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灰色の桜  作者: 黒衛
3/10

三、



明くる日、聡太は朝早くから山へ出かけた。

身を切るように冷たい朝の空気の中、えっちらおっちら沢へと上った。

そこには小さな滝があって、雪と同じ温度の水の中をぎょろりと目の突き出した魚や奇妙に背骨の曲がった魚が元気そうに泳いでいる。

聡太は水面に影が映らぬよう川縁に身を低くして、慎重に糸を垂れた。

しばらく待つと、竿を握る手に二度三度と浮きが沈む感触が伝わる。

頃合を見計らって勢いよく引き上げれば、大きく身を振って飛沫を散らしながら魚が釣り上げられた。

昼前までそうしていると、魚篭の中が一杯になった。

ずしりと重くなったそれを担いで、家へ帰る。

今日の夕飯は豪勢に魚が食えそうだ。

桶に張った水の中に魚を放ち、竿を物置に片付けようとして――それに気づいた。

人。

人だ。

畑と家の間にある、便宜上庭と呼んでいる然程広くも無い剥き出しの地面に、人が立っていた。

一瞬それが何であるか理解できなかったのは、聡太が自分以外の姿形を久しく目にしていなかったせいだろう。

裸足の女だった。

三度瞬きして幻でないことを確かめ、ようやく聡太は驚いた。

手にしていた竿と魚篭を落っことしたのも気にならなかった。

聡太が上げた声に女は振り返った。

女は聡太より五つ程若く見えた。十四、五の少女といった年頃だ。

髪は黒く、瞳は大きく、頬と唇はふくふくと丸くて赤かった。

聡太は道具を拾うことも忘れて、まじまじと女を眺めた。

女は、聡太と聡太の畑、それから物置の軒先に干してある茸を順繰りに眺めた。

はたと聡太は思い至った。

「おめ、腹さ減ってんのけ?」

人に話しかけたのは久し振りだった。

危うく声の出し方を忘れているかと思った。

女はじっと聡太の顔を見やると、こくりと一度頷いた。

聡太は縁側に寄って女を手招く。

「上がれ。今足拭くもんと火鉢持ってきてやっから」

聡太は履物を乱暴に脱ぎ捨て、奥へと駆け込んだ。

桶と手拭いを持って戻ると、女は靴脱ぎ石の横に腰掛けて待っていた。

火鉢で温めたぬるま湯を桶に注ぎ、手拭いを浸して絞った。

女に渡すと、女は怖々受け取り、聡太に言われるままそろそろと自分の足を拭った。

女が足の泥を洗っている間に、聡太は火鉢に炭を足してやった。

温まったから傍に座れと勧めたが、女は遠慮してか火鉢からは離れたところに座ったままだった。

女は防寒具も纏っておらず、身に着けているものといえば厚みの無い長着一枚だけだ。

どこから来たのかは知らないが、昼の内で良かったと思った。そんな格好で夜に外を彷徨えば凍え死んでもおかしくない。

見れば、女の手も足も赤く冷たくなっていた。

霜焼けを起こしているのだろうと、聡太は女の手の先をさすってやった。

手の平で包み込み、乾いた布でこすってやっている内に、その肌の恐ろしく白いことに気が付いた。

きめ細かく柔らかな指先は、硬く荒れた聡太の手指とは大違いだ。

髪も結われてこそいないものの艶やかで長い。

着物とて外歩きには向かないが、一目で分かる程上等な布でできていた。

どこか良い家のお嬢さんに違いないと、流石の聡太にも想像が付いた。

「おめ、名前ば何ていうべ?」

女は答えずにじっと聡太を見返した。

「名前だべ、聞こえてねえべか?それとも喋れねえべか?」

小さく左右に首を振って答える女の瞳が、少し悲しげに潤んだ。

「どうしたべ?お前、もしかして名前が無えだか?」

頷く。沈んだ面持ちで俯いた拍子に、女の顔の横でさらりと絹のような髪が流れて垂れた。

聡太は腕を組んで、うーむと唸った。

恐らくは言いたくないということだろう。

良い家の娘が靴も無く一人でこんなところを歩いているとすれば、余程深い理由があるに違いない。

名を、正体を知られれば家へ連れ戻されると考えて、それを恐れているのだろうか。

とにかく容易には口に出来ぬ事情がありそうだと勝手に合点して、聡太はそれ以上尋ねるのをやめた。

「んだば仕方ね。ハナって呼ぶべ」

はっと顔を上げ、女は聡太を見た。

真意を確かめようとでもするかのように、まじまじと眺めやる。

「ハナ?」

囁くような声音で尋ねた。

「ハナ」

その音を味わうように、口の中で数度繰り返す。

「そうだ、ハナだべ。気に入ったか?」

女が微笑んだ。ほろりと笑った。

花が綻ぶような幸福げな笑顔だった。



その日から、ハナは聡太の家へ居つくことになった。

ハナはあちらこちらへと聡太の後を追いかけ、聡太のすることをよくよく眺めて回った。

すぐにハナは家の中の仕事を覚えてしまった。

掃除をし、水を汲み、炊事や洗濯の手伝いを始めた。

井戸から重い水を運ぶのも、冷たい水で鍋を洗うのも、ハナはちっとも苦にしなかったが、ただ火の側へ寄ることだけは嫌がった。

囲炉裏や火鉢にもあまり近くへは座らず、竈の火を熾すこともできないので、火に触る仕事は全部聡太の当番になった。

元は何もかも一人でやっていたことだから、聡太には何の不満もない。

むしろ気を使ってか、手がかじかむような水仕事を進んでやるハナをいじらしいとさえ思った。

ふと、もしかしたらハナは火事で焼け出されたのかも知れないと考えた。

それならば、火を怖がるのも当然だ。

家を失い一人で彷徨ったとすれば、大層心細かったろうと哀れに思った。

火に関わらぬことならば、ハナはよく働いた。

焚き木拾いも畑の世話も、文句一つ言わなかった。

流石に薪割りのような力仕事は聡太がやったが、ハナも山菜取りや干物作りなど出来る限りのことに精を出した。

料理の腕も上出来の部類で、鳥や魚の捌き方、漬物の作り方もすぐに覚えた。

代わりにハナは、山葡萄がよく生えている場所の見つけ方を教えてくれた。

ハナは好き嫌いなく何でも食べた。

ただ、熱い食べ物が苦手なようだった。

炊き立ての飯や湯気を立てる汁物は、ふうふうと冷ましてから口にする。

がさつにかき込む聡太とは違って、その所作がどこか上品で、やはり良い所の出だろうと聡太は想像を確信に変えた。





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