倉本藍の営業(1):優しいささやき
倉本蒼「トマトが美味しいです」
賀茂川家鴨「後章との話の矛盾や誤字などを修正」(2017/6/1)
※2作目以降はできたてのもの以外を非公開にしてありますが、シリーズ一覧から読めます。
基本的に時系列順ですが、どこから読んでもOKです。
「ひとつ相談があります」
のんびりとした昼休みの教室で、私はトマトチーズサンドを食べています。
私は倉本藍、高校一年生、十五歳です。
華奢な身体と長い黒髪、天才的頭脳と抜群の運動神経が取り柄です。
「めんどくさい」
机に突っ伏しているのは、日下真奈花、私の数少ない友人の一人です。
真奈花は金色の髪を縛り、左右に垂らしています。
私と真奈花とは同級生、同じA組です。
うちの学校では、割と珍しいハワイの帰国子女です。
「まあ、そう言わずに。パフエ代を奢りますから」
と言って、一〇〇〇円を真奈花のポケットに忍ばせました。
「話を聞こう」
真奈花は急に背筋を伸ばして、鋭い眼光を光らせています。
高校生にとって一〇〇〇円は大金ですから、まあ当然の反応でしょう。
放課後、午後五時頃の夕暮れ時、私と真奈花は湖の桟橋の上を歩いていました。
真奈花の武器は、BB弾一式と拳銃一丁です。真奈花はハワイで実銃を経験済みですから、それなりの護衛にはなるでしょう。
真奈花は拳銃を構えて、刃物のような目で私を睨みます。
「強姦の一匹や二匹に襲われようと、アタシが目玉を打ち抜いてやる」
白い桟橋の鉄骨が、橙色の太陽光を反射します。真奈花の金色の髪を一層橙色に浮かび上がらせています。
「あんまり物騒なことを言わないで下さいよ」
「冗談だって。目はやめとくから」
桟橋には私と真奈花だけです。人通りはほとんどありません。
鉄骨に寄り添い、腕を預け、湖のかもじを数えます。
「なあ、まだか?」
「もうちょっと待って下さい」
橙の絵画の中から星の輝きを探す作業を続けます。
さて、ターゲットが現われるとすれば、そろそろです。
「ああ、来ましたよ」
桟橋の向こうから歩いて来る、一年後輩の男子生徒に声をかけました。
「やあ、君。浮かない顔をしていますね」
「うわっ、びっくりした。誰だよ、お前」
黒髪単発のさえない男子生徒は、私とあまり背が変わりません。
夕日を背にして、フッ、と怪しく彼を見下してみせます。
「私は悪魔です」
「はあ?」
哀れな男子生徒は、私から目を逸らしました。
真奈花は呆れた様子で私のほうを見ています。
「私はあなたの願いを叶えてあげられます。ただし、度が過ぎた願いには、それなりの対価が生じます。とはいったものの、あなたの願いはもう決まっているのでしょう?」
男子生徒は私を無視して、すたすたと立ち去っていきました。
彼が狭い路地に入ろうとした先に、私が立ちはだかります。
「やあ、また会いましたね」
「うわっ!」
男子生徒は驚いて尻餅をつきました。
「お母さんが心配なのでしょう? このままだと死にますよ」
「何で、お前、ストーカーかよ。そんなこと、わかんないだろ」
「失礼な。私はこれでも立派な上流悪魔です。願いを叶えたくなるような知的動物の情報については、とっくに調べをつけてあります」
真奈花は、とことこと私のもとまで走ってきました。
思いつく限りの満面の笑顔で、少年を不遜に見下します。
「気持ち悪いやつだな」
少年は吐き捨てるように侮辱してきます。……ふむ。
私は一瞬だけ真顔になりました。少年が身を竦ませます。
「なるほど。私を褒めているのですね」
「こっち来んな」
とても優しい面持ちで、少年に向けて軽く腕を広げてみせます。
「さあ、いまなら私の権限で、口頭契約で済ませてあげましょう」
尻餅をついていた彼は、口をぱくぱくさせて後ずさりました。
薄く目を見開いて、少年を瞳で突き刺しながら、喉の奥で軽く笑います。
「それとも、黙って母親の死を見届けるつもりですか。せっかくのチャンスをふいにするメリットが、一体、どこにあるというのでしょう……いたっ」
真奈花にBB弾でお腹を撃たれました。
「脅かしてどうする」
「あはは、つい熱が入ってしまいました」
やはり、ターゲットの護衛に真奈花は必須ですね。
真奈花は、男子生徒を助け起こして、軽く説得をしてくれます。
「こいつは変態悪魔だけど、悪いやつじゃないから」
「悪魔って、悪い魔物じゃないのかよ」
「そうだけど、そうじゃないっていうのかな」
「意味わかんねえ」
まあ、少年が落ち着いただけ、よしとしましょう。
いつもの調子で、気軽に説明を始めましょう。
