おかえりなさい
―あの神殿には『聖女』が住まう。
骨と硝子だけで出来た教会のなかに、世界のあらゆる草花を敷き詰めた楽園のような場所。
『聖女』さまは、そこでずっとずっと、俺たちが生まれる前から死んだあとまで、祈りを捧げ続けると。
子供の頃からそう聞かされていた。
18歳の誕生日。俺はそこに行くことになった。
親父もお袋も、舞台の幕引きを惜しむような、情けない顔で俺を送り出した。
俺は神殿騎士団に両腕引っ張られてるくせに、「心配すんなよ」とかスカして見せたりした。
大好きな両親だった。
肌の色も目の色も違う俺を本当の息子として扱ってくれた。俺は途中でちょっとひねくれたりしたけど、ここ以外に帰る場所はないと、そう思い知らされた。
少し前から、「18歳になったら神殿に行く日が来る」と、それだけ教えられていた。
この町の人々が“聖女様”と呼んで崇めるひとが棲む場所で、俺は使用人として召抱えられるのそうだ。
一種の奉公かな。だったらまあきちんと働いて、両親に恩を返せればそれでいい。
この辺境の町には古いしきたりや言い伝えがたくさんある。
特に、その祈りの力で内戦や自然災害、疫病から俺たちを守ってくれる“聖女様”の権力は、絶対だそうだ。
聖女の許可なく神殿に近づいたり、その姿を見てはならない。言うなれば現人神だ。
あいにく俺は大人たちの言葉を信じなかったので、その辺に対する有り難みはあまり感じてないけど。
もしかしたらこの肌と瞳の色に刻まれた本能が、信仰を拒否しているのかもしれない。
まあ、そんなことはどうだっていい。
俺の意志など無くても、世界は回るのだ。なら、その速度に追いつかなくてはならない。
聖女様の神殿は、ちょうど、俺が神殿騎士との他愛ない会話でネタ切れを起こした頃、死ぬまで続くかと思われた森の先に、静かに現れた。
おとぎ話の通りだった。
見たことのない蔦やら花やらがぐちゃぐちゃに群生していて、その下から、骨組みの上に硝子だけを全面に張った、壁も床も透けたどでかい教会のような建物のシルエットが覗いている。
…いや、温室だと言われても、ははあめっちゃ豪華だなあで済ませられそうだ。
「行け」
神殿騎士団の一人が俺を解放した。
「中、入っていいの?」
「ああ」
その代わり、ともうひとりの神殿騎士。
「絶対に逃げ出すなよ」
「はあ」
神殿騎士団たちに解放されて暫く歩くと、神殿の入口らしきものを見つけた。
これまた蔦の絡んだ硝子の重そうな扉だが、植物がみな青々としているのと、割れた硝子の一枚もなければ、落葉や埃の影形すら見当たらないことに気が付くと、気持ちの方はいささか軽くなった。
硝子の扉は音無く開いた。
途端に、心地の良い空気と甘い香りが目と鼻を掠めていった。
中は、横にも縦にもぶち抜いたような広間だった。外のように植物がウジャウジャあるわけでもなく、隕石が落ちたみたいな真っ白な床にときどき木陰が揺れて、無造作に豪華な家具が並んでいる。
実際の教会のようにベンチがるわけでも、神像があるわけでもない。
耳に入るのも、パイプオルガンじゃなく、単調なピアノの音色だった。遠くから聴こえるようでいて、ぽつ、ぽつ、と指の触れる音まで拾われている感じもする。
「いらっしゃい。そして、おかえりなさい」
そこには、聖女がいた。
一目でそれは、神聖なものだと気づかされた。
美しい女が立っていた。
頭から水牛のような太い角を生やした異形の美女が、ドレスとヴェールを揺らして俺のもとへと歩み寄ってくる。
肌は、白い。俺とは対照的な、陶器や雪を思わせる白い肌をしている。
足を進めるその動作が、花の上を舞う蝶のようだ。
瞳は、わからない。俺は、人間は、この色を認識し、言葉にする方法を知らないと思った。
なぜ彼女が歩きたいと思っているのに、この世に物理法則があるのだろう?
