表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

 突き抜けるように高く哀しいくらいに紅く染まった空は、どこまでも遠くへ広がっている。白いはずの筋雲は沈みかけた陽光に反射し見えないくらいに細く紅く、けれど向こうの山の頂上付近は既に夜が侵食しているかのように濃紺色に染まっている。

 ざぁっと吹き抜ける風の音。

 俺は白い柱に背をもたれさせ、木切れを拾って燃やした炎にあたっていた。時折パチリパチリとはぜる音が、妙に心地よい。

「ごらん犬。綺麗だね。見えるかい? 綺麗だろう?」

 炎の向こう側に座っている深い鳶色の髪した俺と同じ歳くらいの二十三、四に見える男。メノスが、背負っていた犬を崩れかけた床に下ろし、くすんだ象牙色のマントで包むように抱き寄せて、朽ち果てた神殿の大理石の隅に座って山の下に広がる川や森や、夕焼けによって真っ赤に染まった空や向こうに見える平原を指差しては大した反応も返してこない犬に話しかけていた。

 ここは太古の昔に作られた神殿で、直前に立ち寄った村では神の舞い降りた場所として伝えられてきたらしいが、実際来て見ればそこはもう神殿とはいえないくらいに何も無い丘だった。せめて廃墟として屋根付きの建物くらいは残っていればもう少し探しやすかったのだが、四方六メートル弱の白い大理石の床一部と、同じく大理石で出来た数本の白い柱以外何も無くなってしまっていたそこは、神殿跡地としか言い様の無い場所だった。

 しかも、その大理石とてきちんと残っているわけではなく、何かの彫刻が施されていたであろう柱の数本は真ん中より下からぼっきり折れてしまっていたし、床だってもうボロボロで蔦類の雑草が幾本ばかりか這っていた。大きい建物だからすぐ解るというよぼよぼの村の爺さんの言葉をメノスがうっかり鵜呑みにしたせいで、ここを探すのに半日もかかってしまった。いや、実際何度もここは通ったんだ。俺はここで間違いないといったのに、あの馬鹿はコレは屋根が無いから建物じゃないと言い張った。おかげで彼が納得するまで何度も何度もこの辺りをぐるぐるぐるぐる回るハメになってしまったのだ。この丘の周りには建物の跡も何も無いというのを何度も確認して、ようやくメノスはここがその神殿だということを理解した。理解したのは良かったが、その時点で既に夕方になっており、村に戻るには少々遅すぎる。だから俺たちはこの神殿跡地の大理石の上で野営をする事にした。

 さっさと理解してくれたら村に戻ってベッドで眠れたのに。

 思い出してイライラしてきたので、八つ当たりみたいに木切れを一本炎の中に投げ入れた。パチリともう一度炎がはぜる。

「犬、あっちが今まで来た道だよ。あっちがさっきの村かな。あ、でも犬は天国じゃないところにはあんまり興味が無いかな。でも、ここはとても、綺麗だね。うん」

 神殿跡地以外には何にも無い静かでなだらかな丘に、ゆったり犬に語りかけるメノスの低くも高くも無い声だけが風に乗って通り抜ける。

 『犬』というのは、本当の犬ではない。

 真っ白な絹のローブに宝石やら金属やらの装飾品をじゃらじゃら付けた十五か六くらいの少年で、耳に掛かる短いさらさら金髪で蒼い目をした、男にしておくのは勿体無いくらい物凄く綺麗な顔をしている人間だ。細い眉に薄い唇はどこか人形のようで、これで少し愛想がよかったら、少年好きの好事家にはとても高く売れそうだ。いつも怯えたような表情で、虚ろな目をして、どこを見ているのかも定かではないし喋らないし、本物の犬よりも何を考えているのかも解らない。彼のことを、メノスは「犬」と呼んでいる。何故そう呼んでいるのかは解らないが、メノスは犬のことを物凄く大事にしているのはつい最近から旅を共にし始めた俺でも解る。

「おい馬鹿、そろそろメシ食うぞ」

 そろそろ本格的に日が暮れ始めたのを確認した俺は、まだ犬に一人ぐだぐだ喋りかけて一向に終りそうもないメノスの茶色い後ろ頭をぽかりと叩く。

 メノスは振り向いてへにゃりと笑い、そうだね犬もそろそろお腹空いたみたいだからねと言って、そんなに軽くは無いであろう犬の脇腹に手を回し、その細腕のどこに力が隠されているのか片腕で軽々抱き上げると火の傍にまでずるずるつれて来た。

 犬の体が揺すられて、いくつも身につけているネックレスやらペンダントが互いにぶつかり合ってじゃりじゃり鳴る。相変わらず虚ろな目をした犬と呼ばれる美少年は、火の傍に連れてこられると、体を曲げていつもそうしているようにうずくまり、ぱちぱち跳ねる炎を氷みたいな蒼い目でぼんやりと眺めているように見えたが、多分やっぱりどこも見ていないんだろうと思う。

 俺は食料品を入れた袋から、今朝方村で買ってきた黒パンと水を出すと、メノスに渡した。メノスはありがとうとかこれは美味しそうだね。パンなんて久しぶりだよいつもいつも干したものばかりで口の中がからからになるからねはははなんて長々話しながら受け取るから、俺は少し不機嫌に「も少し黙って受け取れよ」と言ってやる。

