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 歩いている途中、妙に足元が柔らかくなったと思って下を向くと、大抵細長いグズグズしたものが密集して蠢いているか、もしくは真っ赤に充血した目玉をぶちゅぶちゅ踏み潰しながら歩いているので、なるべく下を見ないように前だけ向いて歩いていると、時折躓いて転んでしまいそうになる。

転んでしまうと黄色い粘液みたいなものが顔や手や服にこびりついて嫌な気分になるのだが、そうなるたびに、頭の斜め上の方角や壁にへばりついている目や天井裏に居る虫からゲタゲタという笑い声と俺を中傷する声が聞こえてくることの方がたまらなく嫌だったけど、それは小さいころからずっと俺の身に起きていることなので、流石に十年以上も続いて慣れっこになってきているつもりだったのだが、師匠が死んでからと言うもの更に悪化してきたような気がする。最初は靴底が少しばかりへこむ程度だったのが、今は一歩歩くたびに足首までずっぽりと床に見えるものにはまりこむので、えらく歩きづらいのだが、やつらがそのまま俺を転ばせてゲタゲタ笑いながら悪口を言おうとしている魂胆が見え見えすぎて、簡単に転んでやるのは大変気分が悪いので、何時しか俺は一歩歩くのでも酷く慎重になっていった。

ところがそうやって転ばないよう慎重に踏みしめるように一歩ずつ歩くと、何が面白いのかメノス以外の例えば両親や使用人の頭の中に寄生している虫どもが奴らの顔と声を使って俺を酷く馬鹿にしたから、転ぶにしても歩くにしても酷く気分が悪くなる。だからさっさと虫だらけのこの世から逃げたいと思っていたのだけれど、そういう風に思っている俺の思考ですら、実は知らないうちにこっそり俺の中に忍び込んだ虫の子分みたいなのにそう思わさせられているらしいと気付いたのは、たしかというか、やはりというか師匠が死んで間もない頃だったような気がする。

それどころか、俺の考える事や発する言葉の一言一句まで実は俺が虫に教えられているのだそうな。

最初は頭の中で二重に音声が聞こえて、頭に入り込んだ虫が俺の言葉の真似をしているのだろうと思っていたけれど、どんどんその二重音声がずれてくると、実はその逆で、俺の方こそがその虫に言うべき言葉や考えるべき思考を教えられているのがわかってきた。頭の中から降ってわく様々な誹謗中傷の言葉と馬鹿笑いに「嘘をつくな」と一人言ってみても、その言葉すらが虫に先回りされて教えられて発しているのに気付いたら、いつの間にか自分がどうしようもない馬鹿になっているのにもついでに気付いた。

 当たり前だろう。今まで積み重ねてきた言葉や文字や考えや勉学は、全て俺の中にある虫が記憶して、そいつが俺にこっそり教えてくれていたのだから、『俺自身』はまったくの空っぽなのだとそういう風に虫に思わせられたから、反論しようとするとその反論すら虫が先回りをして教えたからもう手も足も出ない状態だ。

「全く、酷い話だね」

 それに気付いた夜に唐突に怖くなって、床に年がら年中気分が悪いらしい天井が吐いた真っ黒いゲロに毎晩集まっているべたくた虫を何時ものように足で払ってからベッドに潜り込んで、毛布を頭まで被って丸まりながら、俺は言ったつもりが無いのに、虫が頭の中で言った言葉がそのまま口から漏れ出した。

天井はきっと木目の一つ一つが口みたいにくぱくぱと開きながら青い粘液を吐き出すミミズみたいなものを垂れ下がらせているだろうから絶対に見てやらないのだねお前はと馬鹿にするような口調が頭の中で、父親の皮を被った虫が金に物を言わせて呼んだ合唱団の合唱みたいに二重三重と反射して、俺が居なければお前は何にも解らないんだよ相当な馬鹿だねお前はと言われた。

頭がいいなんて言われてたけどそれはおれのお陰なんだよおれが居なければお前は馬鹿のままなんだよそれなのに相手を馬鹿にしているお前は自分の事なんて全く解っていないくらいの馬鹿なんだよねぎゃたぎゃたけけけけええぇええええええぇぇぇぇぇと最後に笑い声みたいな悲鳴みたいなものが響いて頭が痛くなってうるさいうるさいと虫に教えられるままに呟きながら髪の毛を掻き毟ってようやく響きが消える。

