五話 夜陰
「宗玄さま・・・!!」
あわただしい足音と共に、締め切られていた障子が開け放たれた。
「よう戻られました、宗玄さま。お会いできてまつは嬉しゅうございますわ」
障子の奥から女中を従え、一人の女性が出てきた。
三十代中頃だろうか。色留袖に艶やかな打ち掛けをまとい、しとやかに歩く姿は高貴な生まれであることを感じさせる。
「出迎え痛み入る。久しぶりだな、まつ」
「えぇ、なかなか帰っていらっしゃらないから寂しかったんですのよ?」
宗玄とまつと呼ばれた女性は、言葉の外で心を交わすように微笑み合った。
此処は宗玄が所有する京の別邸。宗玄の奥方が住んでいる屋敷だ。この出迎えて暮れた女性こそ宗玄の奥方のまつである。
「相変わらずだな、お二人は」
物陰から二人の仲むつまじい様子を見ていた蒼井はげんなりと呟いた。
まつと宗玄は夫婦となってから十五年がたつ。しかし、普段離れて生活しているからか、二人の仲はいつまでたってもさめることはない。
宗玄に直接付いてきた過信も、長旅の疲れからか、複雑な心境を隠すことなく顔に貼り付けていた。
「ささ、皆も疲れたことでしょう。早う入りなさいませ」
一通り熱い視線を交わした後、まつは皆を屋敷に招き入れた。しかし、蒼井は物陰に隠れたまま一向に出ようとはしなかった。
たとえこの場所が宗玄の所有する屋敷であっても、極力姿を見られてはいけない。
裏から密かに入ろうと踵を返したそのとき、まつがにっこりと微笑んで言った。
「それから、蒼井。ばれていますよ」
びくっと蒼井の身体が大きく跳ねた。いたずらがばれた子どものように少しおびえた様子で木陰から姿を現した。
「おまえもよう来ました。お前に話したいことがあります。すぐ、私の部屋にきなさい」
その格好のままで、と一言付け加えられる。布で隠された瞳では直接見ることはできないが、まつが楽しそうなのはその声から容易に想像できた。
「そうしてやれ蒼井。ずっとお前に会いたがっていたからな」
宗玄も愛しい妻のために笑って命令した。普段は人に見られないようにと厳命しているくせに、本当に奥方には甘いと蒼井は心の中で毒づいた。
かといって逆らえるわけがない。蒼井は力なく、「了承しました」と応えた。
「大きくなりましたね」
招かれるままに部屋に入り、腰を下ろした。無論、被衣と目隠しをしたままだ。
京の屋敷は江戸の屋敷よりも使用人が多い。特にまつに仕えている女中などは、ほとんど宗玄の仕事のことを知らない。
そんな者たちに姿を見られるのは、蒼井としても避けたかった。
「どうしました、蒼井。室内で被衣とは無粋ですよ。目隠しも外しなさいませ」
命令が下る。蒼井の気持ちを知って居るであろうに、意地悪げに笑った。ためらいを見せる蒼井に追い打ちを掛けるようにまつは言った。
「大丈夫。ここに居るものはお前のことを知っています」
そう言われては逆らう理由は蒼井個人の気持ちのみになってしまう。渋々ではあるが、被衣に手を掛けた。
「・・・失礼しました」
被衣を脱ぎ去り、目隠しを外す。久しく日を浴びていなかった茶の髪ははらりと零れ、白磁の目蓋の下に隠されていた双玉がふるりと震えた。
「それでいいのです」
まつの口から、感嘆の息が零れた。そして、周囲に控えていた女中からは短くではあったが、引きつるような悲鳴が聞こえた。
空気に混じって聞こえた「化物」という呟きに、蒼井の顔は下を向いた。
「蒼井。本当に美しく育ちましたね。宗玄様の元に置いておくのは勿体ない・・・。女だったならば、すぐにでも私の側仕えにしたものよ」
そう言い放ち、手に持っていた扇を一度、大きく鳴らした。
その音におびえる女中を視界の端に睨み、まつは再び蒼井に向き直った。
「顔をあげなさい」
命令されるがままに顔を上げる。まっすぐにそれ以外のものに目がいかないように、まつを見つめる。
「それでいい。・・・身体だけ大きくなって、中身は全く変わっていませんね。子どもの頃からあなたがいつも周りの目を怖がっていた」
優しい、まるで母のようだと蒼井は思った。
「私(わたくし)は別にお前を見せ物にしたいわけではありません。このようなつまらない者のことは気にしてはいけません。案外、お前の美しさに嫉妬しているだけかもしれないわ」
まつの言葉に女中が竦む気配がした。しかし、蒼井はそこにある優しさをくみ取り、少し緊張を緩ませた。
「さ、江戸の話を聞かせなさいな。宗玄様はなかなか話してくださらないから」
恋する少女のように言うその普段と変わらない声に、蒼井もつられて笑った。
「まつさまは相変わらずですね」
「そうですか?」
会えない分愛とは増すものだと、自信をたっぷり含んだ声で言いはなった。
そのとき、締め切られた部屋の障子が控えめに開かれた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
ついと視線をやると、顔を上げたその女性と目があった。驚きに丸くなった黒瞳に、とっさに蒼井は顔を背けた。
「しのですか。ありがとう。・・・・・・しの?」
固まったまま微動だにしない側仕えの少女、しのに不信を抱く。
