椎名小鳥はうさぎを騙る
「先輩せんぱいセンパイ大変なんですよー。先輩が千杯に戦敗しちゃって千敗がどうのこうでっ!」
「……いつの間に俺はなんとか杯とやらに出場してて、でもそれは戦のように過激だけど千回負けても生きている不死身野郎めーみたいなことに?」
「あっ、ちなみに競技の内容はあんぱん早食いです」
「不死身関係ねぇな、おい!」
「先輩だけに戦犯。九条だけに苦情殺到。なんちゃってなんちゃって」
七月上旬。
ホームルームも終わり、校門を抜けて帰路に付いていると見知った声に構われる。
相手が誰であるかは間違えようもない。とてとてと駆け寄って隣へ立つ少女の顔を見ることもなく、九条は歩みを進めた。
思わず殴り飛ばしたい感情に襲われるがここは我慢する。
何より、いつもこんな会話を繰り返していれば免疫の一つや二つ付いてもいいはずだったが、一向に付く気配がない。会話が二転三転して気づけば百八十度回転しちゃいました! みたいなノリを繰り返している時点で免疫どころの話ではない気もするが、とにかくツッコミは疲れるのだ。
大阪のおばちゃんじゃあるまいし、いちいち反応していたら日が暮れてしまう。
「あれ、一蹴先輩どうかしました? うさぎって、構ってくれないと死んじゃうんですよ?」
どうやってあしらおうか考え込んでいると、今度は下から覗き込むようにして声を掛けられる。上目遣いで見つめる顔は皮肉にも整っていて、九条は一瞬どきりとした。
「まったくお前は」
――うさぎじゃなくて、とツッコミを入れようとして、止めておく。先ほどツッコミは疲れると自答したばかりだった。
「ったく、学年の違う先輩に構われるより、同級生と話したほうが楽しいんじゃないの。お前なら友達いっぱいいるだろ」
「いつも独りで帰ってる先輩に言われたくありません。こんな幼気な少女が同行してあげてるんです。感謝して欲しいくらいですねっ。もちろん、惚れてくれてもいいんですよ?」
「……つるぺた娘に興味ないんだ。悪いな」
「な、なななっ、セクハラですよ一蹴先輩。どこ見ているんですかっ。わたしだってあといち――に、いや三年。……十年もすればきっとナイスなバディに」
ない胸を抑えて、隣で嘆息を吐かれる。夢見る少女じゃ何とやら、とは何処かで聞いた言葉ではあったが、五年もすれば成長期は終わってしまっているに違いない。
「でも。でもですよっ」
落胆から一転、抗議の声があがる。
頭一個分低い位置から、先輩先輩と呼びかけてくる椎名小鳥はいつも通り、激しい喜怒哀楽ぶりを振る舞っていた。
高校一年にして一つ下の後輩。学校指定の夏服である白いセーラー服を着て、胸には緑の三角スカーフが巻かれている。右手に持つ竹刀袋から分かるように部活は剣道部に所属。
今年の新人戦では注目の的間違いなしとの噂だった。
今日のように部活が休みの日には家までの方角が同じであることを理由に、いつも後ろから追いかけてくる。
それこそ本当の小鳥のように時には喧しく、時には自由に動き回り、いつの間にか懐かれてしまった存在。
「わたしなら先輩を満足させる自信がありますよ」
両腕を背中に回して、にこっと笑顔を振舞うこいつは痴女か、自分をうさぎに例えるだけに欲情しているのかと九条はその顔を流し見た。
下から覗いて来るその容姿は柔らかな黒髪のショートボブに、黒目がちな大きな瞳は子犬のように人懐っこさを感じさせる。試合の時に魅せるその華奢な体とは対照的な、芯の入った声と一撃の重さから、一部の男子生徒にはちびっ子美少女剣士とかなんとかで大人気らしい。
よく一人で夜道を歩いていると、どこからか「俺の小鳥たんを返せーッ」と闇討ちされかけたこともあった。
しかし『たん』はないよなぁ、流石に。
ここの学校、上沼私立って確か進学校だったはずなんだけどな。
いや闇討ち相手全員が学校関係者とは限らないが、制服姿で現れた人もいるから一部には熱狂的なファンもいるのだろう。小鳥のどこがそんなに魅力的なのかは検討もつかないが。
「うさぎがどうの言ってたけど、うさぎはもっと凄いんだぞ? 妊娠中にも交尾が出来て、次の子を作れるらしくてだな」
「え? 何ですそれ? 告白ですか? やだー、もう先輩ったら。そういう気があるならさっさと言ってくれれば良かったのに。わたし、先輩ならいつでもおっけーですよ。ふふ、えへへ。ふふぐっ」