「そう言われてもね、人と話をしながら食事をするなんて前まで考えられなかったから何か嬉しくてね」

 メノスは笑う。

 彼がこういう風に俺に対して無駄に長く話して妙な具合に笑う時は、大抵「犬」と呼ばれる少年がメノスに対して何の反応も返してこなかったときだというのは大して長くない旅の中でなんとなく解っている。だから、長く話して笑う彼が俺はあんまり好きではなかった。何だか彼が無理しているようなのと、何より俺が喋らない犬の代わりにされているようなのが嫌だった。

 メノスも最近それを少しはわかってくれたのか、俺が不機嫌そうな態度を取ると少し肩を竦めて無駄に長く話すのを止めてくれた。

「ほら、犬、餌だよ」

 俺が黙々とパンを食べていると、メノスは自分のパンを半分千切って犬の傍の地面に置いた。メノスが「待て」と言うのにも関わらず、犬はもぞりもぞりと芋虫が這うようにゆっくり起き上がると、四つん這いになって酷くしんどそうにそれを食べる。上手く噛み千切れないのか、パンのカケラが涎と一緒に糸を引いて地面に落ちたのを見て、本当に頭の悪い犬みたいだなと思った。

「馬鹿だなお前」

 と、まるで俺の気持ちを代弁するようにメノスは犬を見て苦笑気味に言った。

 見目麗しい聡明そうな美少年が、犬の真似事をしているという時点で色々異常性はあるのだが、俺はその気狂いじみた光景には割と慣れたし、メノスと言えば何故かもうそれはもう人間ではなく犬としか見ていないらしいから、他人にこの光景を見られない限りはまぁなんとも無いだろうと思う。当の犬についてはその処遇についてはどう思っているのか解らないが、何も言わないところを見ると一応満足しているのだろう。

「昔は『待て』とか『お手』くらい出来たんだけれどなぁ」

 そういう風にぼやきながら自分のパンを齧るメノスだけれど、犬を見る目はとても優しい。迷惑そうにしている食事中の犬の金色の頭をガシガシと撫でながら、「でもまぁ、俺のことを忘れなければまぁ良いか」と楽しそうに言うメノスは自分の飼い犬を溺愛する飼い主のようにも見えて、それは普通に見れば明らかに異常な光景なのに俺は不覚にもそんな光景が少し羨ましいと感じてしまった。

 俺はそんな自分を振り払うように軽く首を振ってから、パンを食い終わって左頬から顎にかけて深い傷跡のあるメノスの顔をやる気なさげにへろへろ舐めている人間犬と、普段はキリっとしているはずが今はアホ面下げて犬を膝に抱いてべたべた戯れ始めたメノスに「手前ら食ったらさっさと寝ないと永遠に眠らせるぞボケ」とドスを利かせて言ってやった。



 炎の番をしながら見上げた夜空が、とても綺麗だと思った。思ってから、何かを綺麗だと思える余裕が自分にあるのを知って驚いた。

 帝都を逃げ出したばかりの頃は、こういう風に夜空を見上げたり何かを綺麗だとおもう余裕は無かったものだから、時間と言うのは凄いなと改めて思った。

 揺らめく真っ赤な炎の向こう側では、メノスが荷物を枕に横になっており、その傍らには眠っているのか起きているのか知らないが、犬が小さくうずくまっている。

 一緒に旅をしておいて何だが、俺は彼らをよく知らない。素性どころか、旅の目的だって聞いても何だかよく解らない。何か、天国を探しているというようなことだけは聞いたことがあるが、それだってどこにあるのかなんてのはさっぱり解らないし、それがどんな場所なのかということすら具体的には解らない。たぶん、メノス自身にもよく解ってないんだろうと思う。ただ、メノスの犬に対する溺愛っぷりをみていると、おそらく犬絡みなんだろうなということは何とはなしに察しはついた。じゃなければ、犬を背負って各地を旅をしてはこうやって美しい景色の場所を探して見せて語りかけるという所業につじつまが合わなくなる。

 だとすれば、二人のラブラブ紀行にひっついて歩く俺はとんだお邪魔虫ということになるわけだ。

 大して長くも無い旅の間に何度も考えたことを、もう一度しつこく考えて、自分はなんて女々しい奴だと一人嫌な気分になってうなだれると、ついぞ先ほどまで眠っていると思っていたメノスがいつの間にやら起きていて隣に座った。

「眠いのか? それなら火は俺が見てるから、リックは寝たほうが良いぞ」

 炎に赤々とこちらを伺うような顔を照らされたメノスにそういう風に言われて、俺は即座に「別に眠くは無いさ。考え事をしてただけだ。お前こそさっさと寝たほうが良いぞ。明日ぶっ倒れても運んでやらんからな」と切り返す。

 メノスは俺の言葉に苦笑して、「大丈夫。三日くらいなら眠らんでも倒れやしないさ」なんて呟きながら、小枝を一本、二つに折って炎へ入れて別の小枝で掻き混ぜた。

 その仕草と横顔が、何だか帝都に住んでいた時代によくつるんでいた親友に似ているような気がして、俺はほんの少しばかり懐かしく思った。

 俺はきっと、こうやって時折見せるメノスの表情に自分の親友を見ているから彼らの旅についているんだろうと思う。それから、自分を手酷く裏切った人間なんぞを未だに未練がましく思っている自分に気づいて少しだけ泣けそうになった。

「明日も良い天気になりそうだなぁ」

 俺の気持ちなんてつゆ知らずのメノスがぼんやり言いながら夜空を仰いだので、つられて先ほどまで見ていたはずの空をもう一度見た。

 雲ひとつ無い綺麗な夜空はなるほど、確かに明日も良い天気になりそうな星空だと俺は思った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