逃げられない・1
「アナタ、何日もここに閉じ込められて、気がおかしくならない?」
俺が物置で古い遊戯用のカードを引っ張り出して、ルールを勉強しようというところだった。
楽しげな声に振り向くと、聖女が硝子の窓にもたれて、怪しく笑っていた。
もう、彼女のなにも期待しないような視線にも慣れてきたところだと思いたい。
「人間が狂うのは、メシと寝床と、意志の自由が無くなった時だ」
へえ、とドルグワントが興味深そうにこちらを覗く。
「説明がいるのか?」
「是非とも聞きたいわ。ここに自由は無いもの」
「そうでもない。あんたは俺を縄で縛ったりもしないし―俺に対してどこへ行け、どこそこには近づくなとか、何をしろ、逆に何をするな、とか、具体的な制限は設けていないだろ」
「そう?教会から逃げ出すことは許してないし…私の用事には絶対付き合ってって、言ったでしょ?」
「それこそ強制じゃない。現に俺は、アンタ自体には脅されてもいないし。いい環境で朝好きに起きて、好きにメシ食って、好きに適当に時間潰して―そうすればまあ、アンタのワガママを聞いてやるか、程度の余裕は出てくる」
「外の空気を吸いたいとは思わないの?」
「中庭で済む話だ」
「おっかしい」
あ?なんだこのアマ。
「だからね。うふふ。そういう思考がもうおかしいっての。自分のものじゃないって、気づかない?」
ステップを踏みながら人のアイデンティティを否定する聖女がどこにいる。
「俺は俺の意志で、狂ってない」
「いいえ狂ってるわ。泣き叫んで、喚いて、外へ逃げ出そうともしない。私を罵って犯して、刺そうともしない」
「狂ってないのが狂ってるって?面倒くさい論理だな。アンタ、一人で長生きしすぎだぜ」
「なんですって」
ドルグワントが途端に機嫌を悪くする。そういうところは単純なのかよ。
「どうでもいい真理を求めるのは、暇な年寄りのやる趣味だよ」
今日は俺の勝利だ。
「ああ…わかった。ご両親と会えないから消沈しているのね?」
この女、どうあっても俺の感情を決めつけたいらしい。俺の内面を推理して、当たったことに対して、ほら見なさいと意地悪く笑いたいがために俺と会話するのだ。
俺はドルグワントの綿のような頬を摘んで、左右に引っ張ってやった。
「なにするのよぉ!痛いじゃない」
実際には、うまく喋れていない。
ビンタも考えたが、それはそれでヤツの思い通りになりそうなのでやめた。そういうのは癪に障る。
ほら、やっぱり愚かなのねとか思われたら、負けなのだ。
「アンタが思うよりな、俺は強いぞ。ナメんなよ」
ドルグワントが、ぽかんと口を開けていた。
そこで一生呆気にとられているがいい。と、俺は彼女を無視してルールブックの続きを読み始めた。
するとしばらくして、ドルグワントは膨れっ面で俺の背中に蹴りを入れてきた。
「ガキかテメー!」
「ふんだ。もういいわ。グレンのばか」
「待てコンニャロー!」
この無駄に広い神殿の中での追いかけっこは、二度としないと誓った。