二話 過去
乾いた手巾ですばやく髪を拭う。水の滴る襦袢を脱ぎ捨て、素早く新しい着物を身のまとい、羽織を肩に掛けた。
慣れた重みと肌触りに、ようやく冷えた心が解け始める。
「消えないんだよ・・・」
つぅっと指先が頬をなぞる。そこにはもう、あのぬるついた感触はない。
それでも、あの紅い色が残っているような気がして蒼井の足は自然と部屋の隅に置かれた鏡台へと向いていた。
「忘れてた」
よくよく考えてみると自分の目は今、布で覆われ視界が閉ざされている。目隠しをした生活に慣れ、付けていることすら忘れてしまうことがここ最近多かった。
蒼井が目隠しをしているのは盲目だからでも目の病を患っているからでもない。ただ、仕事の都合上人に目を見られるとやっかいなことになってしまうからだ。
周囲に人の気配がないことを確かめ、少し湿っている目隠しをはずした。
「大丈夫」
鏡の中の自分と目があった。そこには色白の青年が映っているだけだった。
「大丈夫。ちゃんと落ちてる」
鏡に映る顔に血の跡はなかった。蒼井はそのことにほっと胸をなで下ろした。
しかし、再び鏡を見たとき、そこにある自身の顔は悲しみや憎しみのような色に歪んでいた。蒼井の顔におかしな所は一つもない。一つも、おかしな所など無いのに。
「・・・異常だ」
蒼井はそっと鏡面に触れた。
指はついっと鏡面を滑る。体温を取りもどし始めていた指先が、また冷たくなった。指は鏡に映るある場所で止まった。
氷のように輝く鏡面に、一対の蒼の瞳があった。
「化け物」
ぽつりと、自らを蔑む言葉をはき出した。
蒼井には異国の血が流れている。
本来、この国には存在しないはずの血が蒼井の中には流れている。鎖国している現在の日本では、少なくとも蒼井の暮らす江戸の街では異人の姿を見ることはない。
当然、蒼井の異質な容貌は奇異と偏見の対象となった。
蒼井は時折思う。もし、自分がこのような姿でなかったらもっと違う人生だったのではないか、と。薄く透ける蒼の瞳。光に煌めく茶金の髪。日焼けを知らない白い肌。その全てがなかったら自分の人生はどうなっていたのだろうか。
8才で母親を亡くした。父親はそもそも顔すら知らない。
蒼井は孤児だった。母を亡くした子どもに優しく手をさしのべる者などおらず、周りとは違う蒼の瞳を畏れ、化け物と罵るだけだ。
一人で生きる術をまだ持たない8才の蒼井に世界はどこまでも厳しかった。
それでも蒼井は必死に生きようとした。毎日ごみを漁り、時には盗みもした。自分を化け物たらしめる瞳を布で隠し、目で見ずとも周囲を知覚する術を体得した。
盗んでは逃げ、隠れる。毎日毎日そうして食いつないだ。
やがて月日は経ち、蒼井は頭一つ分大きくなった。極度の栄養失調で骨と皮だけの身体。このころの蒼井には生というものに対して何の感情も持っていなかった。
「このお屋敷」
気付けば、この周辺で一番大きな武士の館の前に一人、立っていた。
武士に捕まれば殺される。今まで多くの仲間がそう忠告してきた。だから蒼井も武士の屋敷だけは絶対に近づこうとしなかった。
しかし、その日の蒼井は違った。
「ここが僕を殺してくれる場所?」
蒼井は死に場所を捜していた。自分では、どうやっても結局生きようとしてしまう。誰か、どこか、自分を殺してくれる場所はないのか。無意識の内に捜していた。
門の向こうでゆらりと灯りが揺れるのが見えた。まるで地獄の底へと誘おうとしているようだ。蒼井は、自分の背が震えたのを感じた。
首を一つだけ振り、蒼井は迷うことなく歩き出した。白い目隠し布をきゅっときつく縛り、視界を閉ざす。
もう、揺らめく灯りは見えなかった。
案の定、すぐに警備の者に見付かり捕らえられた。
両腕をねじり上げられ、激痛に顔を歪める。地面に押し倒され、動きの全てを封じられた。
「子ども、良い度胸だな。此処を誰の屋敷と心得るか!」
誰の屋敷。そんなことどうでもいい。自分の願いを叶えるものがそこにあるのなら、そこへ行くだけのことだ。
さあ、早く殺してくれ。蒼井がそう、思ったときのことだった。
「何事だ?」
男の声がした。家人たちの気配が固まり、その場の温度が急激に下がったような気がする。
「宗玄様・・・!盗人が一人、屋敷に紛れ込んでいましたので」
宗玄、それがこの屋敷の主の名のようだ。動きの鈍った頭でそんなことを考える。
「そうか。この屋敷に来たのが運の尽きだったな」
刀が鞘から抜かれる音がした。周囲の緊張が一気に高まる。ひやりとした刃が首元に添えられ、本能的な恐怖がわき上がる。
「子ども。死ぬのが恐いか」
「・・・恐くなど、ありません」
みっともない声だった。
「ここには、殺されに来ましたから」
蒼井の言葉に、不意に男の気配が揺らいだ気がした。
(笑っている?)
