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灰色の桜  作者: 黒衛
1/10

一、



びょうと風が吹いた。

がたがたと戸が鳴っている。朝の気配がした。

外は暗い。山影に立つ家にはまだ日が差さない。

聡太はもそりと温い布団から這い出た。刺すような冬の寒気が身に染みる。

とはいえ、毎朝のことだ。今更苦に感じることもない。

朝一番の仕事は火をおこすことだ。

竈の置き火に枯葉と薪をくべて、竹筒越しに息を吹き込む。

ぱちぱちと火のはぜる音が聞こえ出し、やがて橙色の炎が踊り始める。

しばしその前で体を温めてから、顔を洗う。

水は竈横の大瓶に汲んである。そこならば、火を消した後もしばらくは温かい竈のおかげで水が凍りにくい。

朝には表面に薄氷が浮いているが、瓶丸ごと凍りついたことはないので助かっている。

そういう知恵を、聡太は婆様から教わった。

柄杓の柄で氷を割って、瓶の中身を桶に移す。手拭いを浸して絞り、ごしごしと顔を拭く。

指が切られるように冷たいが、おかげでしっかり目が覚めた。

釜に米と水を注いで竈にかける。別の鍋には水と干した茸、切った野菜を入れて、これも火にかけた。

婆様が居た頃は座敷の囲炉裏にも火を入れたものだったが、聡太一人になってからはそれも夜だけのことになった。

飯を食ったらすぐに山か畑に出てしまうのだから、囲炉裏に使う薪が惜しい。

くつくつと野菜の煮える音がし始めたら、火を弱める。

鍋にかかる火の様子を気にしながら、頃合を見て味噌を溶かす。

炊きあがった米と野菜の汁物、あとは沢庵と梅干で朝食を済ませる。

大根や梅の漬け方も婆様に教わった。

火の熾し方や飯の炊き方、掃除の仕方、服の繕い方も全てだ。

何につけても、婆様は聡太の先生だった。

腹を膨らませたら次は仕事だ。

聡太は鉈と斧を持って山へ登った。

薪を切らねばならない。

この世界で生きていくには、火は必需品だ。

木を切って倒し、割って乾かし、薪にする。余裕がある時は炭も作る。

炭焼きの翁が居た頃は、薪も炭も畑の作物と交換で貰えていたのだが、一人になってからは何でも自分でやらねばならないから大変だ。

翁が炭を焼いていた小屋は、今では聡太が薪を干すのに使っている。

先に乾かしておいた薪を一山、持って帰るために背負子へ括り付け、新たに切った木を空いた場所へ並べて置いた。

数日経てば、乾いて煙の少ない薪になる。

帰り道、茸を少し採って帰った。

山に生えている食べられるものも、婆様が教えてくれた。

山菜や木の実の取り方、灰汁抜きの仕方、毒の無い茸の見分け方などだ。

知らないものは食べないと決めている。

万が一腹でも下したら、独りでは寝込むこともできない。

何よりもまず慎重であることこそ、この世界で生きていく最良の方法だ。

家に帰り着く。薪は納屋の軒下に重ねて積み上げて置く。

えいと伸びをすれば、腰が軽くなった気がした。

空を見上げると、分厚い雲の向こうに薄明かりが高く昇っているのが分かる。

そろそろ昼時だ。朝の残りの冷や飯を味噌汁に放り込んで煮た雑炊を食う。

おかずは白菜の漬物と納豆だ。

取って来た茸を醤油で焼こうかと思ったが、それは晩飯においておくとしよう。

昼飯を済ませたらすぐ畑に出る。茶を一服する程度の休みしか取らない。

畑仕事は明るいうちに済ませてしまいたいからだ。

畑は、聡太の家の南側に広がっている。

縁側から狭い庭を挟んですぐそこだ。

真っ直ぐ伸びた畝に沿って野菜が植わっている。

白菜、大根、人参、蕪、じゃが芋、葱、ほうれん草。

寒さに強く、日照の少ない環境でもそれなりに育つものばかりだ。

ここは山の上だし、常に気温は低い。雪も深くなる。

雑草が蔓延らないのは助かるが、それ以上に苦労の方が多い。

特に、これらの畑の面倒を聡太一人で見ているとあっては。

もう一人くらい人手があれば助かるのだが、と婆様がいた頃を思い出すが、無いものねだりをしても仕方ない。

すぐに目の前の作物の世話へと頭を切り替えた。

そういう面で、聡太の物の考え方は農民的な現実主義と言えた。

畑の中を歩いて、けなげに葉を伸ばしている作物達を眺める。

寒風に晒され、雪に埋もれても耐え忍び、凍りかけた地面にも根を張る姿に命を感じる。

そんな時、聡太は自分もまたこの厳しい世界で生きているのだという実感を得る。

こんな条件の悪い土地でも、豆は良く育つ。

大抵は煮るか米と一緒に炊いて食う。豆腐にして食べたいと思うこともあるが、山の中ではにがりを手に入れるのは困難だ。

湯葉なら作れるかも知れないが、豆を絞るのは大仕事だし、まずそんな暇が無い。

一日に作業できる時間は限られている。そして聡太には生きるための仕事が沢山ある。

時間と手間は有限の資源なのだ。

「豆腐とワカメの味噌汁」

かつて食べた懐かしい味をふと思い出す。

今では、何よりの贅沢になってしまったものだ。



空を覆う鉛色の雲の上を、薄明かりはゆっくりと横切っていった。

今は、西の山の稜線に半ば隠れてしまっている。

びゅうと唸る風が冷たい。紫がかった夕暮れの気配が訪れていた。

ちらりと白いものが落ちてくる。雪が降り始めた。

日が暮れてからは家から出ない。

聡太は囲炉裏に火を入れて、晩飯の支度をする。

米を炊き、干し茸の出汁で味噌汁を作った。牛蒡と豆の煮物と、朝採った茸を醤油で焼いたものも添える。

明日は薪を取りに行かなくてもいいから、沢へ出てみようと思った。

川魚を捕まえれば、もう少し食卓も豪勢になる。

魚取りは、唯一聡太が婆様よりも上手だったことだ。

身の隠し方や獲物の見つけ方、波を立てない網の投げ方など、大層得意げに婆様に教えたものだった。

それを誉めてくれる人も、今はもういない。

仕事も無い夜、聡太は本を読む。

家の屋根裏にはいくつもの本棚が置かれてあって、そこに沢山の書物が並んでいる。

爺様の本だと婆様は言っていた。

聡太は爺様に会ったことがないので、どんな人だったのかを知らない。

これだけ本が好きだったなら、さぞかし勉強熱心だったのだろうと想像するだけだ。

棚は全体的に埃をかぶっており、大きさも装丁もまちまちの本があちらこちらへと雑多に詰め込まれている。

恐らく婆様が整頓しなかったのだろう。婆様は全く本に興味が無かったようだ。

聡太は端から順に背表紙を眺めて、気になったものを手に取る。面白そうだと思ったら、それを持って下へ戻る。

爺様の本棚には、聡太では到底理解できそうに無い小難しい専門書から俗っぽい愉快本まで揃っていた。余程趣味が広かったと見える。

そういえば絵本もあった筈だ。聡太がまだ小さかった頃、婆様が読んでくれた覚えがある。

今では用も無いので、箱に入れて屋根裏の隅に仕舞われているだろう。

あれはどこへやったろうか、とふと聡太は思いを巡らせた。




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