第7話 雪女
「おや」
車輪がレールを走る音。教卓側の扉に視線を向ける。
「どうも。如月さん、桐島さん」
凍空真白が、そこにいた。
常と変わらぬ無表情で、気軽に挨拶でもするかのように片手を掲げて、凍空真白がそこにいた。
「あら、凍空さん。どうかした?」
動揺に漂白された俺を差し置いて、紫もまた常と変わらぬ笑みを浮かべてそれに応じた。その声にも表情にも、少しの動揺も表れてはいない。
それは咄嗟に被った仮面のようなものなのか、それとも。
「いえ、少し所用があったので。お二人はここで何を?」
「親友という名の垣根を超えた大事な話をしていたのよ」
意味がわからなかったが、凍空にはどうやらそれで通じたらしく、ふむ、と頷いて、
「そうですか。それはお邪魔をしてしまいましたかね……おや」
桐島さん、と呼びかける。
何かに気付いたかのような凍空の表情。
「何かしら?」
「いえ、大したことじゃないんですけどね。……その机、どうしたんですか?」
空気すらもが凍りついたかのような強烈な錯覚。
あまりの緊張感に息を呑む。
一般人がこれを見たら、果たしてどういう反応をするのだろう。
そんなことを考える俺はやっぱりこの場においては蚊帳の外の存在でしかなく、成し遂げた当の本人である紫は平然と応じていた。
「どうしたと思う?」
「そうですね……貧相な発想しか出来なくて申し訳ありませんが。たとえば、机を水につけたあとで極大の冷凍庫にでも入れて凍らせる実験でもしてたとか。たとえば、その空間だけ北極並の寒気に覆われていて季節外れどころか次元外れの異常事態が起こったとか」
たとえば。凍空の瞳が紫を見据える。
「里から降りてきた雪女がこの場に現れた──とか」
射抜かんばかりの真摯な瞳が、確信をもって紫に向けられていた。
「面白いことを言うのね、凍空さん」
息を呑む俺の隣で、けれど紫は動じない。
「その中で現実的なのは一つ目かしら? けどそれは」
「貴方、まだ彼に語っていないことがありますよね」
遮るように放たれた言葉に、微かに紫の気配が揺れる。
「雪女は生涯に一人だけ、パートナー、つまり伴侶となるべき相手を選ぶ。そうですね、確かにそれは間違ってはいません。けれどその話には続きがありますよね。雪女と結ばれた人間は外界との一切の関わりを絶ち、一生を雪女の里で過ごすという続きが」
「え──」
愕然とする。脳のあちこちから飛び出た疑念が、ありとあらゆる場所に飛び散ってぐるぐると廻っている。その一方、片隅の壁に張り付いて奇妙に納得している冷静な思考がある。
考えてみれば当然だ。彼女の家は秘密厳守、秘密をばらすことは許されないと言った。
なら、その家に入った場合、どうなるのか。
凍空の言葉は、その答えとしてとてもしっくりとくるものだった。更には紫の反論がないことが、その思いに拍車をかけていた。
「まだあります。雪女が秘密を打ち明けた時、もし相手の答えがそれを受け入れないものだった場合、雪女はその相手を殺すことによって口を封じます。それに例外はなく、また相手側がその秘密を他者に漏らした場合も同様に処します。ここでお尋ねしますが、如月さん、貴方はこれらの事実を彼女から少しでも耳にしましたか?」
咄嗟に首を横に振りかけたのを、押し止めた。
何故かはわからない。けれどそれを認めてはいけないと、衝動的にそう感じたのだ。
けれど。それに即座に答えられない以上、それは肯定したのと何も変わらない。
「……へぇ。随分と詳しいのね、凍空さん」
すっと、紫の声が低くなった。
紡がれる声には明らかな敵意が満ちている。
「身内にも厳しい筈のそれを知ってるっていうことは、まさかとは思うけど、貴方も私と同じなのかしら?」
「そうですね……少しだけ違う、と言っておきましょうか」
「少しだけ?」
「ええ。何故なら私は、〝鬼子〟ですから」
呟かれたそれは、あまりにも異質な響きで。
紫ですら訝しげに眉をひそめているその言葉を、俺が知るわけもなかった。
「……そう。まぁ、それはどうでもいいわ。それで、貴方は何をしにここへ来たのかしら? さっきも言った通り、私は夏樹に告白したの。今、その返事を聞こうとしていたところなのだけれど、もしかして邪魔をしに来たの? 先を越されたからって、それは無粋というものではないかしら?」
