四話 特別
『宗玄様は、お前を特別扱いしている』
夕餉を終え、あたりに夜の帳が降り始めたころ、蒼井は一人離れと母屋を繋ぐ渡り廊下を歩いていた。
しっかりと目元を布で隠し、闇に紛れるような黒の着物をまとって灯りがほのかに揺らめく廊下を行く。周囲の気配を探り、誰もいないことを確認しては母屋を進む。
たとえ同じ屋敷の中といえど、蒼井を知るものは少ない。宗玄の仕事を知っているため、奉公人たちは何も見てもそれを口外することはない。それでも、もしもの場合を考え、極力人と会うのは避けたかった。
ほどなくして屋敷の一番奥の部屋に辿り着いた。
「宗玄様、蒼井です」
「入れ」
ふすまの奥から声が響く。
「失礼します」
すっと音もなくふすまを開け、部屋に入った。そのまま静かに主君への礼をとる。
「そんなに畏まるな」
言われるままに顔を上げる。灯籠に照らされた薄暗い部屋の中、宗玄は一人、盃を傾けていた。
「お前も飲むか?」
「いえ、私は酒は」
すぐさま断る。硬い蒼井の様子に、宗玄は珍しく口元を緩ませた。
「相変わらず酒は嫌いか。まだまだ子どもだな」
宗玄の言葉に蒼井は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「恐れながら、私をお呼びになった理由をお聞きしても?」
「ああ、だがそれよりも前に此処には私しかいない。目隠しをつける必要もないだろう?」
外せと口外に命令してくる。悪い癖で、またもや蒼井は布の存在を忘れていた。
「申し訳ありません」
慌てて目隠しをはずす。細長い布がはらりと落ち、美しい蒼が光に晒された。
「それで良い」
黒曜石のような宗玄の瞳と視線が交錯する。蒼井は自分でも気付かぬうちに目をそらしていた。
しかし、宗玄は気にした風もなく話を続けた。
「もう察しているとは思うが、お前を呼んだのは新しい仕事が入ったからだ」
”仕事”という言葉に無意識に背筋が伸びていた。
「今度、例の忠通公と共に京へ行く。お前も護衛として付いてこい」
「忠通公って・・・あぁ」
いかにも面倒くさそうな声がつい漏れてしまった。宗玄も蒼井の気を察したのか苦々しい表情を浮かべている。
「お前の気持ちはよく分かる。私も正直面倒だ」
忠通公とは、さる高貴な血を引くお方であり、とにかく面倒な性格の持ち主なのである。その上、宗玄とは幼い頃からの顔見知りとあって、よく無理難題を押しつけてくる扱いづらい客であった。
「まあ、お前が直接関わる必要はない。それより、護衛ついでに観光でもどうだ?」
空気を変えようと宗玄は的はずれな提案をした。
「観光なんて・・・。京ですよね」
「そうだ。ここを離れるのは嫌か?」
京となれば嫌でも外に出なくてはいけない。それも昼間にだ。そもそも京など片手で足りるほどしか訪れたことのない場所だ。不安の方が大きいに決まっている。
「ご命令とあらば、どこへでも参ります」
「それなら良い。・・・またお前の女装が見られるのだな」
主の予想外にも程がある発言に、蒼井の思考は一瞬停止した。
「なっ・・・!」
「そう慌てる必要など無いだろう。おもしろい程似合っていたではないか」
からりと宗玄は笑って言った。普段とは違うその声色と、ほんのり朱く染まった顔に蒼井は大きく息をついた。
どうやら宗玄は酔っているらしい。それでも蒼井は冷静に対処しようとした。
「昼間、桐士にも同じことを言われました」
「そうだったか。あいつもなかなかの男だ」
蒼井の小さな反論に宗玄は苦く笑った。そして手にあった杯を一気にあおり、干した。
「青助、姿を隠すのは嫌か?」
唐突に投げられた問いに、蒼井は答えられなかった。
「本来なら、その姿は隠すようなものではない。お前が女に身をやつし、深く被衣を被る必要などどこにもないはずなんだ」
