わんわん
今まで病気なんて殆どしたことがないのだが、何故だか一年に一度くらいは酷い風邪を引いてしまう俺は、運の悪いことに道中いきなり熱を出し、ばったりそこで倒れてしまった。
案の定メノスは見ていて面白いくらいおたおた慌て、俺は虫の息で「落ち着けこの糞馬鹿」と言って少しは黙らせたのだけれど、眩暈はするわ頭は痛いわ体はだるいわの力は出ないわのぐだぐだ状態では、迸るほど無駄に体力溢るるこの馬鹿を言葉の一つで完全に落ち着かせることは出来なかったらしい。
リックどうした!! 具合が悪いのか!! どこが悪いんだ! 立てるか!! 大丈夫か!! なんて上半身抱き起こされた状態の耳元で叫ばれてもこちらの頭痛を悪化させる一方でちっとも大丈夫ではない。
なので俺はなけなしの気力体力を振り絞り、メノスの鳶色前髪を握り締めてぐいと引っ張ると、顔の近づいたメノスの茶色い目玉を思い切り睨みつけて「うるせぇ馬鹿黙りやがれ」と言ってやった。
それでようやっと落ち着いたメノスはどうすれば良いのか俺に聞いてきたので、とりあえずどこか家が見えたらそこにつれてけと指示を出す。
ぶっ倒れたのが山岳地帯や森林地帯ではなく単なる街道だったのが不幸中の幸いで、どこかに農家の一つや二つは存在してもおかしくない。けれどどうにも一人で歩けそうには無かったので、メノスの肩を貸して貰おうかと思ったが、俺が何かを言うより先にメノスは俺の腰に腕を回してそのままひょいと肩に担ぎ上げた。
目の前に紐で括られた犬の体が見えたから、つまり俺は進行方向に尻を向けているというわけかと頭の中でぼんやり考えるが、恥ずかしいだのみっともないだのメノスに文句をつける前に、どたどた動き出したメノスの振動と熱と眩暈と頭の痛みに目の前が真っ暗になってしまった。
気づけばそこはどこぞのベッドの上だった。
低くて染みだらけの木の天井と、そんなに柔らかくないベッドの感触から、金持ちの家でないことは確かなのは起きた瞬間すぐに解かった。
どれくらいかは眠っていたのか、頭がぐらぐらするこの具合ではまだ本調子ではないが、道端でぶっ倒れた時よりかは幾分かマシになっているように感じる。
そう言えば夢見心地でどこぞの農家っぽい所に文字通りかつぎ込まれたような記憶が俺の中に存在している。情景は思い出せないが、「二人とも病人か?」という問いに、止せば良いのにメノスが「こっちは犬です」などと答えだしたので、俺が病気は俺だけですとかなんとか代わりに言ってやったような覚えもある。
もし玄関先で俺が尻を向けながら答えたのだとしたらきっとその言葉は届いてないだろうから、気味悪がられて追い出されるはずなので、多分ここに寝かされたときに聞かれたのだろうと思う。
メノスは見当たらず、かといって奴を探すために起き上がる気にはどうしてもなれず、横になったままあたりをぐるぐる見回すと、このベッドの他には右の壁際に簡素な木作りのクローゼットが一つと、こちらも木作りの小さな机が一つだけ置いてあった。
シンプルな作りだなと床にも目をやると、左の壁際に敷いた小汚い毛布の上に金髪の犬が小さくうずくまっていた。動きは無いが、一応起きてはいるらしく、偶然にもその虚ろな目と俺の目が合った。しかしそれだけで、犬はそこから動くなり目をそらすなりのリアクションは皆無だ。
俺はこの犬という奇妙な存在がどうにも苦手だった。
どう見ても人間の、しかも美少年にしか見えない彼が、べたべたと四つ足で地面を這いずり、気になったものは口にくわえてみたり舐めてみたりとまるで犬のように行動する異常な姿は確かに最初は少々怖かったが、慣れればどうということもない。
じゃあ何が苦手なんだと問われれば犬の持つ気質というか、雰囲気というか、そんな抽象的なものが苦手で仕方がなかった。だから俺はメノスのように犬を抱いたり撫でたりしてやりたいという気持ちにはどうしてもなれないし、偶にはメノスの代わりに犬を背負ってやろうという気持ちも全く起きなかった。
しばしぼんやり天井の染みなんぞを眺めていると、ずりずりじゃりじゃりと音が聞こえたのでそちらを見ると、犬が四つん這いでそんなに広くない部屋の中をのろのろと這いずりまわっていた。
犬の身につけられている装飾品がぶつかりあう音が響く。
この装飾品は全てメノスが旅の途中で犬の土産とのたまいながら買い集めたものだ。
他にも香油や香水や食べ物や、色んなものを買ってはこうして犬にプレゼントしているけれど、当の犬は何をされても無感動で、香水の匂いを嗅がされても食い物を食べさせられても、美味いも不味いも嫌も良いも全く無い。
だから俺は無感動な奴に何かを買ってやるのは金の無駄だから止めろと前までは言っていたのだが、奴は一歩でも国や街や村を出ると、自分に都合の悪そうな部分を含め、大体のことを忘れてしまうものだから、最近は奴が土産を買うこと自体は諦めている。けれどもやはり金は節約したいから、その代わりに一つ買ったら何か一つ売らせるようにさせた。
