シガレットキス~to me~
最初の頃、随分と空が近い所に見えるものだと思った。
高層ビルが立ち並ぶ首都ではもはや珍しくもない建物ではあるが、それでも大手企業の本社それも社長室となるとそうそう入れる事もないだろう。
ぼんやりと意識の遠くで考えながら、目線だけは油断なく目の前の男に注がれていた。
「―以上が、今回の依頼に関する調査報告になります。なにか疑問点はありますか」
「いえ、ありません。相変わらず鮮やかなお手並みだ。これほど内部の込み入った事情をたった三日で把握してしまうなんて。助かりますよ」
「…あなたにそう言っていただけるとは、光栄ですね」
目の前で見るからに高そうなデスクチェアに腰掛け、社員でもない自分がいるというのに背もたれに体重をかけている。
しかし、この態度が気に障るほど器量が狭いとは思われたくなかった。
たかが二十過ぎたばかりの小娘、と思わせないだけの頭脳が自分にある事を結良は理解していた。
「毎回、あなたのその才能には脱帽しますよ。樹上 結良さん」
「才能、という程大した物ではないですよ朝霧社長」
わざとらしく呼ばれたフルネームに極力反応しないようにする。反応してしまえば、きっと男の思うツボだろう。
名乗った覚えのない本名を言い当てて来たのは牽制の意味か、脅迫の意味か。どちらにしても同じような事だ。
朝霧 瞬というこの男は、三十半ばに家業を継ぐ形でこの会社の副社長となり、たった二年であっという間に社長の座についてしまった。
三十七歳という齢にして、前社長もまだまだ現役で行くつもりだったろうにやすやすとこの頂点の部屋から追い出してしまった。朝霧はそれを難なくやってのけてしまった。
「報告書は秘書の方に預けてあります。それでは私はこれで」
「おや、今日は別のお仕事でも?」
「…いえ、いつまでも外部の人間が社長室にいるのはあまり良くないかと思いまして」
薄ら寒くなる程綺麗な笑みを作れたと、我ながら思う。
自分の容姿、持ち得る頭脳、人脈、人徳全てを把握し分析するのは決して自分に対してうぬぼれているからではない。
探偵という職業において、なによりも大事なスキルなのだ。
特に自分のような『特殊な探偵』には。
「それなら、少し話でも。せっかく来ていただいたんです、このままお帰りになられてしまっては私の努力が水の泡となってしまう」
結良の微笑に動じる事なく、朝霧も目を細めて言った。
その仕草は、結良にはまだない色気が多量に含まれている気がして思わず背筋に戦慄が走る。
「…煙草を吸っても?」
「ええ、どうぞ。灰皿は?」
いらない、と手で遮る。
パーカーのポケットから煙草の箱を出し、一本取り出す。
火をつけて吸い込めば、途端に煙が肺を満たしていくのを感じる。
ふと、男の服装に目が止まる。
オーダーメイドとわかるスーツはまさに彼のために生まれてきた一着で、彼の全てを引き立てている。しつこくないネクタイの色と、キザったらしく見えない靴が余計にこの男の育ちの良さを伺わせた。
「意外ですね。煙草、吸われるんですか」
「ええ。と言っても外ではあまり吸いませんよ。何分童顔なものでね」
「まだ気にしていらっしゃったんですね。ますます可愛らしい」
その言葉に、思わず煙草を持つ指先に力が入るところだった。
そんな事をすれば、簡単に朝霧に見抜かれ笑みを深くする理由になるだろうから鱗片も見せないが。
そもそも、結良の探偵業は基本的に誰にも顔を見られないで進行していくものだった。
事務所はなく、広告もなく、誰も姿は知らず連絡先も知らない。
あるのは風の噂だけ。
曰く、『その探偵を見つけられた者にだけ、真実が与えられる』。
初めて聞いた時はまた大層な尾ひれがついたものだと感じた。
二十一にもなって高校生(悪くて中学生)にも間違われる程童顔で、加えて女という性別は一人で探偵をやっていくには不便だったから明かさなかっただけだ。
事務所や広告がないのはそれにかける費用がないから。連絡先は万が一面倒事が起こった時に巻き込まれないようにするために頻繁に変えていた。
しかし、成果は常に客が望む百パーセントの物を用意出来た。