 それだけでもかなり参っていたのだが、虫が頭の中で物事を教えてくれる間は日常生活にはさして支障が無いからまだマシだったのだけれども、虫にいろんな事を教えられているにも関わらず、師匠が死んでからも虫から逃げる為の魔術を勉強し続けたのが仇になったのかどうかはしらないが、とうとうその虫が日常生活もままらなぬほどにおかしくなってしまったのはついぞ最近のことで、それがどんどん不可逆的になっていくのは随分戸惑ったが、俺が虫に感謝もせず反抗していたのが原因だろうから多分必然なんだろうと心のどこかではそんな状態を許容していたような気がする。

「レイトサマソロソロオベンキョウノオジカンデスノデチュウショクゴオヘヤニキテクダダダササササササ」

 よく晴れた日に食卓にて一人昼食を取っている最中、傍に控えた使用人の皮を被った虫の口から俺の聞きなれている理解出来るはずの言葉が紡がれたはずなのに、べんきょうのおじかん、なのか、きょうのおじかん、なのか、それともか、きょうのおじ、なのか、俺はその言葉の一句一句を区切る場所とその意味が何故だか全く汲み取れなくて、今何と言ったか聞き返そうと口を開きかけた瞬間に、俺の中から言葉と言うものがぽっかりと抜け落ちているのに気が付いて、一瞬パニックに陥ったのだけれども、それから数秒するとようやく目の前に居る使用人が今さっき何と言ったかの意味を虫が教えてくれてから、俺が何を言うべきかも教えてくれた。そういう忘れたり思い出したりがぼちぼち半年以上も続いた中で、メノスにそのことを言うと、あいつは「言葉なんか忘れても俺のこと忘れなきゃいいよ」なんてアホみたいなことをクソ真面目な顔で言ったから、心の底から呆れたけれど、それよりもなによりもメノスの言葉がまだ解って酷く安心した。

メノスは俺と違うタイプでおんなじくらい馬鹿だけれども、虫のことを言っても父親の皮を被った虫みたいに俺を怒ったり殴ったり暗い部屋に閉じ込めたりしないから好きだと思ったら、力がある分お前よりも馬鹿じゃないよねぇええぇえぇぇと妙に間延びした虫の声が聞こえたのだけれど、メノスにいつもやってくるみたいに手のひらで頭を撫でられたら、何時もは子ども扱いされてるみたいでイヤなそれのおかげで、一瞬だけ何だか色んなことがどうでも良くなった。

 しかし、それから段々加速するみたいに虫はどんどんおかしくなりはじめて、一日十個以上の単語と言葉と一緒に人の名前までいっぺんに忘れるようになり始めた。

人の名前と顔が一致しないで間違うと、あっちに寄生している虫は酷く怒るから、怒られるのは嫌だから忘れないために紙に書き留めてそれを肌身外さず持ち歩いたりしていたのだけれど、ついに文字まで忘れ始めたらしい頭虫のせいで、俺は自分自身が書いたはずのその紙片の記号が冠する意味を読み取れなくなってきて、ついでにちょっと前まで読んでいたはずの本まで読めなくなった。それどころかどこから沸いたのか部屋や世の中や人に寄生している虫が大発生しはじめた。部屋の中がグズグズと糸を引く虫で溢れかえっているのは、嫌だけれどもまだ我慢が出来るが、部屋を一歩でて他人と出会うと口だの耳だの鼻だのから黒くて太いウジムシみたいな人に寄生する虫が、怒ったり泣いたりしたときだけでなく、常時太い体を半分出させてたり、血みたいに真っ赤なゲル状の虫が汗みたいに皮膚にべったりとくっついて毛穴から出たりひっこんだりしながら体をぶるぶると蠕動させているのはどうしても我慢ならなくて、外では雨の中には小さなアリみたいなものが混ざっててかかれば体に潜り込んでこようとして小さな顎で皮膚に噛み付くし、木の幹は皮の一筋一筋が家の木目みたいにパクパク開いたり閉じたりして充血した赤い目が中から周囲を監視しているし、地面だって誰かを転ばせてあわよくば寄生して中から食らって乗っ取ってしまおうと狙っているのでどうしても外に出るのが嫌になった。自室のベッドに潜り込んで目を瞑って、一歩も出ないようにしても中に潜んでいる虫のべたべたする感触と壁を引っ掻くみたいな鳴き声がひっきりなしに聞こえる。メノスが家に来ても、もし彼が乗っ取られてしまっていたらと思うと怖くなって体調不良を理由に追い返すことが多くなって、ドアを叩いてこちらを呼びかけてくる使用人の声が時折虫の発するギジギジという鳴き声に聞こえたりして、それを振り払うように発せられる己の声の意味が自分でも意味の良く解らぬものになり始めたとき、師匠の死に際を思い出した。

