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「黒の騎士誕生に乾杯!」

 寛太を中心に祝杯があがる。

 兵舎に当てられた城の一角の塔。こじんまりした食堂があるのだが、そこに十数人が集まっていた。

 寛太達は静かに凱旋したのだが、ルーカスとジョンが寛太の活躍と黒の騎士の話を広めてしまい、この騒ぎが生まれた。

 白の騎士が現れた時の城を上げたお祭り騒ぎには引けを取るが、それなりに盛り上がりを見せている。

 モンスターとの戦いで疲弊していた兵士達にとって、もう一つの希望の星は何よりの喜びであった。

「あれ?兄ちゃんは?」

「お?団長?お前知ってる?」

「しらねー!」

 黒の騎士として祭られる寛太は十五歳の少年。騎士団では新兵に当たる。それで団員達はしきりに酒を勧めるのだが、現実の世界の常識に照らし合わせ、いや兄に怒られるかもしれないと酒の誘いは断っていた。

 だが、周りは違う。

 兵士達は寛太に構うことなく酒を食らい、酔っ払いを増産していた。

 既に主役のことは頭の片隅に追いやられ、それぞれが酒を楽しんでいるようだった。

 それに安堵して彼は兄を探していた。

 宴の始まりには顔を確認できたが、そのうち姿が見えなくなった。

 森で兄達に再会した時、黒の騎士となりモンスターを倒した自分を褒めてくれると思っていた。

 確かに褒めてくれたのだが兄の表情は硬く、褒め言葉もどことなく感情が篭っていなかった。

 王女と話した後と同じ。

 兄はどこかおかしかった。

 それがなぜか確かめたくて寛太は兄の姿を求めた。


 食堂の中には姿が見当たらず、隣接する中庭に出る。所々に焚かれた松明の明かりで視界には困らなかった。

 奥まった部分に置かれた木製の長椅子に人影が見えた。

「兄ちゃん!」

 捜し求めた人物がそこにいて、寛太は駆け足で近づく。

「……寛太」

 だが、顔を上げた兄は浮かない顔をしていた。

「大丈夫?」

 思わず寛太はそう聞いてしまう。

「大丈夫だ」

 ひとしは自虐的な笑みを浮かべ、立ち上がる。

「何か用か?」

 兄のひやりと冷たい言葉。

「……別に、ただ様子がおかしいから、どうしてなのかって思って」

 寛太は少しぎこちなく尋ねる。

「別に」

 再び返ってきた短い言葉。

「あの、さ。魔術師に目覚める方法を聞いたの?」

 何か会話をしなければと寛太は必死に言葉を紡ぐ。だが、口から出た質問に後悔した。

 兄の様子がおかしい原因かもしれない。そのことに触れてしまったかもしれない。

「……聞いた」

 ひとしは顔色を曇らせる彼に向き直る。

 笑みを浮かべていた。

「それはどんな方法なの?」

「簡単だ。お前を、」


ひとし、寛太!』


「お母さん?!」

 ふいに上空から声が降ってきた。

 空を見上げると真っ暗な夜空にぽかりと白い穴が出来ていた。

 光が差し込み、大きな手が穴から伸びてくる。

「兄ちゃん!お母さんだ!きっと、これに捕まれば目覚めることができるんだ!」

 救いがきたと、寛太は大きな手の平に乗った。そして自分の手を兄に伸ばす。

「兄ちゃん?」

 ひとしは顔を背け、寛太の手を取ろうとしなかった。

「……俺は行かない」

「な、なんで?心配なの?大丈夫。きっとお母さんだよ。お母さんがオレ達を呼んでるんだ!」

 言い募る寛太の手を、ひとしは弾いた。

「俺は行かない。お前だけ戻れ。お前が戻れば母さんは喜ぶ」

「兄ちゃん!」

 無理にでも連れて帰ろうと、寛太は身を乗り出して、兄の体を掴もうとした。 

「俺はここがいいんだ。帰らない!」

 そんな彼の手を力いっぱい払いのけ、ひとしは叫ぶ。

 同時に白い手が寛太を掴んだまま、空に開いた穴に戻っていく。

「兄ちゃん!」

 このままでは帰れないと彼は抵抗するが、その白い手から逃れることができなかった。

 兄の姿が眼下で小さくなっていく。

 ひとしが空を見上げることはなかった。

 


