八、
次の日も、その次の日も雪は降らなかった。
山肌を吹き降ろす冷たい風も凪いで、穏やかな日だった。
雲は明るく、心なしか寒さも和らいだ気さえする。
今朝は霜も薄くなっていた。
聡太は朝から畑に出ていた。
雑草を引き、畝を整え、硬い地面に鍬を入れた。
ハナと暮らし始めてから少しずつ作物の量を増やしていたが、ハナも農作業に慣れたことだしいっそ畑を広げてしまおうと思い立ったのだ。
婆様が居なくなって以来使わなくなっていた一面を、もう一度耕して豆と芋を植えようと考えた。
幾畝分かの土を柔らかく解した後、鍬を置いて疲れた腰をえいと伸ばした聡太に、縁側からハナが声を掛ける。
「聡太ぁ、一休みすっぺぇ」
見れば、ハナが茶の支度をしてくれていた。
相変わらずハナは熱いものが苦手で、葉や湯飲みの用意まではできるが湯を注ぐこととなると聡太の役目になる。
ハナの分はいつも、湯が温い内に分けて淹れることにしていた。
煎り豆を菓子の代わりに齧りながら、聡太はハナに問う。
「今日はもうサクラば見に行ったべか?」
「まだだ。釜洗いに沢さ上がっから、そん時見てくるべさ」
とハナは答えた。
サクラの木を見つけてからこっち、ハナは毎日芽の成長を眺めに通っている。
昨日は、随分と数も増えて綻び始めたものもあると報告してくれた。
先日の木の他にも幾本かのサクラを発見していたが、どれも家から少々遠いのでやはり一番の期待は最初のサクラにかかっていた。
聡太も、できる限りサクラの様子は見ておきたかった。
「そんだらおらも上がっから、一緒に行くべえ」
「すぐ上がるだか?」
「畑さとっとと片しちまう、飯食ってから行くべ」
「んだば、うちは掃除してるけえ」
湯呑みと急須を片付けて、ハナは立ち上がった。
昼餉の支度もしておいてくれるだろう。その間に聡太は仕事を終えてしまわねばならない。
「さて、もう一頑張りするべえか」
手拭いを首に掛けて、聡太は畑に戻った。
小さな畑であるから、昼前にはその半分を耕し終えていた。
そろそろ腹も空いたので、切りのいい所で一旦終えようとした頃。
山上からびゅうと風が吹いた。
ざあざあと木の葉や草を唸らせながら通り過ぎて行った後を仰ぐ。
空が白んでいた。
行灯の薄紙を透かした火のように、うっすらと霞んだ雲の向こうに眩い光が浮いている。
それは炎のように赤くなく、真っ白で煌々と輝いていた。
雲に切れ間が差した。そこから光が零れ出る。真っ直ぐに明るく地を照らす。
聡太は驚いた。
それが太陽と呼ばれるものだと気づくのに少し時間がかかった。
聡太が思い描いていた太陽は、空を覆うように巨大な薄ぼんやりとした火の玉だ。
だが、現れたそれはちっぽけな程小さいのに、目が痛くなるくらい輝いていて直視できなかった。
雲の裂け目はますます大きくなり、天から伸びる幾条もの光の梯子が山裾の斜面をあちこち斑に染め上げる。
聡太ははたと気がついた。
急いで家へ取って返して、大声でハナを呼ぶ。
驚き飛び出してきたハナは、外を眺めてもっと驚いた。
「こったらどしたことだべ?」
目を丸くするハナに、聡太は確信を持って答える。
「春だべ、ハナ、春が来たんだべ!」
「こいが春だべか?綺麗だなあ!」
ハナは庭へ駆け出て、集落を見下ろした。
切れ切れの光に照らされて、木々や草の緑が鮮やかに輝く。残り雪に反射した光が、眩しくきらきらと目を刺した。
灰色に閉ざされくすんでいた風景は一瞬で追い払われた。
日の光が作り出す強烈な色彩が世界を変えていた。
放っておけば、ハナはいつまでも飽きずにこの光景を見つめ続けていただろう。
聡太はハナに声をかけた。
「山に行くべ」
「サクラ!」
ハナは勢い込んで振り向いた。
そうだ。春が来たということは、サクラが咲くのだ。
二人は上着を着込む間も惜しんで、競って山を登った。
通い慣れた草の道には、斑模様に木漏れ日が差している。
木々の上に降る陽光が、濃い緑の葉群れを鮮やかに照らす。
頑丈な枝に積もった重い雪が緩んでどさりと落ちた。
太陽のせいだと聡太には分かった。
その白い光に照らされた場所は、まるで焚き火に当たったかのように温かみが生まれるのだ。
サクラもまた日を浴びてそこにあった。
かつてない程強く差す光に、白く霞んだような景色の中立っていた。
ハナは枝の下へ駆け寄って、蕾を見上げた。
二三、四五と固まって枝のそこここについている薄紅色の窄まりが、ぽつりぽつりといくつもほぐれ始めている。
儚い薄い花弁が解け、赤く染まった花芯を覗かせていた。
ハナは指先でそっと花弁に触れてみた。しっとりと柔らかいそれに傷がつかぬ内にさっと手を引っ込める。
そして聡太を振り向いた。
「聡太!花見するべ」
「まだ花見にはちと早えべ」
枝枝からこちらを見下ろす小さな花を眺めて、聡太も頬を綻ばす。
「サクラぁ、もっと一杯咲くべ。
木ぃ全部が花だらけになるんだべ」
そうしたら花見をするのだと言う。
木が全て花に包まれると聞いて、ハナは夢見るような心地で笑んだ。
「綺麗だろうなあ、早く見てえだなあ」
花に視線を戻した先、遥か遠い山の向こうで綿のように千切れた雲の隙間から、青い本当の空の色が覗いていた。