第8話 何も始まらないはじまり
西の空を見上げていた僕は気付いてしまった。
「やれやれ。早くないか」
誰も巻き込まないように、僕はゆっくりと手を上げた。
震えた携帯電話をカバンの中から取り出して、あたしは自分の目を疑った。
けれど、そこに表示されているのは紛れも無い事実。
「冗談じゃないわね、まったく」
ため息をついたあたしに取れる選択肢は、下りたばかりの階段を駆け戻ることだけだった。
階段を駆け上がる少女を見下ろしていた俺は、
「時が来たな」
と、タバコの火をもみ消した。
信号が点滅して、私は足を止めた。
「一人……いや、二人か」
不規則な足音に耳を澄ませ、私はスイッチを押した。
どうしようもなくなった盤面に、青年の手が止まる。
「ここまでですかね」
盤面から視線を上げた青年が虚空を見つめた。
「ここからですよ」
そう言って、店員はお茶を置いた。
雑踏を見下ろしていたOLは、
「ここまで来るなんて、ね」
と、開いた扉からエレーベーターの外へ歩き出した。
それを見ていたメッセンジャーが、もう一度、帽子を深くかぶりなおした。
困っている人を助けたい。
「こんな姿になっても、それだけは変わらない」
一人の中年が、重い腰を上げた。
乳母車を押しながら、主婦が空を見上げる。
「こんなにいい天気なのに」
乳母車の中の赤ん坊が、無邪気な笑い声を上げた。
混雑する改札口を眺めていた彼が、
「どう思う」
と、尋ねてきた。
「どうもしないわ。ただ、流れていくだけよ」
そう返してくれた彼女の手は、言葉とは裏腹に硬く握り締められていた。
「……これは」
何かの物語が始まりそうで、まったく始まらない物語。
つながりがありそうで、微妙につながらない登場人物たち。
どこかで見たことがありそうで、やっぱりなさそうな台詞と描写。
「しかも、わざと書いてないだろ。これ」
俺がそう本を閉じると、読み終わるのを待っていたおばあちゃんは笑った。
「世界が修正してくれるのよ」
「ここまで書いておいて、その後の展開は世界の修正力頼みかよ」
「世界が修正する力を持つというのなら、広げすぎた風呂敷をどのようにたたんでいくのか。興味しかわいてこないじゃない」
「それにしたって、反則技過ぎるだろ」
風呂敷が千切れちゃったら、その切れ端に乗っかってたキャラクターはどうなるんだよ。
「世界があればキャラクターがいて、キャラクターがいれば世界が生み出される。そして、一度始まった物語は、決して終わりを迎えない」
「キャラクターが生きている限り、物語は続く。小説はただ、その一部を切り取っただけに過ぎない」
「いいえ。世界がある限り物語は続く。一人の命が途切れても、すべての命が途切れたわけではないのだから」
それがおばあちゃんの答えらしい。
「私の命はもうすぐ終わるわ」
唐突におばあちゃんはそう言った。
自分の終わりを感じたからこそ、今になって、自分のいる世界に俺を呼び込んだとでもいうのだろうか。
「私はね、少しでも多くの物語を読みたいの。もうそれほど多くの物語を読むことはできないでしょうね」
「だから……はじまりを書いた」
「そう。世界が物語を修正するというのなら、先の見えない物語さえも完結させてくれるはずよ」
「何も始まらない、ただの日常として処理するかもしれないだろ」
「それならそれでかまわないの」
「そんな日常を読んで楽しいの」
「そうよ。日常ほど、退屈で素晴らしいものは無いのよ」
戦争という非日常に、おばあちゃんは生きていた。
そのおばあちゃんが最後に求めるのは、退屈という名の平和なのか。
平和な時代を生きている俺には理解できそうもない。
小説は楽しく非日常であるべきで、平凡で退屈な日常はつまらない。
「世界が日常を続けるというのなら、私にはその日常を非日常に書き換える能力があるわ」
「世界の修正力に挑戦する気なの」
「素晴らしい力を持った書き手とのリレー小説。心が躍ると思わないかしら」
何が『もうそれほどの物語は読めない』だよ。
この人はまだまだ死ぬ気は無い。
それどころか、全力で書き続けるつもりだ。
「だからこそ、終わりの無い物語なのよ」
そう言って、おばあちゃんは俺が閉じた本を取り上げた。
「俺をここに呼んだ理由は」
好き勝手なおばあちゃんだ。
きっと、俺を呼んだ理由があるはずだ。
「貴方に世界のつながりを知ってもらいたかったのよ」