ありがたいことに、メノスは物自体にはそこまで頓着していないらしく、これは簡単に実行させることが出来た。それに未だにその口約を続けさせているのだ。あの阿呆に何かを続行させ続けることが出来ているのは、実に賞賛に値する事だと思っている。
しばらく見ている間にも、犬は飽きもせずにずるずるじゃらじゃらさせて這いずっているから、メノスが居ないから落ち着かないのだろうかと考えたのだが、ドアではなく先ほどまで居た位置とは反対側の部屋の隅っこにまで来ると、四つん這いのまま壁に額を預けるようにがつりとぶつけてじっと黙った。
一体なにがしたいのか、俺にはさっぱり解らないけれど、普段メノスに担がれっぱなしで殆ど動いたことの無い犬が、小範囲とはいえこういう具合に動き回るのをあまり見たことが無いから少しばかり新鮮に思った。
宿屋で一人留守番している間、犬はこういう風に動き回っているのかもしれない。
そうして壁に額をくっつけたままでいるのもつかの間、今度は俺の寝ているベッドの方にずりずりずりと這ってきて、何をするのかと思えば突然膝で立ち上がり、ベッドの上にどたりと上半身を乗せてきて、そしてそのまま上に這い上がろうともがいている。
ずるり、と犬の重みで毛布が落っこちそうになったので俺は慌てて落っこちそうになる毛布を引っ張り返すと、犬は上ろうとするのをぴたりと止めて、毛布を握ったままベッドに上半身を預けた形で、毛布を掴んだ俺の手の甲をへろりへろりと舐めてきた。
犬の生暖かくて柔らかい舌の感触が妙にくすぐったいのと気持ち悪いのとで手を退けると、犬は俺が手を退けたのが気づかなかったのか、しばし毛布をへろへろ舐めていて、唾液に濡れて茶色い毛布の色が更に濃くが変わり始めた頃に、突然こちらを覗き込むようにして顔を近づけてきた。
透き通るように白い肌に、街の中で見かけたら、はっとして振り返ってしまうような整った顔。神話に出てくる女神様の、金糸のように細いさらさらの髪の毛が、俺の頬にほわほわ当たってくすぐったい。虚ろな目はどこを見ているのかよく解らないのだが、なんとなく俺を見ているような気がして、俺は思わず「なんだよ」と犬に向かって言ってしまった。睨み合いに負けたみたいで少し悔しいけれど、どうせこちらの気持ちなんて犬には解らないだろうから、悔しく思うだけ無駄だと考え直した。
無視してやろうと思ったら、犬がわんわん二度ばかりやる気の無い声で吼えた。そのままふんふん顔の匂いを嗅がれて頬をべろんと舐められたから、流石にこれには驚いて、ベッドから上半身を起こして体を引かせると、犬の虚無を見る目がまたこちらを向いていた。
「わんわん」
全く感情のこもっていない声だ。
それなのに、それがどうにも俺を心配しているみたいに聞こえたのは、俺が風邪引きで気力と体力の両方が落ち気味なせいだけではあるまいと思うのだが、それは、俺の勝手な願望だろうか。しかし、感情が無さそうに見えるこいつにも、本当は感情と言うものがあるのだとしたら、犬は俺をどう思っているんだろうかなんて妙な事をじりじり痛む頭で考えてしまった。
「馬鹿馬鹿しい」とそんな妙な考えを振り払うように呟いたら、もう一度、わん。と一声犬が鳴いた。
時々気が向いたときにこうして犬が鳴くこと自体は、そんなに珍しいことではないけれど、こういう状況で俺に反応を示すということは今まで殆ど無かったから、何だか不思議な気持ちになった。
こいつは、一体何を考えているんだろう。
しっしっと追い払っても良かったのだけれど、ベッドのすぐ向かいにあるドアの向こうにメノスや他の人間の気配が無いことを確認してから「お前は一体何を考えてるんだ?」と犬に聞いてみた。
そう聞いても犬は何も意味のある言葉を発せずに、濁った蒼い目をただこちらに向けているものだから、俺は一つ苦笑して、犬の頭に手を置いて、久方ぶりに手触りだけは良い犬の頭をぐりぐりとかいぐってやった。
やっぱり犬はぼうっと眠そうな目を揺ら揺らさせるだけで、されるがままにぐりぐり撫でられるだけだったが、新しいハッケンとして、俺は犬のことは苦手だが、犬のことをそう嫌ってはいないらしいというのを、自分でも今日初めて知った。
数時間後の話になる。メノスは一体どこに行ったのかと言えば、俺にベッドを貸してくれた農家の老夫婦の手伝いで畑を耕していたらしいのだが、いくら畑を耕すのでもそこまで汚れないだろうというくらいの勢いの泥だらけで戻ってきた。
そこはやっぱりというか、おつむは弱いが力だけはめっぽう強いメノスが手伝ったものだから「仕事が十日分もはかどった」とベッドを提供してくれた老夫婦は大層感謝してくれて、美味しい野菜スープをご馳走してくれると言う。
それはそれでとても嬉しいのだけれども、戻って来て早々我慢できなかったのか、泥だらけの手で犬の頭をかいぐりまわすメノスと、付いた泥ごとメノスの服をへろへろ舐めている犬を見て、ごく近い将来にこの自分には無頓着な馬鹿をひん剥いて丸洗いにしなければと思いつつ、「泥くらい落としてから来いこの馬鹿野郎!」と怒鳴ったら、頭痛が更に増して、俺まで馬鹿になりそうな気がした。