 ☆


「……お母さん?」 

 目を開けて最初に視界に入ったのは母の姿だ。

「寛太!」

 ぎゅっと抱きしめられ、寛太は夢から覚めたことに気が付く。

「仁、仁!」

 父親は必死に隣に眠る兄の体を揺すっていた。

「兄ちゃん」

 夢から覚めることを拒否したひとし。やはり目覚めることはないのだと寛太は胸が苦しくなった。払いのけられた手。兄は最後まで寛太を見ることはなかった。

ひとし!」

「……お父さん。兄ちゃんは、戻りたくないって」

「……やはりお前達、夢の世界に入ったのか」

 掠れた寛太の声に父親は予想外の言葉を発した。

「あなたのせいよ!なんでこんな装置……。まだ置いているのよ」

 母親は寛太を抱きしめたまま、叫ぶ。

「……だって。僕たちの思い出だから」

「だからって、こんな危険なもの!」

『僕達の思い出』?

 父親の言葉に、兄に拒否され呆然としていた寛太は我を取り戻す。

「父さん、どういう意味?『夢ゆめ』を使ったことあるの?」

「……ああ」

 父親は短く答え、俯く。

「じゃあ、夢の中に閉じ込められたことがあるの?」

「ああ」

「どうやって出られたの?やっぱり母さんが呼びかけたの?」

「……呼びかけたというか、お父さんの夢に入ったの。それでどうにか連れ戻したの」

 歯切れの悪い父に代わり、母が答えた。

「そんなことできるの?」

 母の手から逃れ、寛太は体を起こすと二人に向き直る。

「父さんは最初嫌がったわ。でも私が説得して、戻ることができたの。後で知ったことだけど、本人が目覚めたいと強く望めば夢から覚めることができるらしいの」

「じゃあ、俺がもう一回夢に戻って兄ちゃんを説得すれば!」

「寛太!だめよ。それなら私が行くわ」

「いや、俺がいく。俺。まだちゃんと兄ちゃんと話してない。兄ちゃん、様子がおかしかったんだ。だから俺が行きたい」

「寛太!」

「玲子。行かせてやろう。多分。大丈夫だ」

「あなた!」

「父さん。ありがとう」

 寛太は父にぺこりと頭を下げると、再びヘッドフォンを手に取る。

 母親は心配そうに彼を見ていた。

「心配しないで。きっと兄ちゃんを連れて戻ってくるから」

 寛太は母親に微笑むと、ヘッドフォンを頭につける。そしてボタンを押した。


 ☆


「カンタ?!」

「恵理?!いや、王女様!」

 最初に視界に入ったのは恵理にそっくりのエリーナ王女だった。

 慌てて身を起こし、あの小姑のようなエドワードがいないか探してしまった。

「エドワード?いないわ」

 王女はくすっと笑って答える。だが、口元は笑っていたが目はどこか悲しげだ。

「何かあったんですか?」

「ラキードを退治にいったのよ。総力戦よ」

「ラキード?総力戦?」

 寛太は立ち上がりながら尋ねる。

「そうね。カンタは知らないわね。カンタが元の世界に戻っている間、私達は幾度ともなくモンスターの大群と戦ったの。そして、モンスターの生み親がいることを突き止めたの。生み親のラキードを倒せば、モンスターはいなくなるわ。だから、今朝、ヒトシは騎士団を率いてラキードの巣へ向かったの」