浮気調査、身辺調査、探し物、過去に隠蔽された事件の真相、会社の内部事情。
金払いと依頼主の調査を徹底的に行ってから、再度こちらからコンタクトを取りメール上で段取りも途中経過も結果も報告する。
故に、誰も自分を知らない。
それなのに、この男は自分を見つけ出してしまった。おかげで一度ならず幾数回、調査依頼を受ける事になってしまっている。
さらに腹が立つことにこの男はファーストコンタクトとしてこの部屋にやってきた結良を見て、こう言い放った。
「これはまた、随分と可愛らしいお嬢さんですね」
と。
その時ばかりはあまり感情を表に出さない結良でも思いっきり嫌な顔をしたものだ。
それ以来、この男に対峙する時は仏頂面が常となった。
(と、いうか普通に考えてあの発言は変態だね)
だなんて口に出しても言えないだろうが。
「やはり、うちと専属契約を結ぶ気にはなれませんか?今のような不安定な状況でやるよりは安定していると思うのですが」
「何回でも同じ答えをお返ししますが、ノーですね。私にとってこの職はもはや道楽なので」
「道楽で腐らせるには勿体なさすぎる程の天才なのに?」
「朝霧社長に天才と呼ばれる程の才はないですよ」
謙遜ではなかった。
事実、朝霧は結良がどれほど警戒してもしたりないと感じしてしまう程人心掌握に長けている。
どれほど多くの事を見抜き、つなぎ合わせる事が出来ていても朝霧の前ではその才能すらもカードに変えて自分の手札にしてしまう。
「何故、私である必要があるのです?今回の依頼にしても、それこそそちらの人間で片付くような案件です。今や海外にまで手を伸ばしたアサギリ社にはそれこそ、専属の内務調査員くらいいるでしょう」
「さあ、何故でしょうね。推理してみてください」
手を組む姿がまた、癪に障る。
しかし、努めて冷静に平淡に行かなければならない。この男に呑まれる気はさらさらなかった。
「初回の依頼は、確かに外部の人間にしか扱う事のできない物でした。前社長の汚職案件を洗うなんて、仕事片手間にできることではありませんし、内部に頼めばどこかで前社長の耳に入るかもわからない。退職後もその影響力は絶大だと聞いていましたからね」
「その節は本当に助かりました。実の父とはいえ、古い空気を一掃しなければなりませんでしたから」
「そのために私を見つけ出した、というのも納得がいきました。…その時は」
そこで、一度深く煙草を吸う。
元々それほど吸う事もないが吸い慣れていない訳でもない。大人になってから覚えた物は、じわじわと己の身体を黒く塗りつぶしていった。
「しかし、その後に続く依頼が問題です。そのどれもが私でなくとも達成できる物ばかり。まるで私を呼び出す理由を作っているかのようです」
「ふむ」
変わらず、男は笑みを崩さない。
子供が目の前で遊んでいる大人のような目だ。
つまり、自分は試されている。このパズルゲームを正しく解けるのか、隠されたピースを当てはめる事ができるのか。
「私も煙草を頂いてもいいですか」
「…これ、安物ですよ。お口に合わないと思いますが」
「私も一般的な煙草しか口にした事はありませんよ、例えばラークとか」
「メジャー所ですね」
思わぬ喫煙話だ。
先程しまったばかりのブライトの箱をもう一度引っ張り出す。
一番最初に自分に煙草を教えた人物が、味に固執しないのならと寄越してきた銘柄だった。
立ち上がり、結良の目の前まで来た朝霧に一本手渡す。しかし、男は一向にライターを取り出す気配がない。
やれやれとライターを取り出そうと一度口に煙草を加えた時だ。
そっと顔を近づけ、先端同士をこすり合わせる。じわじわと熱が侵食し、やがて片方に燃え移るとすぐそこまで迫った温度はあっさりと前をどいた。
(…手馴れすぎていて、新鮮味がない男)
身長差を縮めるために屈む姿勢も指と指の間に煙草を挟むのも、簡単に人の鼓動を跳ね上がらせる事をやってのけてしまうのも。
朝霧は、そのまま席に戻る事なく結良と向かいあって煙草を堪能している。
話を戻すように促されている気がした。
「ファーストコンタクトの時、あなたの様子が他の人間とは違いました」
