、こんな風にシャワーの音が響いていたのだろうか。
リリアンヌはその頬を赤く染める。
「エレンさんもこんな風に――」
————緊張していたのでしょうか。
そう呟こうとした時、
「僕がどうかしましたか?」
「……っ!」
いつの間にか浴室から出てきていたらしいエレンが声をかけてくる。
しかも間の悪いことにリリアンヌがエレンの名前を出したタイミングで、だ。
「な、なんでもありません!」
リリアンヌは慌ててそっぽを向く。
その反応にエレンも首を傾げるが、僅かにその頬が赤くなっているのは恐らくお風呂上りだからだろうと一人頷く。
「もう夜も遅いですし、そろそろ眠りますか」
「えっ……」
そこでエレンがリリアンヌに提案する。
既に窓から見える外の様子は真っ暗で、商店街の賑やかさも今は影を潜めている。
リリアンヌが僅かに声をあげるが、ちょうど欠伸を噛み殺していたエレンはそんなリリアンヌに気付かない。
「そ、それは……」
この部屋にベッドは一つしかない。
リリアンヌはごくりと唾を飲む。
「僕は椅子で眠るので、リリアンヌさんはベッドを使ってください」
しかしそんなリリアンヌの緊張を他所に、エレンはそそくさと椅子の方へ向かう。
「そ、それなら私が椅子で寝ます! エレンさんがベッドを使ってください!」
「そんなわけにはいきませんよ」
「な、なら一緒に――」
「それもあり得ません」
リリアンヌの言葉を軽くいなした時は既に、エレンは椅子に腰かけている。
「リリアンヌさんも年頃の女の子なんですから、そういうことを言ってはだめですよ?」
「っ……!」
そこでようやく自分の発言に気付いたのか、リリアンヌの顔が見たこともないくらいに真っ赤に染まる。
そんなリリアンヌにエレンは苦笑いを浮かべながら言う。
「それにそんなことをしたら、ジョセさんに殺されてしまいそうです」
ジョセのリリアンヌに対する溺愛ぶりはエレンも共に過ごして理解しているつもりだ。
もし仮にリリアンヌと同じベッドで一夜を過ごしたなどという事態になれば、殺されても文句は言えない。
そんな事態はさすがに避けたいと願うエレンの今日の寝床は、やはりベッドではなく椅子だった。