「なんだ、下関のとらふぐが食べたいだって? 小鳥の舌は肥えているんじゃないか。何なら腹の贅肉を取るジムも紹介してやるぞ?」
言ってはみたものの、小鳥の身体は健康体そのもので、程よく引き締まった筋肉に柔らかそうな素肌を兼ね備えていた。そもそも舌が肥えているからといって贅肉が付くわけではないが……。
いやんいやんと両頬に手を添え、くねくねとする小鳥を見て流石にこれ以上暴走させるのもどうかと思ったのだ。通学路なだけあって、人の目もたくさんある。
そのため九条は小鳥の小さな頭へと軽く手刀を加えた。軽い衝撃を与えてやると、小鳥はうー、と頭を抑えながら舌をちろりと出している。
「いたひ。もうっ、喋っている最中に先輩が頭叩くから舌噛んじゃったじゃないですか。これはもう核爆弾級の悪事ですね。償うためにも今日一日、犬のように付き合ってください。というわけで、これから駅前に行きましょう! さあワンと鳴け!」
「ニャンニャン言ってくるくらいなら、お前も可愛げがあるんだがな」
「あ、先輩猫派だったんですねっ」
「そういう意味じゃないから!」
どうあがいても切り返されてしまう状況に辟易とする。というか、小鳥は元気すぎる。このテンションに毎回付いていくだけも相応に疲れてしまう。
……バイトの時間までまだ余裕はあった。
仕方なく、どうしようかと小鳥が横を歩く中考える。そもそも小鳥に駅前へ行きましょうと言われれば、それ即ちアイスクリームやクレープなどのデザート食べ歩きツアーになるのは明白であり、対する九条はどちらかというと洋菓子よりも和菓子を好んでいた。適度に広がる甘みは好きではあるが、べっとりと広がる甘みは鬱陶しいだけで、美味しいとはあまり感じない。何より無駄遣い出来るお金もない。そんなわけで。
「今日もバイトがハイッテルからムリダナ」
「もの凄い棒読みじゃないですかっ!」
言い訳じみた言葉であしらおうとすると、鼓膜を大きく揺さぶられる。相変わらずうるさいなと片耳を覆ったその直後。
ピロローン、ピロローンと場違いで無機質な電子音が鳴り響いた。
誰が聞いても九条の右ポケットからだと分かる程に大音量で流れるそれは、通話ボタンを押さないと止まらないという謎仕様。ちなみに常時マナーモードでも鳴り響く。
購入した時は到って正常だったはずだが、あの人に一度渡しただけで摩訶不思議仕様になってしまった。
相手が常識を持って授業中に鳴らしてこないだけマシではあるが、九条にとって無視できないもの。
すでに慣れたのか小鳥も残念そうな顔を浮かべている。
残念がられようにも、こればかりは仕事だから仕方ない。
小鳥にちょっと待ってと仕草で伝えると、九条は通話ボタンを押してから携帯を耳元へ近づけた。
「――あ、あ、繋がっとるか? 九条、仕事が入ったでの、待っておる。以上じゃ」
「…………」
相変わらずというかなんというか、単語の羅列だけで終わってしまう電子機器を介したこの会話。
あの人、この手の機械使うの嫌いだからって、いくらなんでも淡白すぎやしないだろうか。
「と、まぁいつもように用事が入ってだな――って待て待てっ。その挙げた右腕はなんだ」
小鳥はいつの間にか背にかけた竹刀袋の締め紐をするりと解き、無言で竹刀を抜き取っていた。「小鳥は悲しいです」と前置きを置いて、
「先輩は私よりバイトを取るんですもんね。でもそこはまだ仕方ないです。小鳥が悲しいのは毎回毎回その変てこな着信音に加え、わたしが話しかけるタイミングに合わせて、仕込みまでさせて精神的ショックを倍増させようだなんてっ!」
「ちょ、ちょい待ち。仕込んでなんかいない。下校時間に合わせて風華さんがかけてくるだけで……だから竹刀を仕舞え。お前の腕前は全国クラスだろ? しかもただの竹刀で相手の防具にひび入れたっていう噂もあって、そんなもん生身の身体にぶちこんだらッ、って危ないだろばかっ」
小鳥の小さな身体が一歩を踏み込み、抜き放たれた竹刀はなにやらとんでもない風斬り音を立てていた。右方向から横切りに放たれる一撃を、九条自身でも驚くほどの反応で後方へと下がって何とか避けきる。
何しやがるッ……と続けて言おうとして、そんな状況ではないとすぐさま悟った。
「風華さん? 変わった名前ですね。ふふっ、女の人ですか? 誰です、その人」
慎ましかな胸と同じでその声は随分と平坦であったが、小鳥も変わった名前だから、と九条に冗談を言う余裕はない。
真っ白になりかけた思考の中で身体が危機感を覚え、反射的にその場から全速力で駆け出した。