彼女が浮かべる笑顔は生命的で、それでいて、俺を否定しないものだ。
「私は聖女ドルグワント。アナタがグレンね」
かろうじて人間的な音を耳にして、俺は我に帰った。
「はい」
聖女は俺の目の前に来ると、その手で俺の頬に触れた。
緊張が呼吸となって身体を行き来する。
「ああ、ああ…本当に…アナタなのね…」
俺はぎょっとして、数歩退いた。
「ふふふ。驚いた?私のこと、わからないのね?」
確かめるような問いだった。
そして存外、聖女は人間くさい喋り方だった。
「―カイン」
「は…?」
「いいの。何でもないわ。改めて、ごきげんよう。グレン」
「どうも」
「ここへ来た感想は?」
「え…まあ、綺麗?それより聖女さまが綺麗で、なに感じてたかなんて吹っ飛んじまった……です」
「あはは!面白い!ここへはほとんど人が来ないから、そんなことを言われたのは久しぶりだわ。ありがとう」
聖女は少女のように笑った。
彼女と、会話ができていることに感動している自分がいる。
「私、ずっとアナタを待っていたの。会いたかったわ」
「俺と?」
「そう。私がこの世で望むのはアナタだけ」
彼女の指が俺の髪をゆるゆると梳く。同年代の異性にだって言われたことのない台詞の筈なのに、俺は、なぜだか特別な興奮も、不快感も抱かなかった。
普通の男なら歓喜して飛び上がるか、人によっては訝しみすぎて胃の中のものを吐き出すだろう。
髪から首へ、細い指は流れていく。
「なあ…聖女様。アンタと会ったこと、あった?」
「なぜ、そんなことを言うの?」
わからない。
いまのは、俺が言ったのか。
ああ、ここの雰囲気に当てられて、酔っているんだ。
ここで正気を保つのはなかなか難しそうだ。
「ねえ。アナタは、アナタが何の為にここへ来たか、わかっていて?」
「いや………ただ、連れてこられて」
「そう…可哀想に」
え?
俺の聞き間違いだろう。
聖女ドルグワントは、くるりと反転して俺に背を向けて、一瞬だけ凍りつくような雰囲気を纏ったあと、また俺に向き直った。
俺に人差し指の腹を見せて、内緒話をしたそうに妖しく笑う。
「アナタの役割を説明するのに―ちょっと昔話をしなきゃいけないんだけど、いい?」
どうぞ、と頷いた。
聖女は少し口角を上げて、柔らかに語りだした。
「50年くらい前にね。一人の人間の男が、この神殿に迷いこんできたわ。男はなにも持っていなかった。あるのは名前と体と、ほんのわずかな心だけ。褐色の肌と金色の瞳をしていて、移民だとすぐわかったわ。それでね、この町、閉鎖的でしょ。男は行くあてがないって言うから―聖女は快く彼を迎え入れた。」
「なんだって?」
50年前と前置きしておきながら、いま、彼女は話の中に自分を登場させなかったか?
どう見てもこのひとは若い。俺より少し年上の成人女性だ。
「あら。聞いたことはない?私、不老不死なの」
「それって。歳を取らない?」
「そういうこと。続けてもいい?」
俺の驚きに比べて、彼女があまりにあっけらかんと答えるので、俺は考えるのをやめた。
冗談なんだか本気で頭がおかしいのかわからないが、ここで突っかかってもいいことは無さそうだ。
「それで―私は彼に、ここに棲む代わりに、お願いしたの。お金はあげられないから、私の奴隷として、“ずっと側にいて”“ここから二度と出て行かず”“私を一番に考えて”“私が望むことを何でもして”って」
それって、まるっきり―
「そうして私と移民の彼は長い時間を一緒に過ごして―その内、卑怯な言い訳と取引をやめて、心から共に在ろうと思うようになった。…でも、」
―でもある日、
その言葉だけが、妙に影を落とした。それはそうだ。その移民の男は、“ここには居ない”。
「私が彼の子供を妊娠したのをね、町の誰かが気づいちゃったみたい。きっと私の守護が弱まったからね。町のひとびとは私の大事な奴隷を悪魔と呼んで、神殿から引きずりだすと、彼の頭を粉々に砕いて、四肢を火にくべて、内臓を動物に食べさせたわ」
うっ。
確かに、この町のひとびとは、過激だ。
こと宗教や思想のことになると、歯止めが効かなくなる。過酷な環境で、ルールから外れた人間や物事を淘汰して自我を保たなければ、生きていけないからだ。皆が狂信者にならざるを得ない。
俺はそういった話を、子供の頃からよく聞かされていた。皆はそれを、美談として語っていたけれど。
でも俺は何より、そんな、大切なひとの死に際を、笑顔で口にすることが出来る彼女を恐ろしいと思った。
あるいは、もう、冷え切ってしまったのか。あまりに、酷すぎて。麻酔をかけられたように、もう痛みを感じることができないのかもしれない。
「結局ほんとうに彼は死ぬまで、ここから出なかったわ。私も、ヤケになって無理やり自分のお腹を裂いてみたりしたけど―彼との赤ん坊が死んだだけで私は死ねなかった。まあ当然ね」
彼女と目が合った。俺がどんな顔をしていたのかはわからないが、彼女は一段と目を細めた。
「アナタにしてほしいのはね。彼と全く同じことをしてほしいの。私の奴隷。生涯ここから離れずに、私のために尽くしてほしいの」
は、と思わず呆れた声が短く漏れる。
「死んだ彼氏の代わりをしろって?」
つまるところ彼女が言っているのはそうだ。
自分を大事にしてくれた男がいなくなったから、どうにも容姿が似ていそうな俺に、都合の良い召使をやれと。
俺にメリットなくない?