先ほどまでとはうってかわり、宗玄の口調はどこまでも真剣だった。
宗玄はそう言う男だった。今の江戸には珍しく、人を見た目や生まれでなく、その本質を見ようとする人であった。蒼井が姿を隠さなくてはいけないのは蒼井の容姿ではなく、周りの人間が悪いのだと公然と言える人間なのである。
宗玄が裏社会で生きるのも、そういったところに起因するのだろう。
日陰の人間がより生きやすいように手を差し伸べ、その力を使うことで社会を根柢から変えようとしていた。
「お言葉ありがたく思います」
宗玄のそういったところを慕うからこそ、蒼井は身も心も彼に捧げてきたのだ。
「お前の目は本当に不思議な色をしているな」
宗玄は尊いものを見るように、畏れに似た何かを含んだ目でじっと蒼井を見つめた。
「こうして灯りの前で見ればどこまでも透明で純粋なのに、ひとたび闇に紛れればとたんに深く、暗くなる」
まるでお前自身を表しているようだと、宗玄はぼそりと呟いた。
昔にも一度、同じことを言われたことがある。
『灯火の前では晴れた空のように輝くその蒼は、日光の下で静かに本をよむ只人の”蒼井”によく似ている。しかし、月に照らされたお前の目は闇を切り取ったみたいな色だ。まるで江戸の闇をそのまま移しているみたいに』
只人の蒼井と闇に生きる蒼井。二人の蒼井が瞳のなかにいた。
「どちらが本当のお前なんだろうか」
心の奥底を見透かしたように、宗玄は言った。
「・・・どちらも合わせて私なのだと思います」
取り繕うような言葉。本当は蒼井だって分からない。それでもそうであって欲しいと願いを込めて蒼井は応えた。
きっとどちらが欠けても、自分は自分でなくなってしまう。そんな気が心のどこかでしているのだ。
「どちらも合わせてお前か。青助にしては気の利いたことを言う」
宗玄は再び杯を手に持った。
「もう夜も遅い。部屋に戻って良いぞ」
とくりとくりと酒が杯になみなみとつがれる。まだ飲む気かと心の奥であきれながら、蒼井は立ち上がった。
「それでは失礼させていただきます。・・・お酒はほどほどになさってください」
ああと苦い顔をする宗玄に深く一礼し、蒼井は部屋を出た。
再び布で瞳を多い、人の気配を探りながら歩く。
(特別・・・ね)
桐士の言葉が脳内に蘇る。
口では否定するものの、蒼井自身確かに特別扱いされていると感じていた。
宗玄の元には蒼井以外にも多くの裏社会の人間が居る。しかし、自分と桐士以外のものは皆この屋敷とは別の場所で生活している。
本邸の、それも他の奉公人のような長屋ではなく、離れに部屋を与えられているのは確かに特殊だった。まるで、何かから必死に蒼井を隠そうと、または何かから守ろうとするかのように、宗玄は蒼井を手元に置きたがった。
「この目の所為か」
そっと布越しに触れる。
自分が特別あつかいされるのはこの目の所為なのだ。決して蒼井自身が特別だからではない。
きっとこの目がなかったら、蒼井はあの日、宗玄によって殺されていたはずだ。なぜあの日、宗玄が自分を捜していたのか、蒼井は今だに知らない。知らない方がよいのだと蒼井は思っている。
「・・・隔離」
渡り廊下から母屋を見遣る。宗玄はこの目が外界に触れるのを避けるために蒼井を離れに隔離しているのかもしれない。
宗玄がなぜそのようなことをするのか、理由はきっとだれも知らない。ただ、そこには自分の触れてはいけない、ひどく危険な何かが潜んでいるようで、知ろうにも勇気など欠片も湧いてこなかった。
「何ごとも知らぬが仏」
それがこの世界で生きてきて学んだこと。
蒼井は全ての迷いや疑問を振り払うように、夜の闇へと歩き出した。
次話は五月一日投稿予定です。