「どうしました?」
二度目の呼びかけに、やっとしのは我に返った。それと同時にみるみるうちに顔が朱く染まり、俯いた。
「いえ、つい・・・見とれてしまいました」
恥ずかしそうにそう呟く少女に、まつは一瞬惚けた顔をし、笑いだした。
「ははっ。しの、お前はなかなかいい目をしているわ。そうですか、蒼井に惚れたのですね」
「いえ、違います!ただ、綺麗だなと」
慌てて否定する。それすらも楽しそうにまつは腹を抱えていた。
いそいそと蒼井と目が合わないように注意しながら二人の間に茶を置き、しのは部屋を出て行った。
「ねえ蒼井。この屋敷にもお前の本質を見ることの出来る者はいたでしょう?」
「私の本質ですか・・・」
「そう。見た目や生まれではない本当のお前。宗玄様や、無論私もお前のそういったところを気にいていっているのですよ」
分かりましたかと笑うまつに、涙がこぼれそうになった。熱い目頭を押さえ、袖の下で蒼井は小さく頷いた。
「それでは話を戻しましょう。蒼井は今年でいくつになったのでしたっけ?」
さっと目元を拭い、向き直る。
「二十三です」
「もうそんなになるのですか・・・。大きくなるのも仕方が無いことなのですね。確か、最後にあったのは十七のときだったはず」
京にいるまつと江戸で暮らしている蒼井は滅多に会うことはない。実際親しげに話をしているものの、二人が顔を会わせた回数は両手で足りるほどだ。
「初めてあったとき、確かお前はまだ十歳だったかしら。時間とは恐ろしいですね、あんなに小さかった子どもが、今ではもう立派な大人です」
蒼井が宗玄に拾われたとき、まうはまだ嫁いで間もなかった。今の蒼井とそう変わらない年齢だったまつは、人形のような蒼井をいたく可愛がったものだ。
「前合ったときは私よりも低かったのに、私を越えてしまって。それでも女人の格好が似合うのだから、不思議なものです」
「それは言わないでください。桐士にさんざんからかわれているので」
恥ずかしげに蒼井は制止した。
他と比べて成長の遅かった蒼井がまともに成長し始めてのは二十近くになってからだ。成長が止まった今も、まつよりは高いが男性としては少し低めだった。自らの身長に少なからず劣等感を抱いている蒼井にとって、身長の話は耳が痛いだけだ。
特に、十七のときなど本当に少女のようで、それは蒼井にとっては思い出したくない過去なのである。
「そういえば私の贈った小袖はどうしました?」
「着てこようかと思ったのですが、長旅でしたので汚してはいけないと思い、まだ着ていません。京にいる間に一度着てみようかと」
折角まつ様が居るのだし、と小さく付け加えた。その返答にまつは満足げに頷いた。
「楽しみにしていますからね」
その笑みに蒼井は複雑な感情をいだくのだった。
「ところで蒼井、少し熱があるのではないですか?」
「・・・え?」
「顔が少し朱い」
まつの指摘に、どきりと胸が大きく跳ねた。
ずっと宗玄にも桐士にも隠していたが。此処一月、蒼井がずっと下がらない微熱に悩まされていた。まさか気付く人間がいるとは思わなかった。
「確かに、少々熱があります。しかし、まつ様が気にするほどのものではありません」
「気にしなくてよいなど・・・。お前が一番気にするべきなのに」
しかるような口調。心配と、怒りの感情が入り混じった声だった。
「ですが、私には仕事を休めとは言えません。だからせめて、この屋敷にいる間はゆっくりしなさい」
「はい。ありがとうございます」
心からの心配がそこにはあった。誰かに心配されるということの優しさに、蒼井は柔らかく応えた。
それはもう物音一つしない丑三つ時のこと。少しずつ深まる夜と共に、人の気配も減っていった。
「・・・・・・っ」
静まる屋敷の離れで、蒼井は一人胸を押さえ、布団に突っ伏していた。突如胸元に走った痛みに、着物の端を掴み堪え忍ぶ。
「なん・・・だ?これ・・・」
突然のことに、訳も分からないままに荒い呼吸を繰り返す。隣で眠る桐士に助けを求めようとしたが、ひゅうと空気が抜けるだけで声が出なかった。
人の気配などまるでなく、ただ痛みが治まるのを待つしかない。
「・・・はぁ、はぁ」
しばらくすると、ようやく痛みは和らぎ始めた。
「蒼井?」
蒼井の異変に気付いた桐士が目を覚ましたようだ。
「どうした?体調でも悪いのか?」
「いや・・・何でもない。夢見が悪かっただけだ」
とっさに吐いた嘘。桐士たちに知られたくないと何故か思った。
(病、なのか?)
正直、認めたくない。しかし、そう思うしかない要因もある。一月以上続いている微熱。誰にも気付かれて居なかったが、実はこういった発作のようなものも何度かあった。
嫌な予感が胸を過ぎる。
それを振り払うように、横になったまま首を振った。じっとりと汗を拭くんだ髪が肌に貼り付き、気持ち悪い。大きく息を吸い、吐いた。
「大丈夫・・・」
きっと大丈夫。夏が近い所為なのだ、きっと。
認めたくないという思いと、誰にも知られたくないという感情から、蒼井は見て見ぬふりをしてしまった。
それが後に、どんな結果を招くかをまだ蒼井は知らない。
次回は番外編となります。