目隠しに阻まれ、その表情をうかがい知ることは出来ない。しかし、その気配に蒼井は気持ちの悪い何かを感じていた。
「良い返事だ。その願い、私が叶えてやろう」
首元の刀に力がこもるのが分かる。次の瞬間を、蒼井は覚悟した。
だが、終わりはそう簡単にはやってこない。
「最後に一つ、聞きたいことがある。お前くらいの年の頃の筈なのだが、青い目の男の子を知らぬか?」
青い目の子ども。その言葉に息をのむ。
「どうして・・・その子どもを捜しているのですか?」
「それはお前には関係のないこと・・・・・・いや、もしや」
刀が小さく揺れた。
「お前、何故目を隠している?」
蒼井はとっさに顔を背けようとした。しかし、それより早く宗玄の手は目隠しに伸びていた。
「その目・・・お前が例の」
「見るなっ!!」
叫びが言葉を切り裂く。
「お願いです。見ないでください」
見られた、きっとまた化け物だと思われた。せめて最後くらい人間として逝きたかったのに。
自由にならない両腕では瞳を隠すことも出来ない。硬く目を閉じ、必死に隠そうとした。
「・・・なんだ、ただの子どもか」
宗玄の声が耳に入る。てっきり化け物と罵られると思っていた蒼井は、拍子抜けした。
「目を開けろ。命令だ」
強い口調に、おそるおそる目を開いた。宗玄の漆黒の瞳と目があった。
「どんなに大口を叩いても所詮子どもか」
「化け物と思われないのですか?」
蒼の瞳が丸くなる。
「何が化け物だ。私はそういったものは信じん」
宗玄は蒼井をずっと苦しめていたその感情をたった一言で一蹴した。
「この世で一番恐いのは人間なんだよ。お前もよく分かっているだろう?」
偏見も侮蔑もすべて人間しか持たない感情。
「なあ子ども。お前を化け物たらしめるその偏見の根源を、悪を消したいとは思わないか?」
宗玄は蒼井から奪った布を握りしめ言った。
「私はお前が気に入った。お前を殺そうとしたのはお前が盗人だからではない。この屋敷には知られてはいけない機密が多くある。だがお前が、私に仕えると言うのならお前を殺す必要も無くなる」
だから選べと、宗玄は蒼井を見た。
「私はお前が気に入った。お前が望むなら、私がお前を人間にしてやろう」
「人間に?」
思ってもみなかった言葉だった。殺されに来たはずの場所で、まさかこんな言葉を言われるとは。
しかし、蒼井には選択肢はない。それ以前にすでに蒼井の心は決まっていた。
「・・・お願いします。僕を、人間にしてください。人間になりたいです・・・!」
この世に運命の出会いというものがあるのならば、きっと今がそうなのだろう。蒼井は可能性を信じ、宗玄の手を取った。
そのとき、遠くでまた灯籠が揺らめいた。
術ってルビふってないと「じゅつ」って読んでしまいますよね。
・・・私だけでしょうか?
余談はさておき、次話は三月一日更新予定です。よろしくお願いします。