すると彼女は、急に肩を震わせた。
「あは、あははは、そうね。今のアナタからしてみれば、馬鹿げているわね。でも、部屋と食事はあげるわよ」
俺は頭の中で、条件と今の環境と比較する。
うーん…見合ってないな…。
「私のこと、嫌い?」
聖女は甘えるように口を尖らせた。
「そういう問題じゃねえし…」
今日はじめて、彼女から目線を外した。
彼女はそれが気に入らなかったのか、無理矢理に俺との距離を詰めた。
「ねえ。これはただのお願いじゃないの」
耳元で悪魔が囁く。
そうだ。『聖女さまは絶対だ。』。是非を決めるのは俺じゃない。
俺は先ほど、彼女が語った昔話の最後を思い出す。
聖女を受け入れて糾弾されるのなら―聖女を拒んだら?もしそれが、俺だけに及ぶものではなかったとしたら?
足が竦むのがわかる。血の気が失せていくのを感じる。
ああ俺は―とんでもない所に来ちまった。恐ろしいものに目を付けられてしまった。両親の表情の意味を、今になって理解してしまった。
「だいたい、なんで俺なんだよ」
締め上げられたような上ずった声をあげる俺に、聖女はまた、おかしそうに笑う。
「あら…なあんにも知らされてなかったのね。可哀想。いいえ、知らないほうが幸せだと思われていたのかしら。大人の下らないエゴのために。くすくす」
聖女は俺の左腕を取って、袖を捲ると、露出した俺の腕に浮かぶ痣に触れた。
俺にはだんだん、このひとが、不気味に思えてきた。この聖女さまとやらの好きにされるのは、嫌だと直感する。
しかも、明らかに怪訝そうな顔をしているであろう俺と目を合わせているくせに、ニンマリと微笑んでやがる。
「これ。このアザね。あなた、いつからあるかわかる?」
「知らねぇよ」
「正解はね。あなたが生まれる前から」
「…は?なんだ。下らない言葉遊びなら付き合うつもりは無いんだけど」
「そんなかわいいお遊戯だったら良かったのにね。これはね、これは、私が、“前の奴隷からアナタを作ったっていう証”なの。私がグチャグチャになった“彼”のからだを全部集めて、私の力で新しい“彼”を創った」
こいつの喋り方はどうも癪に触る。もっとひどいこと言ってほしい?と、歪んだ愛情を求める子供のような―そんな苛つかせ方だ。
俺を捉えて煌々と輝くその瞳が、グロテスクな虫の羽ばたきを思わせる。
「つまりね。要するに。アナタって、“前の奴隷”のクローンなの。わかる?遺伝子という原版から作った、贋作なの。生まれた時からここで死ぬまで閉じ込められることが決まってた。ふふ、うけるでしょ。うけちゃうわ」
「バカバカしい。わざわざ作って、今まで野放しにしてたっての?」
「そう。アナタを作った時にね、思い出さなきゃ良かったのに、私って聖女だからさ。思い出しちゃったのよ。信者の夫婦―ああ。アナタがお父さんやお母さんだと思っているひとたちがね、子供が欲しいって言っていたのを。で、私、優しい聖女だからね、18歳になるまでだったら、貸してあげるって約束したの」
ドク、と心臓の周りの筋肉がまとめて膨れ上がった。血が目の裏まで回ってくる。
「でね。今日18歳になっちゃったでしょ」
「親父たちは!!」
「さあ。聖女さまに子供を借りてた人たちだからね。どんな扱いされてるかしら。もしかしたら行き過ぎた信仰で気の毒なことになっているかもしれないけど…まあ、アナタはもう一生ここから出られないし?関係ないっちゃないわ」
俺の腕を掴んでけたけた笑う女の横っ面を、思い切りひっぱたいた。
右頬を赤くしながら、それでも女の口角は上がったままだった。
「ふふ。ふふ。わかるわ。『なにを笑っているんだ』って、そんなカオをしてるもの。でもね、笑い事なのよ。今のアナタと私に比べたらどんなことだって」
「すぐにでもこんな所出て行ってやる」
「無理。アナタに死んで欲しくないわ」
「脅しのつもりか?」
苦し紛れだった。
聖女は冷たく暖かくもなく、ゆっくりと首を横に振る。
自分でも文句をつけたくなるような思考が全身の細胞で渦を巻いている。
そんなの、そうだ。俺はここを一歩でも出たら死ぬ。親父たちも死ぬ。ここに入った時でも18歳になった瞬間でもなく―この女の言葉が真実だとしたら、産まれた時からそれは決まっていたことだ。
「あなたは“前の奴隷”のクローンだから、私から逃れられないの」
〈1おわり〉