五、
写真を見て後、ハナは昔の話を聞きたがった。
聡太は知っている限りのことを教えてやった。
山のこと、畑のこと、冬の始まりのこと。
長い長い戦があって、人が大勢死んでしまったこと。
大きな爆弾の爪痕が人の心まで荒廃させてしまったこと。
その時から空は雲に閉ざされ、ずっと続く冬が訪れたこと。
ハナは神妙な顔をして時々頷きながら最後まで聞いた。
ハナは教えたことはよく覚えるが、知らないことはまるで赤子のように何も知らなかった。
「聡太は物知りだべ」
誉められて、聡太は照れ臭そうに笑いを噛み殺した。
「何ぁも。おらぁ婆様に教わっただけだべ。それ以外のことは全部本で知ったべ」
「本?」
「んだ、本なら屋根裏にいっぱいあんべぇ。読みてえか?」
ハナは目を輝かせて何度も頷いた。
聡太はハナを屋根裏に連れて行ってやることにした。
ある日の夜、仕事が終わって晩飯も済ませた後。
聡太は梯子を掛けて屋根裏に上った。
後ろからそろそろとハナもついて来る。
「明かりば着けるから、ちいと待つべ」
聡太が手燭に火を灯すと、闇の中にぼうと埃っぽい本棚の姿が浮かび上がった。
橙の光に照らされた本の群れは、炎の揺らめきに合わせてゆらゆら身動ぎするように踊った。
ハナは言葉も無く、感嘆の溜息をついた。
「全部爺様のだ。大事なもんだからそっと触るだぞ」
大きく頷いて、ハナは手近な一冊を手に取った。
分厚く重く、小さな文字がびっしり並んでいる本で、ハナは早々に眉間に皺を寄せて閉じてしまった。
「そいつぁハナには難しいべさ」
聡太は笑いながら、別の本を引っ張り出した。
そちらは薄くて軽くて、文字も大きく読みやすそうだった。
「うち、絵がたくさん入ってる方がええ」
「ほしたら、こっちはどうだべ」
聡太が奥の棚から大きくて表紙の固い本を取り出す。
植物図鑑だ。背表紙や小口は色褪せていたが、中はまだしっかりしていた。
色鮮やかな花や果実の姿に感嘆の声を漏らし、ハナはそれを大事に横へ避けて置いた。
後でじっくり眺めようと思ってのことだろう。
それから、本棚を順繰りに覗いて行く聡太から離れて、隅に積まれていた箱の方に興味を示した。
「聡太」
背を向けたままの聡太にハナが問う。
「この箱は何だべ?」
「開けてみればいいべ」
聡太はどの箱か確かめずに答えた。
散らかすなら小言の一つも言うだろうが、見られて困るものは入っていないと分かっているから。
ハナは木箱の蓋を開いた。
中には、無造作に詰め込まれた沢山の絵本が入っていた。
ハナはそれを取り出し、一冊ずつ広げてみた。
どれも子供向けに書かれた童話だ。
「みいんな子っこが読む本だべ」
「そりゃあ、おらが子っこの頃読んでたものじゃもの」
聡太は明かりを持ってきて、ハナの手元を照らしてやった。
懐かしげにその内の一冊を手にとって開いてみる。
一番気に入って、何度も婆様に読んでもらったものだった。
「うちこれ知っとぅ、これとこれも知っとぅ」
楽しげに表紙を指差すハナの手が、とある一冊の前でふと止まる。
「うちこれ知らね」
聡太が手に取る。表紙には何も記されていなかった。
表は茶色一色の紙で、他の絵本のように楽しげな絵は描かれていない。
中身は文字ばかりで紙の質も少し劣るようだった。
何よりも一番違っていたのは、それが手書きだったことだ。
神経質そうな万年筆の細い筆致が、大部分の頁を埋め尽くしている。
最初の頁に目を通して、聡太は驚いた。
「ハナ、おめぇ凄えもん見つけただぞ!」
それは日記だった。それも恐らくは、冬が始まった頃に書かれたものだ。
世界が炎に包まれた日について記されていた。
遠い国同士で続いていた長い争いが、お互いの町という町を焼き尽くして終わった日のことだ。
二人は日記を持ち出して、囲炉裏の側の明るい所へ広げて座った。
ハナが読めない難しい文字は、聡太が読み聞かせてやった。
日記には、戦による不安や恐ろしさが何日にも渡って書き連ねられていた。
誰が書いたものだかは知らないが、読んでいる聡太やハナでさえ当時の不安のいくらかは感じ取れる程だった。
空が雲に閉ざされ、畑が枯れ、雪と霜に覆われてゆく世界の克明な記録だ。
それは聡太とハナにとっては当たり前の姿だが、この頃はそうではなかったのだと新鮮な驚きを与えてくれた。
飢えと凍えに怯え苛まれる人々の姿と苦しみが、古いインクの綴りから滲んでくるようだった。
「聡太、うち怖い」
ハナが聡太の肩に縋るように寄り添った。
聡太は日記を閉じた。
「昔の話だ、ハナ。今は怖いことなんか何も無ぇ」
ハナは頷いたが、ひやりと冷たい指先は聡太の袖をぎゅうと握り締めて離さなかった。
聡太は、ハナを怖がらせないだろう箇所だけを選んで説明してやった。
半分辺りまでは、聡太が知っている昔話と同じだった。
人が冬の世界に適応して行くまでの、長く苦しい日々。
凍てついた空と地面の間で細々と、だが懸命に営みを紡ごうとする人々の記憶。
字面を追い進めて行く内に、何度も繰り返し出てくる言葉があった。
『青い空が見たい』『春が来ない』
「青?」
ハナが首を傾げた。
「青ちゃ沢や池の色だべ。空じゃねぇ」
聡太は笑って、教えてやった。
「ほんとの空ぁ青いんだ」
ハナは信じなかった。
「嘘んこだ。空ぁ灰っこでできてるべさ。んだで灰っこが降ってくるべ」
「嘘でね。ありゃあ灰っこじゃねくて、雪っていうべ。
雪はちっちぇえ雲の欠片で、空にあるのは全部雲っていうべ。
雲の上にはほんとっこの青い空ぁあって、お日さんってでっかい火の玉がぴかぴか光ってるんだべ」
聡太がそう言っても、ハナは今一つ信じ切れないようだった。
「うち見たことねぇ」
不服げに唇を尖らせたハナに、聡太は得意げな顔をして言う。
「おらぁ見たことある」
ハナが目を丸くして驚いたので、聡太はますます得意げな気持ちになった。