 そう語る王女がなぜか元気がなくて、寛太は心配になる。

「王女様。これで終るのですよね?なんで、そんなに元気がないんですか?」

「……嫌な予感がするの。とても」

「嫌な予感。確かにヒトシは強いわ。でも強いのはヒトシだけなのよ。だから心配なの」

 胸元をきゅっと掴み、その瞳から涙がこぼれそうだった。

「……王女様。オレのこと、忘れてる。オレが今から兄ちゃんの後を追っていって、手伝ってきます。だってオレは黒の騎士だから!」

「ありがとう。ヒトシのことお願いね」

 王女はやっと屈託のない笑顔を寛太に見せる。

「もちろんです!」

 それにきっちり笑みを返し、彼は王女の元を離れた。


 ラシードの巣は城から北に位置する荒野にあると聞いた。

 コンパスを借りて、寛太は城を抜けると馬を思いっきり走らせる。

 モンスターの屍、兵士達の躯が左右に転がっており、道が合っていることを伝える。

 夢なのに、無残な光景は寛太の気持ちに影を落とす。

 最強である白の騎士、そして同じく多分最強である黒の騎士。

 二人だけで戦ったほうがよかったはずだった。

 それなのに、寛太は元の世界に戻ることだけを考えていて、夢だからとこの世界を一度捨てた。

 兄は違う。

 きっと兄はこの世界を救いたいと思っている。

 だから、元の世界に戻らなかったのだ。

 寛太はそう考えることにした。

 兄が自分を拒否したのではない、そう考えたかった。


「光だ。森が終る!」

 森の切れ目が見え、寛太は嬉しくなる。

 だが喜びは長く続かなかった。

「うわっつ!」

 それは崖の上で、寛太は慌てて馬の手綱を引く。

 嘶きと同時に砂埃が舞うが、ぎりぎりで転落が逃れたようだった。

「誰か……」

 掠れた声が下から聞こえた。

 馬と人が折り重なるように崖の下に見えた。

 夢なのに、現実としか思えない凄惨な光景に寛太は目を逸らしたくなった。

「黒の…騎士?」

 口から血を流し、男がこちらを見上げていた。

「ルーカスさん!」

 寛太は馬を降り、崖の下まで必死に降りると男に近づく。

 顔が血と埃に塗れていたが、男は間違いなくルーカスだった。

「……戻ってきてくれたのか?」

「うん。ちょっと待っててくれ。今助けるから!」

「いや……必要ない。それよりも白の騎士を追ってくれ……。団長が強くても、一人じゃ……無理だ」

「一人?」

「俺達騎士団は森の中でモンスターの大群に襲われ、多くが死んだ。その上、この崖で……。残っているのは団長だけだ」

「そんな、」

 寛太は黒の騎士になったと祝ってくれた面々を思い出す。深く話すことはなかったが、楽しそうにお酒を飲んでいた。

 夢、それでも割り切ることはできなかった。

 兄の夢、そうばかり思っていた。

 でも、自分も黒の騎士になることでできた。

 だから自分の夢でもある。

 そうに違いない。

「ルーカスさん。助けるから」

 寛太は火事場の馬鹿力としか思えない力を発揮して、ルーカスを馬と人の間から助け出す。そうすると他にも息があるものを見つける。

「カンタ……」

 生きているものがいたら全部助けたい。その思いで寛太は人を助け出していった。

 助けられたのはわずかに四名。

 でも寛太が助けないと死んでいたに違いなかった。

「こんなのはおかしいよ。オレは嫌だ」

「カンタ?」

 自分の夢なら、どうにでもできるはず。

 モンスターを倒すだけでなくて、皆を救いたい。

「オレの夢ならオレの望みを叶えて!」

 寛太は空に向かって吼えた。

「オレはこんな世界が嫌だ!モンスターなんていない世界。皆が幸せに暮らせる世界がいい!」

 空が呼びかけに答えるように歪んだ。

 灰色の空が晴れていく。

 寛太を残し、全てが変っていく。

 いや、元に戻るというのが正しいだろう。

 荒野は森に姿を変え、モンスターは普通の獣へ、破壊された村や街も見る見るうちに姿を取り戻す。

 城は最後の砦ではなくなり、城壁の外には建物が広がり賑やかな街となった。

「弟が、」

「父ちゃん!母ちゃん!」

 騎士団員は失われた家族を取り戻して、それぞれの故郷に帰っていく。

「……カンタ」

 質素ではなく華やかなドレスをまとったエリーナ王女が寛太を呼んだ。

 世界は王女がかつて語ったモンスターのいなかった世界に戻っていた。

 その頃は頻繁に開かれていただろうパーティ、寛太はその席に呼ばれているようだった。

 音楽隊に、美しく着飾った女性、正装した男性。溢れんばかりの食べ物が用意され、パーティーは豪華で盛大だった。

 急に世界が変わり戸惑う寛太に、深々と礼をする王女。