「私は、君のお母さんが入院していて、もうすぐ死ぬことを知っています。なぜなら私が悪魔だからです」
「うさんくさい」
「……ふむ」
長い黒髪をさらりとかき上げ、風になびかせます。
「話は最後まで聴くものですよ。私は、君のお母さんの病気を根絶することができます。なぜなら、私は他人の願いごとを叶えることができるからです。例えば、私は動物の寿命を操作できます。ただし、願い事にはそれ相応の代償がつきます」
私自身の願いごとは叶えられませんが、他人の思考を書き換えたり、テレポートしたり、少しの間だけ時間を止めたりすることなどができます。
「単刀直入に言いましょう。君のお母さんの寿命を延ばした分だけ、君は寿命を失います。さあ、何年の寿命を削りますか。さあ、さあ……ぐふっ」
私は、真奈花による鳩尾ストレートパンチを決められました。もちろん、肉体的には痛くも痒くもありませんが、真奈花に殴られたことで、私はこころに傷を負いました。
「だから、脅かすなって」
私は苦笑しながら、少年の肩をがっちりとつかみます。
「どうしますか。君が決めて下さい」
「……うぅ」
「何なら、初回サービスで半額にしましょうか?」
「……嫌だ。お前のことは信じられない」
少年は私を振り切って、足早に去っていきました。
「やれやれ。よく言うではないですか、信じる者は救われる、と」
私は肩をすくめました。真奈花は首を傾げています。
「なあ、藍。アンタはアイツと契約して、何かメリットあるの?」
「特にないですよ。……強いていうなら、生命力の確保、でしょうか」
「え? いやでもさ、アンタ、仮にも悪魔じゃないの?」
私は去り行く少年の背中を見届けてから、沈み行く夕日に目を遣ります。
「私にはもう、人間の魂など必要ありません。ですから、誰かに契約書を書かせることはありませんし、悪行を働こうという気もありません」
私は少しだけ哀愁をこめた眼差しを真奈花に向けました。
真奈花には私の影がくっきりと重なっています。
「ただ単に、私は人間に選択肢を与えているだけです。私は慈善団体ではありませんから、私の力を貸してあげるだけに留めています。他者の感情に、ことごとく深入りして、私自身が破滅しては、お笑い種ですからね」
「でもさ、それでも助けてあげたいと思うのが人情だよ」
真奈花は頭の後ろで腕を組み、私に軽く体当たりしてきます。
私は満面の笑みで、真奈花のアタックを甘んじて受けました。
「まったく。真奈花は優しすぎます」
「ふうん。やっぱりアンタは変態だよ」
「お褒めに預かり、光栄です」
私は片膝を地面に着いて、丁重に礼をします。
真奈花は私の生涯の契約者です。そして、唯一の友達でもあります。
「褒めたつもりはないけれど、まあいいか。あ、あとさ」
私は件の男子生徒が母親に泣きついているのを、病室の窓の外からこっそりと見守ります。さてと。私は真奈花に頼まれた通り、少年の母親から病気を取り除きます。ガン細胞という名の肉片を摘出して、出血部分をねじり合わせて縫合だけです。私には造作もないことです。
「やれやれ、真奈花はお節介なお方ですよ、まったく」
人助けは、所詮、愛や正義の産物です。ニッコロ・マキャヴェリやハンナ・アーレントなどと似たようなことを言いますと、愛、正義、悪の三つは、自分自身を不幸にする理想だと思います。けれど、真奈花は意地でも納得してくれません。
悪魔には、もとより愛や正義などありません。私は私のために悪行をやめたのです。悪魔は常に自分のためだけに動くものですから。
このことは、私を生み出した母上から、はじめに教わりました。母上は人間に執着した悪魔の一員です。母上は元気にしているでしょうか。
「真奈花、ただいま戻りました」
「ん、おかえり。無理言って悪かった。ありがとう」
私と真奈花はアパート暮らしですが、お互いすぐ隣の部屋に住んでいます。
「真奈花の命令を遂行するのは当然の責務です」
「そか。おやすみ」
私は真奈花がドアを閉じるのを確認してから、自分の寝床に向かいます。
私は真奈花を愛しているわけではありません。私は真奈花に忠誠を誓っているだけです。
私は、まがりなりにも高貴な悪魔ですから、真奈花を享楽の渦に巻き込もうとすることはあります。けれど、真奈花はそれを愛と主張し、私を変態呼ばわりするのです。いつもさんざん侮辱されている悪魔ですが、真奈花に言われると胸に来るものがあります。器は人間ですから、仕方ありません。
さてと。今度は誰に口頭契約のお誘いをしましょうか。(了)
日下真奈花「母上って誰のこと?」
倉本藍「私によく似た見た目をした悪魔ですよ」