最後に口にした言葉に、不覚にも心臓が強く跳ねた。
まさか、そんなこと。
「いえ、それはありえませんから」
ですよねー。
内心で僅かに落胆する俺を余所に、紫は肩をすくめてみせる。
「素直じゃないのって可愛いけれど、考えものね。……それじゃあ、夏樹のことなんて何とも思っていない凍空さんは、何をしにここへ来たのかしら?」
尋ねかけた紫に、凍空はふむ、としばし考えて、
「そうですね……悪役をしに、とでも言いましょうか」
「悪役?」
「ええ。悪役を、です」
その言葉に、何を感じたのか。
視界の端に走る腕。
瞬速でもって伸ばされた紫の腕は真っ直ぐに凍空を指し示す。
それが凍空に害を与えるものだと気付いて、けれどそう気付いて止めようとした時には何もかもが遅すぎて。
「え……!?」
それを漏らしたのは誰なのかと一瞬考えてしまうほどに、驚愕に支配された紫の声。いつもの平静とかけ離れた愕然とした面持ちで喋るその姿が、彼女が如何に動揺しているのかを何よりも雄弁に語っていた。
「何故……? 何故貴方は凍らないの……!?」
「簡単です。貴方が私を凍らせるよりも早く、私がそれを凍らせているからですよ」
淡々と告げられた凍空の声。
二の句が継げずにいる紫に、相対するように凍空もまたゆるりと右手を伸ばす。
そうして、それは起こった。
「紫?」
──その変化を、何と形容したものか。
凍空に右手を向けられた瞬間、紫はぴくりとも動かなくなった。
震えるように揺らいでいた右手が、言葉を紡いでいた唇が、動揺に弾む胸が、風になびいていた髪でさえもが一切の動きを止めていた。
「紫、おい!」
慌てて紫の肩に手を置いて揺さぶった。
手の動きに応じてぐらぐらと揺れるそれは、まるで等身大の人形のように頼りない。生きているという感覚が感じられないその動きに、急速に血の気が引いていくのを感じた。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
傍らから聞こえた声に心臓が跳ねる。
視線を下げると、いつの間にか小柄な少女が俺のすぐ隣に立っていた。
「私の力は、概念的な〝凍結〟──彼女のような純粋な雪女とは違い、概念そのものを〝凍結〟させるものです。それは私が〝鬼子〟と呼ばれる所以でもあるのですが、まぁそれはさておき、今回は彼女の身体的な時の流れを〝凍結〟させて頂きました。勿論永遠のものではないので、すぐに溶けちゃいますけどね。それに代償が大きいので、あまり長時間はもたせられません」
「お前は……何だ? 何で、こんなことを?」
様々な感情が胸の内で渦を巻いている。
不安、驚愕、恐怖、疑念、畏怖、悲哀、嘆き、そして怒り。
凍空のことは友達だと思っているし、好意的に思ってもいる。けれどそれと同じくらい、否、付き合ってきた年月を考えればそれ以上に紫は大事な存在でもあるのだ。
そんな大切な親友に手を出されたとあっては、幾ら凍空といえども黙ってはいられない。
それ以前の状況がどんなものであったとしても、だ。
真っ直ぐに凍空を見据える。
凍空はしばしじっとその視線を受けていたが、やがてその強さに耐えられなくなったのか、辛そうに眉を歪めて俯いてしまった。
「……これは、私の、エゴです」
「エゴ?」
「ええ。私の身勝手な、理想の押し付けです。……貴方と触れ合って、貴方のことを友達だと。そんな風に自惚れてしまった私の、あまりにも勝手な行動です」
その一言一言が、自身を貫く刃となって返っているのか。
口にするたびに顔を歪めていく凍空に、いつしか俺は怒りの感情を忘れていた。
「如月さん。以前、貴方は私のことを羨ましいと、そう仰いましたね」
公園で俺が思わず呟いてしまった言葉。あの時は確か聞こえない振りをしていたように思ったが、どうやらしっかりと耳に届いていたようだった。
「それは私も同じです。私は、貴方が羨ましい」
「え……?」
「私は彼女と同じ、雪女です。彼女と血が繋がっているわけではありませんが、雪女とは須らく秘密を守る者だと、そう教わってきました。恐らくは彼女も同様の教えを受けたのでしょう。だからこそ、彼女は秘密が漏れるのを恐れて、必要最低限の付き合いしか持たなかった。そして私も、そのようにしか生きられなかった」
「でも、お前は違うじゃないか」