「カンタ。あなたが世界を救ってくれた。ありがとう」

「いや、オレは。兄ちゃんが、」

「兄ちゃん?あなたにお兄様がいたの?」

「え?王女様。オレの兄ちゃんの白の騎士だよ。きっと兄ちゃんも大丈夫だから。もうモンスターなんていないはずだし」

「白の騎士。あなたのお兄様も白い騎士なのですか?」

 王女の言葉に寛太はショックを受ける。

「王女様。ヒトシ、騎士団長のヒトシ。覚えてないの?」

「くすっ。騎士団長はあなたでしょ。カンタ」

 寛太は急に気持ち悪くなった。

 自分が世界を変えてしまい、兄の存在が消えてしまった。

 それならば兄はどこにいってしまったのか。

「カンタ?」

 俯いてしまった騎士を王女は心配する。

「オレのせいだ。オレが、」

「そうだな。寛太。お前のせいだ。やはりお前は俺の邪魔ばかりする」

 パーティーにそぐわない落雷。人々は怯え、立ち止まる。音楽隊も演奏を止め、音が消える。

「兄ちゃん!」

 漆黒のマント、鎧を付け、兄はひっそりと立っていた。

「俺の夢。俺の夢だったのに」

 現れた黒い影に王女は怯えて寛太の腕を掴む。それを一瞥してひとしは笑った。

「まただ。お前はいつも俺から奪っていく。恵里も、居場所も」

「どういう意味?」

「ふん。お前はいつも気がつかない、だからこそ、余計に腹が立つ」

 ひとしは笑みを湛えたまま、剣を抜いた。

「知ってるか。元に戻る方法を。死んだら戻るらしい。だから俺がお前を殺して夢から目覚めさせてやる」

「兄ちゃん……」

 兄と戦うなんて嫌だった。

 剣など抜きたくない。

「迷ってるか?俺の存在を消そうとした癖に」

 振り下ろされる剣。

 寛太は王女を抱き、間一髪で避ける。

「兄ちゃん!オレはそんな事考えていない。ただ人が死ぬのを見たくなかったんだ!」

「そうか」

 ひとしは寛太に再び攻撃を仕掛ける。

 右手で柄を握り、その懐に飛び込む。

 またもや寛太は避けるが、ひとしが剣を横に振り切り右腕を掠る。

「実際に死ぬことはないんだ。元の世界に戻るだけ。大人しく俺に殺されて元の世界に戻れ!」

「嫌だ!」

 ガチンと金属音がする。

 寛太が剣を抜き、ひとしの攻撃を受け止めていた。

「やっと、やる気になったか!」

「違う。俺は兄ちゃんを殺さないし、俺も殺させない。目覚める事を願えば、元に戻れるんだ!母さんがそう言ってた!」

「……母さんが」

 ひとしの剣に込めた力が弱まる。

 寛太は少し安堵して語りかけた。

「兄ちゃん。一緒に帰ろう。母さんも父さんも帰りを待ってるんだ」

「嘘だ。帰りを待ってるのはお前の事だけだ。俺のことなんてどうでもいいんだ!誰も彼もお前だけが必要だった。だから俺は自分が必要とされる世界に来たのに。お前が!」

 ひとしは再び力を込め、寛太を押し切る。

「殺してやる。俺の前から消えてくれ!」

 バランスを崩した寛太に向かって、ひとしが剣を振り上げた。

 血しぶきが上がる。

 倒れたのはひとしだった。

 寛太に覆いかさばるように倒れる。

「やったぞ!白の騎士様!」

 弓を持って歓声を上げたのは、ひとしの部下でもあったルーカスだった。

「兄ちゃん!」

 寛太は兄を抱きかかえ、血が吹き出す腹部を押える。

「憐れな最後だな。やっぱり俺は一人だ」

「一人じゃない。オレも、母さんも父さんも!恵里だって!」

「恵里か」

「兄ちゃん。恵里は兄ちゃんの事が好きなんだ。オレのところに遊びにくるのも兄ちゃんが目当てなんだから」

「嘘……つけ」

 そう呟いてひとしは笑った。

 久々に寛太は兄の本当の笑みを見た気がした。

「嘘じゃない。目が覚めたら確かめたらいいじゃん」

「……俺はこのまま死ぬ」

「何で、さっき夢で死んだら目覚めるって」

「死ぬのを望まない場合だ。俺はこのまま死ぬ。夢だから痛みもあまりない……」

「馬鹿兄!このまま死なせない。絶対に!」

 寛太は自分の剣を脇腹に当てると横に思いっきり引いた。

 血が床に飛び散る。

「カンタ!」

 悲鳴をあげたのは王女だ。寛太に近寄ろうとするが、兵士が止める。

「いってぇ。何だよ。兄ちゃん。痛いじゃんか」

「お前は、何で……そう馬鹿なんだ……」

「兄ちゃん。もし、兄ちゃんが……目覚めなかったら、俺も、目覚めないから」

「何言ってんだ。お前……。母さん達が心配するだろうが」

「だったら……。目、覚ましてよね」

「……」

 兄は答えなかった。

「兄ちゃん?」

 寛太は心配して顔を覗き込む。

「まだ死んでない。結構痛いな。夢なのに」

 ひとしは弟の血塗れの腕の中で唸る。

「うん」

