第1話 数字がおかしい
「変な夢を見るわけだ」
身体に巻きつくようにしてはりついているタオルケットを引き剥がして、俺はベッドサイドに置いていたペットボトルに手を伸ばした。
キャップをひねって中身を飲み干すと、ようやく周囲の音が知覚できるようになってくる。
「寝汗がひどいな」
随分と喉が渇いていたらしい。
飲んだばかりの水分をすべて吐き出すかのように、首筋や額から汗が噴き出してくる。
「梅雨明けじゃないのかよ」
じっとりとした部屋の空気を振り払うために窓を開けると、逆にむわっとした熱気が押し寄せてきて、俺はあわてて窓を閉めた。
一軒家の二階の一番西側の部屋を個人の部屋として割り当てられているせいか、冬場は寒く、夏場はひたすらに暑いのが俺の部屋だ。
「寝直すにも暑過ぎるな」
壁掛け時計で時間を確認して、ベッドのスプリングで反動をつけて起き上がる。
目指すはクーラーのついている両親の寝室か、その手前にある妹の部屋か。
「おーい」
妹の部屋からもれてきていた音楽に気付いた俺は、妹の部屋の扉をノックした。
「何、お兄ちゃん」
まだ髪をまとめていない妹が顔を出し、俺は寝汗の浮かぶ額をぬぐう。
あぁ、妹の部屋から流れてくる冷気が涼しいなぁ。
「もう七時だぞ」
「今から着替えるところ」
「朝飯は」
「もう食べた」
「あ、そう」
つい数日前、大学生の俺と高校生の妹を置いて、母親は単身赴任中の父親のところへと旅立っていった。
妹のテスト期間も終わり、俺も大学が夏期休暇に入ったことで、母親が家にいる必要もないだろうってことらしい。
ただ、妹の方はまだ終業式が終わってないんだけどな。
「お兄ちゃん、今日の晩御飯は」
「俺、まだ朝食も食ってないんだけど」
「あたしは食べ終わったもん」
「昨日、何だっけ」
「昨日は焼き魚。だから、今日はお肉で」
「ハンバーグでいいか」
「ご飯、炊いておいてよね」
「あぁ」
それきり、目の前で扉が閉められてしまう。
あぁ、さようなら、冷気よ。
「さて、朝飯にするか」
妹の言い方からすると、もう炊飯器の中身はないな。
まぁ、朝食はシリアル派なんだけど。
階段を下りてダイニングに入ると、予想していた通り、流しの中には水につけられた炊飯器の釜と、冷凍していたカレーのタッパがあった。
「お兄ちゃん、それ、洗っといて」
制服に着替えた妹が、ダイニングを通過しつつ命令してくる。
お前、朝一からカレーを食ったのか。
「なぁ、冷凍のカレーは使い切ったのか」
「小さいタッパ、あと二つはあったよ」
「なら、晩飯もカレーで」
「手抜きすんなよ、暇人」
「今日はバイトがあるんだよ」
「いってきまーす」
俺の言い分は無視され、妹は軽やかな足取りで玄関の外へと消えていった。
バイト自体は忙しいもんじゃないが、夕食にハンバーグを作るとなると時間が心許ない。
ハンバーグは美味しいんだけど、作るのには手間と暇と愛情がいるんだよ。
「やれやれ。無駄な能力の使い方だよなぁ」
そう呟いて、俺はその場で身体をほぐし始める。
身体が固いままだと、ありえない怪我にもつながるしな。
「実家のおばあちゃんがハンバーグを持ってくる確率はゼロじゃない」
他人には言えない秘密が、俺の一族にはある。
母方の家系に代々受け継がれている能力。それは、物事の発生確率をいじることができる能力だ。
全ての事象には因果律があるように、全ての事象には発生確率が存在する。
例えば、人が50年間で交通事故に遭う確率は約34%で、癌で死ぬ確率は50%にもなる。逆にスキー場で怪我をする確率は2000分の1程度で、これは血液型がAB型でRH-型の人の存在確率とほぼ同じ程度でしかない。
この確率を数値として認識して、その数値をいじることができる能力……というのが、おじいちゃんから受け継いだ能力の説明だ。
昔、おじいちゃんと病院の自販機のジュースを買いに行くと必ず当たることを不思議に思っていた時に、おじいちゃんが秘密だと言いながら教えてくれたのだ。
その当時はよくあるおとぎ話だと思っていたが、実際に確率を数値化したものが認識できるようになると、世の中にはファンタジーな能力もあるのだと思ったものだ。
俺にとって幸運だったのは、おじいちゃんの使っていた能力の発動方法と、俺が能力を使うために必要な方法が似通っていたところにある。
「ま、気休め程度だよなぁ、実際は」
確率を数値化して認識できるようになったはいいものの、その数値をいじるにはそれなりの代償というか、副作用が存在する。
そのことがわかったとき、意外とこの能力の使い道が限定されることが理解できた。
単純な運の貯金というわけでもなく、二者択一で可能性を操作できるわけでもない。ただ単純に、神頼みが効きやすくなるといったところか。それも、何が起こるかわからない副作用つきで。
それを理解して以降、俺は能力を使うときもほんの少しだけ確率をいじる程度にとどめ、副作用の大きさがハプニングとして受け止められる程度になるようにしていた。
「さて、どうなるかな」
今回はおばあちゃんがハンバーグを持ってきてくれるという確率をほんの少し高めたのだが、これは元々80%近くあったものを、85%ほどにしただけだ。
経験上、この程度ではタンスの角に小指をぶつけるよりも影響は少ないはずだ。
「洗いもんはしないとなぁ」
どうして元々がそんなに高いのかって。
それは、昨日、おばあちゃんとスーパーで偶然会った時に大量にひき肉を買っているのを見て、ハンバーグは手間がかかるからしばらく食べてないなぁなどというわざとらしい台詞を、孫である俺がしたからなのさ。