そう口にした俺に、しかし凍空は首をゆるゆると横に振る。
「私はただ、周囲に溶け込んでいただけです。付き合っていた人の中で心を開くことの出来た人は、誰一人としていませんでした。当然ですよね。明かすことの出来ない秘密を抱えている以上、どうしても彼らとの間に一線というものが引かれてしまいますから」
「……誰だって、言えない秘密の一つや二つ、あるだろ? そんなことで」
「そう。だから貴方が抱えている秘密も、そんなことに過ぎないのです」
それはまるで、その発言こそを待っていたとでも言わんばかりに。
断固とした口調でもって、凍空は俺にそう言った。
「貴方の秘密は、決して万人に受け入れられないものではない。人というものは多種多様です。人種や思想といった違いがあるように、貴方の〝予言〟に対しても同様の反応を示すようなことはありえません。本当に受け入れられないものであるのなら、そもそも例外などというものが出来うる筈がないのです」
一息。
「ぶっちゃけて言いましょう。私には貴方が、それらの起こりうる可能性から逃げているようにしか見えません」
「知った風な口をきくな。お前が俺の何を知ってるって言うんだ」
我知らず、声が荒いものになる。
胸に突き刺さった凍空の言葉が、どうしようもなく痛くて、痛くて。
それを誤魔化すように、その捌け口を求めるかのように。
「……そうですね。私には貴方がどんな辛い思いをしてきたのか、想像もつきません。だからこれは、きっと逆恨みなのでしょう。私にはないものを、貴方が持っている。けれど貴方は、それを活かそうともせずに腐らせている。私には、それが妬ましい。だからこそ、私は悪役になると決めたのです」
すっと凍空の右手が、俺の顔を指し示すようにかざされる。
それから逃げようとは思わない。むしろ挑むような気持ちでそれを見据える。
「一応聞いておこうか。何をするつもりだ?」
「貴方の記憶を消させていただきます。正確には、今ここで聞いた雪女という存在の情報。それから、私についての記憶の〝凍結〟ですけど」
その言葉に、一瞬何もかもを忘れて真っ白になった。
「ちょっと待て。どうしてお前の記憶まで消すんだ」
「おや。貴方は私を忘れたくはないのですか?」
にやりと、薄い唇が意地悪げに弧を描く。
「簡単な話です。恐らく紫さんが貴方に告白するに至ったのは、貴方が紫さん以外に友達を作ったからでしょう。それによって、紫さんは貴方と過ごす時間が減ると、または貴方を誰かに取られてしまうと、そう感じた。だから私という存在がいなくなれば万事解決と、そういうわけですよ」
「ば──馬鹿、どうしてそんな極端な方法しか取れないんだお前は!」
「おお、急に慌て始めましたね如月さん。これはアレですか、私にも貴方を取るチャンスはあると、そういうわけですか?」
「そうじゃない! そうじゃなくて──」
続けようとした言葉を遮るように、硝子に罅が入ったかのような澄んだ音が、脳の奥の部分から聞こえた気がした。
それに伴い、意識が霞みがかったようにぼんやりと白く染まっていく。
何を考えていたのか、思い出せない。
何をしていたのか、わからない。
「──ありがとうございます。その反応が見られただけで、十分です。それにその言葉は、悪役にかけるには相応しくありません。正義の味方は正義の味方らしく、怨み事を囁いて倒れて頂かないと」
声が聞こえる。凍空の寂しそうな、親とはぐれた子供のようなその声が、どうしようもなく切なく感じられて。
だから俺は言ってやった。
正義の味方というよりは、悪役が言うべきことのような気もするけれど、それでも構わずにお決まりの言葉を吐き捨てた。
──この怨みは忘れない。覚えていろよ、と。
脳にその言葉を深く深く刻みつけた瞬間、雪のような真っ白な輝きが視界を白く染め上げた。
サブタイトル悩みますねー。
初めて読む人はこれでバレてしまうんじゃないだろうか、と思いつつもこれ以上しっくりくるのがないのも事実なので。
凍空の能力は要するに何でも凍らせられる、ということで。
時の流れだろうが表現的な意味合いだろうがお構いなし。
ただし本人も語っている通り代償が大きいのであまり長くは持たせられません。
凍空が雪女の話を切り出す辺りは密かに気にいってます。
こういう緩急をきかせたやり取りが好きですねぇ。