 寛太は同感と思いながら目を閉じた。


 ☆


「母さん……?父さん?」

 枕元で両親がひとしを見守っていた。

「……俺、生きてる」

「そうよ。生きてるわ。お腹すいたでしょ?」

「うん」

 そう言われて、ひとしは空腹を覚える。

「俺、どれくらい寝てた?」

「4時間くらいかしら」

 母は微笑みながら立ち上がり、窓を開ける。

 外は昼過ぎの明るい光で満たされていた。

「そうだ!寛太は?寛太はどこ?」

「寛太。誰かしら?お父さん、知ってる?」

 母は父に視線を投げかける。

「さあ、知らないな。お前の友達かい?」

「なんで?」

 ここは自分の嫌いな現実の筈だった。なのに寛太がいないなんて。

 ひとしはベッドから起き上がると、屋根裏部屋に急ぐ。

「仁!」

 大嫌いな弟がいなくて、やっと幸せな現実が来た。そう思えるはずが、思えなかった。胸にぽっかりと空いた穴。喪失感がこみ上げる。

 二階に駆け上がり、折り畳みの階段を天井から引っ張り降ろして、ひとしは屋根裏部屋に入った。

「兄ちゃん!お帰り!オレのこと、心配した!?」

 がばっと抱き着いてきたのは紛れもない寛太だった。

「オレ、本当嬉しい!兄ちゃんが来てくれないと思ったから」

 寛太は混乱している兄から離れ、胸を撫で下ろす。

「だから言ったでしょ」

 後方から声がして振り向くと、上半身を床に乗り上げた母とそれを支える父の姿があった。

「母さん?」

ひとしはあんたがお腹にいた時から大好きだったんだから。あれかしら。可愛さ余って憎さ百倍ってやつ」

 よっこらしょっと掛け声を忘れずに母は立ち上がる。

 ひとしは今一状況が掴めず、茫然とするばかり。

ひとし。我が息子ながら馬鹿よね。誰が必要とされない子?何かおかしいとは思ってたけど、そんなこと思ってたなんて。久々にお尻ペンペンしようかな」

 手を振り上げ母がニヤッと笑い、近づく。

「や、それはやめてくれ。母さん!」

 やっと騙されていたことに気がついて、ひとしは脱げ腰だ。

 十七歳にもなってお尻ペンペンはないだろうだ。

ひとし!」

 振り下ろされた手はひとしの背中に回る。母は両手でギュッと幼気な息子を抱きしめていた。

「私は、私達はあんたも寛太も大事だからね」

 そう囁かれ、ひとしは母の温もりを感じる。心の中心にあった黒い塊が溶け出す。

「いやあ、これで一件落着だな!」

 はははと乾いた笑いと共に、父がひとしの肩を叩く。

 その暢気さに彼の心が更に和む。

「なーにが一件落着よ!」

 だが、母親が違った。息子を解放すると目を吊り上げて父を睨み付ける。

「元はと言えばあなたが元凶でしょう!絶対に捨ててよね。今度こそ!」

 頭から角が生えているのではないかという形相で、母は父に詰め寄った。

「はい!捨てます!今度こそ」

 父はそう答えながらも逃げるが勝ちとばかり、下に駆け降りる。

「待ちなさい!」

 母が後を追いかけ、屋根裏部屋に静けさが訪れた。

「兄ちゃん、また使おうと思ってないよね?」

 ぼんやりと「夢ゆめ」を眺めていたひとしに、弟が疑いの眼差しを向ける。

「……また使ったらどうする?」

 ひとしは寛太を正面から見つめ、尋ねた。

「追いかけるまでだね」

 弟は間髪置かず返答する。

「じゃあ、使わない。お前が来たら直ぐに主役奪われるに違いなからな」

「それはよかった」

 苦笑しながらそう話すひとしに、寛太はニンマリと笑って返した。

「仁、寛太!ご飯よ!」

 そこに階下から母の声がかかる。

「今、行く!兄ちゃんも早く!」

 空腹を堪えていた寛太は、話はそこで終わりとばかり、勢いよく下に降りていく。

 残されたひとしは弟を追う訳ではなく「夢ゆめ」に近づいた。そしてヘッドフォンを手に取ると深く息を吐いた。

「もう夢を見るのはやめる。俺はこの世界で生きていく」

 そうして彼は思いっきりコードを引っ張る。ブチっと嫌な音がしてコードが切れた。さらにもう一本のヘッドフォンがついたコードを同じようにして本体から引きちぎった。

ひとし?何してるの?早く降りて来なさい。全部食べちゃうわよ」

「え?待って。俺の分残しておいて!」

 ひとしはヘッドフォンを無造作に床に投げ捨てると、部屋を後にした。


 誰もいなくなった部屋に、窓から風が吹き込む。

 銀色の楕円形に力なくぶら下がるコードが、風に舞う。

 先端を失ったそれは、まるで別れを告げるように左右に何度か揺れ、風が止むと同時に動かなくなった。


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