俺の記憶の中の師匠は顔を黒塗りにされてもう思いだせないけれど、師匠は死ぬ前に、「もう、耐えられない、からね。あれらに、食べられるのも、嫌、だからね」と酷くぎこちない言葉を紡いで、俺が目を放した間に首を吊ってしまった。

俺の見ていた風景と、師匠の見ていた風景は少し違ったみたいだから、もしかしたら、師匠が見ていたのはこんな光景だったのだろうか。だとしたら、俺も今すぐ楽になりたいのだけれども、自殺をしたら地獄に行くらしいから、それが嫌だからこそずっと虫から逃げる術を探していたのに、死にたくないからずっと探していたのに、死なずに虫から逃げたいから頑張ったのに、食われたら楽になるのかな、食われたらどうなるんだろうわかんないけど、オマエよりも不幸なニンゲンは沢山居るのにオマエはなんて酷いニンゲンナンダロウネ。オマエなんて忘れられちまうよ。オマエが忘れたみたいにね。オマエが忘れたコトバもヒトも全部オマエを忘れるよ。

 俺の思考みたいのと虫の声みたいなものがぐちゃぐちゃに混ざり合ったものが頭の中でぐわんぐわんと響いたら、虫が思わせていたらしい辛いのや悲しいのや憎いのやそんな感情がゴチャゴチャになってしまって、ふっと、一瞬意識が遠のいて、もう顔もつい先ほどまで覚えていたはずの声も思い出せない師匠が大昔に言ってたことをまた思い出した。言葉ではなく、そんなニュアンスで、完全にあれに食われたら体を乗っ取られて心と感情と記憶が分離して、逆にあれからは逃げれるかもしれないね。でも、言葉も記憶も心もばらばらになったら、それは人間とは言えないのかもしれないね。だから、私はやっぱり食われたくは無いね。

だとしたら、言葉を忘れてきている俺はもう人間でなくなってきているのかもしれないけれど、別にいいかもしれないと思った。どうせ周りなんて虫だらけで人間なんて一人も居ないんだし、多分もう数日くらいしたら言葉も記憶も虫に食われて全部忘れてしまうだろうし、この家には優しくしてくれる虫なんて一匹もいないんだし、それなら人間じゃなくなってもあれが見えない分逃げれた方が良いのだろうと思ったときに、とある顔がぽっと頭に浮かんだら、口から「メノス」という言葉が出てきた。殆どのコトバと人の顔と名前は忘れてしまったのに、まだコイツのことは顔と名前が一致するくらいに忘れてなかったんだなぁとぼんやり思ったら、こいつだけは例えあいつ自身が虫に食われていてもどうしても忘れたくないという気持ちに駆られて、どうしたら忘れないで居られるかと虫がグジグジ鳴いている頭で精一杯考えさせたら、体で覚えてあっちまで持ってけば良いんだとようやく虫の一匹が回答してくれた。

 おおそれは名案だ。

 あっちはどこだか解らないけれど、人間じゃなくなるなら人間であった俺はどこかへ行ってしまうんだろう。久しぶりにベッドから起きると、膝下までズブズブと床に埋まって、しばらく掃除しない間に虫が随分とたまったなぁと思った。ふらふらして力が出ないのは、食事に虫が入っているから殆ど食べなかったからなのか、それとも体の筋肉まで虫が巣食い始めているのかは解らなかったけれど、とりあえず動くからまぁ良いかと思った。虫に乗っ取られたり分離したりして人間じゃなくなるなら、一つくらいは乗っ取られても人間じゃなくなってもあっちに行っても忘れないくらいしっかり覚えておこうと思った。



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