001 やって来た留学生
「お伽噺じゃないんですから」
その言葉を、何度聞かされたのかもはや分からない。
でも今、目の前にあるのは現実にはあり得ないような光景だった。
「最高位、精霊様……」
生まれて初めて、その姿を目にした。
彼さえいなければ、きっとこれから先もずっと死ぬまで見ることが出来なかっただろう存在。
もっと見たい、見続けたい。
そんな思いとは裏腹に、自然と頭を垂れてしまう。
その存在感が、まさに目の前の存在が、自分などでは足元にも及ばないような高みにいる存在なのだと言外に告げていた。
それでもきっと彼はまた否定するのだろう。
最高位精霊?
何ですかそれ、と。
そしていつもみたいにとぼけた口調でこう言うのだ。
『お伽噺じゃないんですから』
これまではそれでも良いのかもしれないと思っていた。
でも、今回こそは認めさせてやる。
この光景こそが、お伽噺なのだと。
そして、エレン=ウィズは。
お伽噺に出てくるような、そんな魔法使いなのだと。
◇ ◇
「……ふう。やっと着いた」
馬車から降りた青年――――エレン=ウィズは開口一番に呟いた。
といっても本来であれば数日かかるところを何時間にまで短縮した結果がこれなので、これ以上高望みをすることは出来ない。
「それにしてもやっぱりお城っていうのはどこの国でも大きいものなんだね」
エレンは視線をあげながら、どこか達観したような表情を浮かべる。
「エレン様。お疲れのところ申し訳ありませんが謁見の時間が迫ってますので」
「あ、はい。今行きます」
——やっぱ敬語を使われるのは慣れないな。
エレンは騎士と思しき男の言葉に頷くと、その背中を追い、城の中へと入った。
「この度ヘカリム国より留学生として参りました、エレン=ウィズと申します」
「貴殿がエレン殿か。私はアニビア国国王ヴァンボッセ=アン=アニビアだ。この度はわざわざアニビア国までご足労であった。到着したばかりでこのような場を設けてしまったことを謝罪しよう」
エレンの連れてこられた謁見の間にはアニビア国の国王を初めとした、国の重鎮だろう数人と、その護衛の騎士が待っていた。
エレンは彼らを横目で窺いながらも、王様との会話を進める。
「いえ、とんでもありません。私のような者を留学生として受け入れてくださっただけでも感謝の言葉に尽きません」
「またまた、そのようなことを……。貴殿の噂はかねがね聞いているぞ」
「……はあ」
噂って一体どんな噂だろう。
まあ十中八九、学園でのことだろうけど。
エレンは国王の言葉に間の抜けた返事を返しながらも頭の中で考えを止めない。
というのもエレンはもともとヘカリム国の学園に通う一年生なのだが、現在はヘカリム国の隣にあるアニビア国へ留学生としてやって来ていた。
期間はエレンが学園を卒業するまでの約二年間と半年だが、その間エレンはこのアニビア国の学園に通うことになっている。
「まあその話はまた今度にしよう。今はもっと大事なことがあるのでな。リュドミラ」
「——はっ」
王様の声に、隣に控えていた内の一人が一歩前に出る。
リュドミラと呼ばれたのは四十代半ばくらいの男で、その一挙一動は正に貴族と言った風に荘厳だ。
とてもじゃないけど、僕には真似できないなぁ。
恐らくその域に達するまでにも貴族である高い自意識があるからこそなのだろう。
しかしエレンにはどうにも自分とは遠い位置の話に感じてならない。
もちろんそれにも理由はあるのだが、大きく言えば――
「これからエレン殿には国立学園に通ってもらうことになるが、卒業までの二年間と半年はリュドミラ家の下で生活することになる」
「えっ……」
「いや、不満に思うのも無理はない。本当はエレン殿のことは王城で面倒を見る予定だったのだが、さすがにそれは……ということになってしまった。そして言い方は失礼かもしれないが妥協案としてリュドミラ家が選ばれたのだ」
「い、いや、そういうことではなくてですね……」
――僕の記憶が正しければ、リュドミラ家って公爵家だったような気がするんだけど。
「どうしてそんなに好待遇なんですか?」
「……そんなに好待遇か?」
「いや、だって僕は貴族じゃないんですよ? ただの平民が留学している間とはいえ公爵家にお世話になるというのは異例でしょう」
