九、
ハナはサクラの元から帰りたがらなかったが、聡太には仕事が残っていた。
また明日も来ようと約束して、聡太はハナを連れて戻った。
家に着いた時、二人は思ったよりずっと疲れていた。
あんまりにも急ぎ足で山を登ったからか、或いは色々なことに驚き過ぎたからか。
そういえば昼餉の時間もとうに過ぎている。
ハナは縁側に腰を下ろすと、ごろりと横になった。
「ハナ、大丈夫だか?」
「なぁんも、眠くて、一休みさせてくんろ」
聡太は座布団を二つに折って、ハナの頭の下に敷いてやった。
「おらぁ飯の仕度ばしてくっから、そこで寝とっけ」
「ん、あんがと聡太」
ハナは目を閉じると、すやすやと寝息を立て始めた。
ハナの気持ちも分かる気がした。
太陽は空の天辺を過ぎ、辺りは湯でも染みたかのようにぽかぽかと暖かい。
冬の世界はまるきり一変していた。
木や草はぐんと背を伸ばしたように生き生きと見えるし、雪を降らす重い雲はどこかへ去って、空は目の覚めるような青に染まっている。
野や畑に残っていた雪も溶け出して、いくつもの水溜りができている。
こうして縁側で陽を浴びていると、布団に包まれているかのようでこのまままどろんでしまいそうになる。
聡太は台所に下りて食事の用意を始めた。
朝炊いた米を湯漬けにして、温めた味噌汁に漬物を添えただけの簡単なものだ。
手早く拵え、箸と椀も揃えてからハナを呼ぶ。
しかし答えは返らない。縁側を覗いて見ても、先程まで横になっていたその場所にハナの姿は無かった。
「ハナ?起きたべか」
聡太はハナを探した。
家の中、庭、畑、納屋、それから屋根裏部屋も。
沢、炭焼き小屋、集落の跡、まさかと思ってサクラの元まで出かけて探し回ったけれど、ハナはどこにも居なかった。
どこにも居なくなっていた。
聡太はとぼとぼと家へ帰って来た。
ハナの名を呼んで回ったせいで、喉は痛く声は罅割れていた。
聡太が知っている場所、案内したことのある場所は全て確かめた。
これ以上ハナが出かける先に心当たりはなかった。
自分の村へ戻ったのだろうか、聡太にも黙って。
そんな考えが頭を掠めた時、ぴしゃりと水を蹴散らす音がした。
見れば、足の下に水溜りがあった。
縁側の下から庭先まで一繋がりになった大きな水溜りだ。
触れてみれば、たった今沢から汲んできたかのように冷たい。
雪解けだ。
「こんなとこに雪ぁ……」
残っていなかった筈、と言い掛けて気付く。
そこに一片、サクラの花びらが浮かんでいた。
「ハナ?」
サクラの木から去り際、枝を拝んで一枚だけ取らせて貰ったものだ。
紙に押して大事に置いておくのだと、ハナが言っていた。
サクラの花が散った後にも、時折眺められるようにと。
聡太はそっと花びらを掬い上げた。薄紅色の欠片が指先に張り付く。
それを両手に包んで大事に大事に持ち帰ってきた少女のことを思った。
「ハナ、おめえさ、雪ん子だったのけ」
春が来た。花は咲いた。
そして今、雪は解けて消えたのだ。