身の危険を感じてつらつらと喋りかけてしまったが、やはりこうなってしまうのか。
小鳥の周囲からどす黒いオーラが渦巻いている。擬音で表すならば、ゴゴゴゴッとまるで火山の噴火直前のような様子だった。
一瞬見ただけだが、あれは本気で目が据わっている。
正直、付き合いきれない。やってられないわーと大声で叫びたい気持ちだった。
「先輩先輩せんぱーい。待ってくださいよー」
「だから目が据わってる。口調は変わってなくても目が据わってるんだってッ。小鳥はえ、笑顔のが可愛いぞ?」
小鳥の顔に本気で恐怖心を覚えながら、通学路を全力で疾走する。
ってか人生で初めてだわ、笑顔のが可愛いとか言ったの。これって口説き文句か? と今更になって後悔するが、口説くも何も小鳥の恋愛パラメーターはマックスに振り切ってそうだ。
対象が何故自分なのかは九条自身にも検討も付かない。まだ出会って半年しか経っておらず、遊びに行った記憶もないのに、どこでそんなフラグを立てたというのか。
走っていると同じように学生服に身を包んだ人達とか、やたらと身軽そうに見えるお婆さんからクスクスという笑い声が聞こえてくる。
そんな能天気な掛け合いを聞いて、九条は断固として言いたかった。
いやいや、そっちはお馴染みの光景を見て「椎名さんと九条くんって仲良いよねー」とか「リア充爆発しろッ」とか「小鳥ちゃんに竹刀で打たれたい。打って!」とか好き勝手言っているけどな、こっちは笑えない状況なんだよと。というか打たれたいとか叫んだの女子生徒じゃなかったか? ……いやきっと聞き間違いだろう。そうに違いない。進学校の定義がゲシュタルト崩壊しそうだ。
「可愛いだなんて先輩ったらもうっ。じゃあ、今なら抜き胴の練習するために案山子さんか木偶の坊さんになってくれれば許してあげます。出血大サービスです」
「鬼かこいつ。しかも内出血だよな、それッ、俺がッ!」
「そして一日中、誰にも邪魔されずに私が看病してあげるんですっ。えへへ、天使でしょ!」
そんな白衣の天使が居てたまるかッ。しかも目的としては練習云々よりも、絶対に後者の方が重要度が高いだろ、それ……これは絶対に捕まるわけにはいかない。弄ばれる光景が目に浮かぶ。本当にこいつは――。
「鏡見て言え、ばかッ!」
「ばかって言う方がばかなんですよ! それにしても先輩と添い寝かぁ、きゃっ」
子供かッ、と言いたかったが、後半部分の言葉を聞いて思わず身の毛立ってしまう。何より息があがってそれどころではない。頬を流れる風は生温く、セミの鳴く声は余計に暑さを倍増させた。
いやいや、何故真夏の炎天下にある状況で走らねばならんのだ。小鳥はやっぱり頭がおかしい。
走る方向とは逆方向へと移り変わる景色の中、九条は大通りや裏路地を駆使して逃げることに専念する。バイト先まで後を付けられて、無駄な追求を受けることは断固として拒みたかった。幸いというべきか男女の身体性能差と歩幅の関係で、運動部ではない九条でも逃げ切ることは出来ないにしろ、追いつかれるという事態にはなりそうにもない。
「だあああっ、俺も空飛びてぇなぁ。こんちくしょう」
それでも一向に広がらない距離に心臓をバクバクとさせながら、視界の端で浮遊するOL姿の女性を捉えて、九条は悪態を付いてしまう。
羨ましいったらありゃしない。あんな風に建物の障害に有無を言わせず、前進できればどれだけ楽だろう。
気がつけば随分と走り込んでいた。商店街の大通りから裏路地、人ごみ、利用できるもの全てを使って引き離そうと努力する。
やがて薄暗く微量の光しか通さない路地裏で、九条は無造作に置かれたゴミ箱に足を引っ掛けた。
「あぶなっ」
前のめりに体勢を崩しながらも強引に、側壁へと向けて蹴り飛ばす。右腕を地表へと突いて、なんとか転倒を免れる。
ガコンガコンと音を立てながら、中身をぶちまけているであろうゴミ箱に小鳥の足が竦んだのか、
「せんぱーい。もうっ」
呼びかけるその言葉を最後に小鳥の声は聞こえなくなっていた。それでも念のため、残りも全速力で駆けていく。
結局、小鳥を振り切る頃には特徴のある白壁が見えてしまう。
バイト先の小さな喫茶店、リコリスに辿り着いてしまった。
「マジ、しんどい……」
電車を使わずに二駅分、ずっと走っていたのだから休憩時間などあるはずがない。九条がバイトへ行くまでのちょっとした時間は、こうして潰されてしまった。