「……こういうことか。まあどちらにせよ、もう決まったことだ。今から別の家を探すわけにもいかんので、そこは諦めてくれ」
「……そういうことなら、はい。分かりました」
エレンは未だに納得していない表情を浮かべているが、ここでこれ以上何かを言っても迷惑になるだけだ。
国王の含みのある言葉は気になるが、こんなに早い段階で相手の心象を悪くしたくはない。
「リュドミラさん。これからしばらくお世話になりますが、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそよろしく頼むよ」
「とりあえずこちらでの生活などの詳しいことはリュドミラから聞いてくれ。リュドミラも失礼のないようにな」
「はっ。お任せください」
どうして平民である自分がこんなに気を遣われているんだろう。
留学生という立場が外交上それなりに重要であるとは思うけど。
エレンは二人のやりとりを聞きながら、首を傾げる。
しかし自分が平民であるにせよ、相手が貴族であるにせよ、失礼なことをしないに越したことはない。
エレンはこれからの行動は気を引き締めていこうと決意した。
◇ ◇
「それじゃあ改めて自己紹介といこうか」
今、エレンはリュドミラ家の邸宅のリビングでソファに座っていた。
「私はジョセ=リュドミラ。リュドミラ家の当主をやっている」
向かい側のソファーに座るジョセは自分の自己紹介を済ませると、ちらりと視線を横にずらす。
「私はレオナ=リュドミラよ。この人の妻で、基本的に家にいることが多いわ。これからしばらくよろしく頼むわね?」
「……エレン=ウィズです。こちらこそよろしくお願いします」
レオナの物腰の柔らかさに、エレンは戸惑いつつも自己紹介を返す。
「そう緊張するな。今日からここは君の家でもあるんだから」
「そ、そんな。平民の自分にはおこがましいです」
エレンが初めにリュドミラ家の邸宅を見た時、あまりの大きさに思わず驚かされたのは言うまでもない。
そして今日からここが自分の家だと言われて、頷けるほどエレンは貴族慣れしていなかった。
「どちらにせよ体外的にエレン君の身は、私たちの家で預かっていることになるんだから、あんまり卑屈すぎるのもだめよ?」
「……善処します」
とはいえレオナも半ば冗談だったのだろう、笑みを浮かべている。
当然そのことに気付かないエレンではないので、苦笑いを浮かべながら頬を掻く。
しかし確かにレオナの言うことも一理はあるので油断は出来ない。
「まあそういうのは少しずつ慣れていってくれればいい。使用人たちのこともその都度、紹介していこう」
「お願いします」
エレンとしてもたくさんの人数の顔と名前を一斉に覚えるのは大変だ。
それに公爵家といえば普通の貴族たちに比べても使用人は多いだろう。
家の大きさからだけでもそれを予想するのは容易だ。
「本当はあと一人、紹介したかったんだが、どうにも予定が入っちゃったみたいでね。紹介は夜になりそうだ」
「……? 分かりました」
夜、ということは恐らく夕食の時にでも紹介してくれるのだろう。
ただエレンからすれば貴族――それも大貴族の家で食事するなんて初めての体験だ。
……もっとテーブルマナーとか勉強するべきだったかな。
エレンは密かに溜息を零しながら、二人でリビングを出て行く貴族夫婦の背中に視線を向けた。
「どういうこと?」
「……というと?」
レオナに連れ出されたジョセは、その言葉の意味を理解しながらもあえて聞き返す。
「あの子――エレン君のことよ。あなたから聞いていた話と全然違うんだけど?」
「ああそのことか。私も初めて会った時は驚かされたよ」
ジョセは謁見の間でのことを思い出す。
あの時確かエレンはこう言ったのだ――『ただの平民』だと。
耳を疑った。
国王から聞かされていた情報だけを鵜呑みにするのであれば、それでも尚『ただの平民』だという彼は一体どれだけ分厚い化けの皮を被っているのかと思わず二度見してしまったほどだ。
それにあの嫌というほどまでに冷たい視線。
貴族社会を生きてきた身でも、あそこまで息苦しくなるような視線を向けられたことはない。
「ただ、それについては追加情報を貰っておいた」
「追加情報……?」
「ああ、実は――」
ジョセは謁見後、国王に密かに教えてもらった彼に対する情報を、決して誰にも聞かれないよう気配りながら、レオナに耳打ちした。