「…というと?」
「私も最初から今のスタイルでやっていたわけではないんですよ。依頼主と直接会って話を進めていた時もあった。大抵の依頼主は私を見てまだまだ子供である事と女である事を、失笑するか疑念を抱くんです」
中にはあからさまに邪な考えを持つ者、不安になり契約する前に去っていった者もいる。
そのまま契約した人間も成果を持ち帰るまで、常に仮面の奥に疑惑と嘲笑を孕んでいた。
「けれどあなたはその様子が欠片も見られなかった。発言こそそれらしいものでしたが、感情を押し殺しているわけではない。そもそも押し殺すはずの感情が浮かんでいなかったからです」
もう一度、肺に薄い色を帯びた煙を送り込む。
唇を湿らす水がなくとも、脳を鮮明にさせる草なら手に持っていた。
「私にたどり着けた、というのもどうやら偶然の産物でもなければ努力の賜物、といった訳でもないでしょうね」
「…そうでしょうか。その以前は会っていたという依頼主から聞き出したのかもしれませんよ?」
「ありえませんね。何故ならあなたがまず私に仕掛けてきたのはメールによるやりとり。それも私が仕事用に設けているアドレスではなく個人アドレス。それを知っている依頼主は誰ひとりとしていませんから」
あの時は本当に驚いた。いや、驚いたなんてものではない。ありていに言って、心臓が止まりそうになった。
もう何年も使っていない私用の端末が鳴り響き、見知らぬアドレスからいつの間にか撮られていた自分の写真だけが送られてきた。
その直後、今度は仕事用のアドレスに件の朝霧に会う最初の依頼が届いた。
「依頼内容を『なすすべがなく、そうするしかない』と思えてしまうようなものにあえて設定し、長い間画面向こうの探偵であった私を表へ引きずり出した」
「なるほど。そこの推理はあえて否定しないでおきましょう」
まだ朝霧は焦らない。
呑気にくゆる煙草の煙越しに見える瞳は、底が見えない。
「全てがあなたの手の内だ。それを踏まえた上でもう一度聞きましょう、何故私でなければいけなかったのか」
「…それでは、まだ答えにたどり着けていませんよ探偵さん。答えを問うてしまえばゲームオーバー。おわかりでしょう?」
肩をすくませ、煙草を咥える。
そして、僅かに見えた本心を結良は感じ取った。
それは、紛れもない悲しみだ。
人心掌握のプロが朝霧だとしたら、結良は人間観察のプロだ。人の一瞬の行動、仕草、言動、声色の全てをつなぎ合わせ正しい答えを導く事ができる。
一体目の前の男は何に悲しさを覚えているのか。
結良が答えを提示しなかった事だろうか。いや、きっとそうではない。
そんな即物的な感情ではなかった。
もっと長い間、こびりついて剥がれなくなってしまったいわば汚れだ。
「―私とあなたは、どこかで一度出会っている。私は覚えていない、知らない記憶をあなたは知っている」
「…」
「あなたは誰です?朝霧社長ではなく、朝霧瞬という男は一体、その心のどこにいるんですか」
その瞬間に感じたものは、寒気という生易しい物ではなかった。
まさに恐怖。細胞という細胞が危険信号を告げていた。
口角を釣り上げ目を見開いた朝霧は、今まで見てきたどの表情よりも野性的で獣地味ていた。
他者に伝わるまでの『歓喜』が朝霧を満たしているのがわかった。
しかし、その理由まではわからない。
「あぁ…ああ、まさにその通り。それこそが私の求めていた答えであり問いであり記憶だ」
「なに言って…ん!」
突然豹変した朝霧に戸惑う結良に更なる動揺が走った。
重ねられた掌が有無を言わせない力で口元からずらされ、紙煙草の代わりに別の物―朝霧の唇が当てられた。
シガレットキスのスマートさとは程遠いほとんど本能による行動だった。
「見つけて見せろ。答えを出しちゃつまらない。そうだろう、私の小さな探偵さん?」
結良が朝霧の全てを推理するのが先か、手に持つ煙草の灰が床に落ちるのが先か。
どちらにせよ、もう一度結良の唇にキスが降りる。
これ以降、社長室で何があったのか知っている者はいないだろう。
空気に紛れ潜む薄灰色の煙以外には。
後日アンサーver(朝霧サイド)を投稿しようと思います。