ひとちがい・1
一気に血が登りすぎた反動か、あのあと俺はすっかり憔悴して、ドルグワントに案内されるまま、これから一生自室として使うことになるであろう部屋で横になった。
あの女と同じ匂いのするベッドに沈みこんで、ぼんやりと硝子の窓の外を見た。
ここからは町は見えないようだ。
まだ陽は高く、手のひらで草花の影が踊る。
きっと、彼女はいいひとだ。きっと、ここでの生活も悪くない筈だ。きっと親父やお袋は無事だ。きっと―
何かに言い訳をするように、目を瞑った世界で希望を反芻する。
俺がクローンだって。俺は俺だ。俺以外の何者でもない。俺は俺の体も心も、自由に操ることが出来る。
一生。一生って、あと、五、六十年くらいか?
ちょっとでも出ちゃダメなのか?両親に会いにいくのは?手紙を書くのは?
でもそれも―ドルグワントか町民に知られれば、詰みだ。
あの女を殺すか?
「…だめだ。それだけは出来ない」
いま、寝言を言った気がする。ドルグワントと話しただけで、だいぶ疲れた。
なにせ彼女は目にも耳にも鼻にも脳にも優しくない。存在そのものがあらゆる刺激となって俺の心臓を無理やりに加速させる、発電機だ。
ここにはせいぜい面影がある程度だ。考えなくちゃならないことはたくさんあるが、人間を稼働させるのは何より食事と睡眠だ。生きていられるうちに、生きるためのことをしよう。
お袋に叱られる夢幻に身を任せながら、俺は眠りについた。
―空腹で目が覚めた。
全く、どれだけ疲弊しても生命は諦めさせてくれない。
部屋の中は朝日で満たされていた。なるほど半日以上経ったらしい。
昨日と同じようなピアノの音色がどこからともなく空気を揺らしていた。
ああとりあえず―困ったらあの広間に行けと言われていたことを思い出す。
飯の支度をするにしたって、調理場の場所もわからないし。
俺は転がり落ちるようにベッドから出て、硝子の扉を開けた。
妙に長い廊下の最後に、広間へ出る扉を見つけた。
昨日は余裕が無かったけど、この神殿を改めて見ると、とにかく広い。というかいちいちスケールがでかい。巨人でも住んでるのか。実際にはあの女しか居ないわけだが。
―これ、風呂も硝子張りだったらどうしよう。
そんなしょうもない不安で、自分の心身の健康を確認した。
広間にはドルグワントも居るようだった。
できるだけそうっと入って、何事もない顔で挨拶をしよう。あの女に自分の弱いところを見せたくない。
ドルグワントはカウチにただ座っていたようだが、俺に気づくと、視線を上げて微笑んだ。
「おはよう、グレン」
「…おはよう」
「何時間ぶりかしらね。よく眠れた?」
「お陰様で」
「皮肉は嫌い。それを見抜く相手との間には必要の無いものよ」
「そりゃどうもすいませんでした。なあ、食事はどこで摂ればいい?」
「地下に台所と食堂があるわ」
「アンタはいいのか?」
「気が向いたら食べることにしているの。食べなくても死なないしね」
「あっそう」
ってことは、自炊か…。
この聖女さまが甲斐甲斐しく三食用意してくれるとも思わなかったが。俺にはあまり料理の知識も技術もないが、地道に習得していこう。
「やけに冷静ね。考えることも嫌になっちゃった?人間だものね、仕方ないわ。でも、私、そういう脆弱な生き方はしてほしくないのだけれど。数日経ったら、ちゃんと元気になってね」
「あのな。順応しようとしてるとは思わないのかよ」
「あはは、おかしい。アナタ普通じゃないわ」
変な女だ。ここに居ろと言ったくせに、ここに居ようとすることをまるで罪のように言うじゃないか。
覚悟なんて大層なものでもないが、俺なりに今の状況を整理しようとしているのに。
そう、世界は回る。だから、置いていかれたら終わりだろ。
「ねえ、グレン。この神殿の中だったら、アナタは自由にしていていいわ。もちろん、私がアナタに付き合ってほしい用事があったら、それが最優先だけれど。アナタの今後の生活の為にも、この神殿の中を把握しておくのがいいと思うの」
「へ、え…」
軟禁か。
よほど自信があるみたいだ。自分の狂信者たちに。
「それなら、後で行ってみるか…」
「ええ。別になにかを報告する義務も無いわ。気になったことがあったら訊いてくれてもいいし―まあ私がそれについて答えるかどうかはともかくね。立ち入ってほしくない場所も無いこともないけど、そこはアナタの良心に任せることにするわ」
つまり、ただ外へ出る扉に鍵がかかっているだけの、本物の自由だ。
それを魚の小骨だって死ぬことがあると捉えるか、明日にだって心臓発作で死ぬと捉えるかは、人それぞれだろう。
ともかく、ドルグワントの言うとおり、この神殿内部の構造の把握は先決だ。
まずは地下から。腹が減って死ぬ前に台所を見つけよう。どうやら案内はしてくれなさそうだし。