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逃げられない・2






心地の良いピアノの音で目が覚める。ここでは一日中、絶えずあのピアノの演奏が教会じゅうに響いている。

一体誰がどこで弾いているのかはわからないが―あれもドルグワントが自分のために用意しているものなのだろうか。

なんだってこんな…天国みたいな場所で、毎日毎日あの悪魔のような女と顔を付き合わせなければならないのか。

それとも本当は―この景色のほうが、彼女の「ほんとう」なのだろうか。

自然を愛して、穏やかに暮らし、他人に最愛の人を委ね、毎日誰かの為に祈るのも、彼女の姿なんじゃないか。

我ながら浅はかな考察だ。それに、だったらどうだっていうんだ。







「グレン。起きたのね。朝はもう済ませた?」

「ああ…」

「今日はお散歩に行きましょう」

「…どこにだよ」

「庭園よ。ここから続いた場所にあるの、知らなかった?」

「初耳だ」

「まあ、分かりにくいから仕方ないわね。ほら、早く着替えて」

今日も俺は甲斐甲斐しく、聖女さまの付き人稼業を全うする。

ドルグワンの手を取って、そこを右、もっと先よ、なんて指示に従って神殿の長い廊下を歩く。

庭園に到着して、彼女の手が離れるのがやけに惜しく感じた。

「庭園って言っても、そんない広くないのな」

「そうね。言ったでしょう。私、違う景色が見られればいいの」

最初にドルグワントに会った広間よりも狭い。公民館とか、小さな音楽堂とか。広さで言えばそのくらいだ。

中央には地面からぽっこり顔を出した様な東屋があって、そこからだと蔦まみれの神殿の硝子も、俺がここに来るまでに歩いてきた森も、手の届きそうなほど近くに見える。

当然、周りには何の建物も無さそうだった。

ただここだけは、外の場所よりもかなり手入れがされていて、よく手入れされた芝生からときどき寒そうな低木がこちらを見下ろし、花もみな上品に花壇のなかで整列していた。思い思いに咲く「外側」の植物たちとは正反対だ。

硝子の向こうの緑は、カインだ。だからここは、カインの居ない、ドルグワントだけの場所なのだろう。

「自分で手入れしてるのか?」

「ええ。でも今日は、手伝って欲しいことがあって」

ドルグワントが東屋から手招きした。

近づいて彼女が指さした場所を見ると、園芸用の剪定鋏が何種類か置いてあった。

「なるほど。こればっかりは女一人じゃキツいな」

「あれ、一番高い木があるでしょう。あれの枝がね、病気になっちゃったの。切り落とさないと、幹まで広がっちゃう」

「どれ…」

石畳から外れて、青々とした芝生に降り立つ。朝露と土の香りが鼻腔をくすぐる。

久しぶりに日光と直面した。風情のある中庭もいいが、こうして全身で風邪を感じられるのは、まさに「外」だ。

ドルグワントが示した、一番背の高い、痩せっぽちの白い庭木を探して、触れる。

確かに、近づいて見ると、申し訳なさそうに垂れた細い枝の一つに、変なコブが出来て変色しているものがあった。

「まあ、このくらいなら届くかも」

「はい。気をつけて。…ああ、手前の葉っぱは切らないでね」

「ん」

ドルグワントから受け取った柄の長い鋏で、腐った枝を切り落とす。ぱきん、と小気味よい音が乾いた空気によく響いた。

「ありがとう。ついでに、切り口の処置もお願いしようかした」

「なんでもどうぞ、聖女サマ」

「いい子ね。じゃあこれ、切り口に塗ってあげて」

「…」

「嗅がないの」

へいへい。

背伸びをして、小さい缶に入った練り薬を先ほど切った場所に塗りこんでいく。ふと隣を見ると、ドルグワントは庭木を見上げていた。

「良かったわね。これでもう怖いことは、なにもないわ」

庭木に縋り付いて、優しく呟く。母親のように。

彼女は何にも執着しない。全てをあの微笑で、ああ、それもそうねと諦めている。

それが聖女たる残酷な優しさだ。

波も風も音もない世界で生きていそうに見える。

それなのに、彼女はこうしてときどき、自分の世界のものに対してだけ、本物の慈愛を与える。

俺は疑問を抱いた。

「アンタ、死なないんだろ」

「そうよ」

「アンタに怖いものとか、こうなったら悲しいってこと、あるの?」

死なないから―誰といることも出来ずここに独りきりだから、彼女はあんな目をするのだろうと思っていた。狂ったとしても絶えられない。終わりが見えない地獄も、ありそうだと思っていた。

「―アナタがいないこと」

「俺じゃなくて…?」

なにを言ってるんだ俺は。

「…ねえ。あっちの木にね、果物がなってるのよ。名前は知らないんだけど、おいしいの。今日のデザートにしましょう」

無理やり腕を引き寄せられた。鋏持ってるっつうのに。

ここに来てから、やはりどうもおかしい。無意識におかしなことを口走っていることが多い。この環境で、自分でも知らないうちに参っているのか。

「ほら、これよ。綺麗でしょ」

「なあ―」

俺の前を歩くドルグワントに、強烈な既視感を覚えた。デジャヴというやつだ。疲労していると、脳の誤作動でそう感じるという。視界に同じ写真が二枚重なるような感覚に襲われる。

「待ってくれ」

「待つわ。ずっと、ずっとね」

気持ち悪さで足を止めた。

繋いでいた手が滑るように解ける。

「俺は―誰なんだ?」

「アナタはアナタよ。カインでグレン。違うようだけど同じ」

「…」

「急がなくてもいいの。私はアナタがいるだけでいい。アナタがアナタじゃなくても」

「急ぐって、なにをだよ。俺がそのまんま、カインになるとかじゃねえだろうな!」

「人格は脳が作り出すものよ。私はカインのグチャグチャになった脳みそも復元したのよ。だからアナタはカインだけど、グレンなの」

受け入れられない。

だが俺は―今の俺には、彼女の言葉が全てだ。外的要因は一切ない。

逆光の向こうに、鮮やかな木の実を提げた木が見えた。

俺は知っている。あの木の名前も、実の味も。

胸の内が沸騰した。親父に会いたくなった。お袋に会いたくなった。親戚に。友達に。

これは全て悪い夢だったんだと、慰めてほしくなった。「お前はお前として、ここに居ていいんだ」と、ただそれだけが欲しくなった。

「ほんとはね。いいのよ。出て行ったって」

「は…?」

ドルグワントが振り返って、俺の手を取った。その手を自分の首にあてて、まるで締めているような錯覚を見せる。彼女は幻術使いだ。

「ほんとに嫌なら、走ってどこかへ行っちゃえばいいの。私のことも家族のことも、アナタの足を遅くするただの重りなの。途中で死んじゃったって、逃げ出した誇りが残るわ。家族だって、もしかしたら無事かもしれない」

「だけど」

「だけど私たちはそうしないの。なぜかしらね」

答えは簡単だ。

ドルグワントの髪に触れる。花の香りがした。

彼女の額に自分の額を当てて、熱を確かめた。

「ほら、早く。あれ、取って頂戴」

「…はいよ」





 

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