第3話 予言
その日の夜はどうにも落ち着かなかった。
何かをはき違えているような座りの悪さ。あるいは大事なことを忘れているような、とにかく言葉に出来ない不思議な感覚が腹の内に蹲っているようだった。かといって頭の中の記憶やスケジュールを引っ張り出しても思い当たる原因はない。
理由はわからないのに、何かに急かされているような気がする。それがたまらなく不快だった。
俺がこんな時間にコンビニの傍に乗ってきた自転車を止めているのは、そういう理由からだった。有体に言えば気分転換である。
とはいえひんやりとした夜風を切って走ってきたことでたとえようのない衝動は去り、すでに目的は達成されたも同然なのだが、ここまで来たのに何もしないで帰るのもどうかということで夜食でも買って帰ることにした。
妙に人気の少ない駐車場を横目に見ながら自動ドアをくぐる。
「いらっしゃいませー」
やる気のなさそうな店員の声を聞き流しつつ、店内を物色する。
寒いくらいにクーラーの効いた室内を巡りながら適当にペットボトルのジュースと菓子パン、週刊誌の最新号を取ってレジに向かった。
「あれ」
そこでようやく、俺は先程の声の主に気付いた。
「どうも、如月さん」
レジを挟んで向こう側に立つ、黒い髪をなびかせた小柄な少女。
凍空と書かれた名札を胸につけた制服を着たその少女は、旧知の友人に対してするように軽く片手を上げていた。その挨拶は通常笑顔でするものだと思うのだが、凍空は少しも頬を緩めることなくどこかぼうっとしているような表情でこちらに視線を向けていた。
「何してるんだお前、こんなところで」
「バイトですが、見てわかりませんか?」
「いや、それはわかるけども」
何と言うか、意外なところで意外な人物に会ったものだ。
「へぇ……お前、こんなところでバイトしてたのか」
ちなみに、うちの学園はバイトに関しての規則は緩い。だからこいつがここにいても別に不思議ではない。微妙に違和感はあるけれど。
「まぁ、学園の寮から近いですしね、ここ。それに色々と都合が良かったので」
「都合?」
首を傾げると、凍空はええ、と小さく頷き、
「お恥ずかしい話ですが、暑いのが苦手なんですよ、私」
「そうなのか?」
そうなんです、と頷く凍空。
しかし、それがここを選んだ理由にどう関係があるのだろう。そう尋ねると、凍空は何やら気だるそうにため息を吐き出して肩を落とした。
「え、何? 何か俺気に障ること言った?」
「いえ、お気になさらずに。ただちょっと憂鬱な気分になってしまっただけなので」
「憂鬱?」
「……夏が、来るじゃないですか、これから」
普段の様子からは想像も出来ない声で、凍空はとても憎々しげにそう呟いた。それには何と言うか、親の仇との因縁を誰かに語って聞かせる時のような、そんな異様な迫力があった。あるどころじゃなく、満ち満ちていた。
「この世に生まれ落ちてかれこれ十数年の年月が経ちましたがこの国のこの季節だけは未だに慣れることが出来ません。肌に張り付くじめっとした空気や蒸し風呂に浸かっているような熱気、更には遠くからけたたましく鳴り響く蝉の声とまぁ色々と素敵な季節じゃないですか? そんな暑苦しくてとっても素敵な夏が今年もわざわざご丁寧にいらっしゃるとなれば私としても色々と複雑なわけですよ。だって暑いじゃないですか暑いじゃないですかとにかく暑いじゃないですか? いえ暑いだけならまだいいんですが何で蒸し暑いんですかこの国は常時天然サウナとか喧嘩売ってんのかこの野郎。外に出るとむわっとするわ日差しはきついわ汗は噴き出るわ髪が肌に張り付くわ服は汗臭くなるわ蝉は五月蠅いわ羽虫は湧くわでもう道行く人々を片っ端から殴りたい気分にってどうかしましたか如月さん?」
「何でもない。ちょっと俺の中でとある人物に対する劇的なイメージ革命が行われただけだ」
音を立てて崩れていくそれに少しだけ切なさを感じてしまった。
「まぁそんなわけで、夏が来たら私は多分引き籠もりますよ。すでにそんな片鱗も出始めてますしね。部屋のクーラーを一日中つけっ放しにしておくとか」
「とりあえず身体に悪そうだな、とお前の身を案じておこう。つか光熱費がやばそうだなそれ」
「そんなわけで、ここにこうしているわけですよ。仕送りも無いではないんですが、大半は光熱費で消えていきます。ですから家計が苦しくて苦しくて」
「泣き崩れる真似してるとこ悪いけど、どう考えても自業自得だから」
凍空の辞書に『節約』の二文字はないのだろうか。
「で、結局何でここでバイトしてるんだ? ……まぁ、大方の予想はつくけども」
先程の凍空の豹変ぶりを鑑みれば、まぁ想像に難くない。
「多分、如月さんの想像通りですよ」
「あれだけ怨めしげに語られれば嫌でもわかるさ」
「えぇ。夏の炎天下の中を出歩く必要がない夕方以降に働けて、出来るだけ外を出歩く時間が短くて済む近い距離にあって、その働く場所でもクーラーがガンガン効いていて、更には出来るだけ楽な仕事であること。流石ですね如月さん、その通りです」
「すまん。褒められてるとこ悪いんだが俺はその内の二つくらい外したぞ」
凍空は真剣に働いている人達に対して土下座して謝罪するべきだと思う。
「ともあれ、そんな条件を満たしてくれるのはまぁ、ここしかなかったわけですよ」
「何かお前が言うと貶しているみたいに聞こえるんだが」
「気のせいです。ところで、如月さんこそこんな時間にどうしたんですか?」
小首を傾げてそう問いかけてくる凍空。
「気分転換だよ。あと、小腹が空いたんで夜食を買いにな」
「それでこのラインナップですか。私見ですが、この食い合わせは実際どうですか?」
「いや、どう、と言われても」
「メロンパンとカレーパン。それに紅茶ときて週刊誌。ふむ、雑食なのですね如月さんは」
「お前が何を思ってそう言ったのかは知らんが、とりあえず今挙げたラインナップの中に人類の食物としておかしなものがあることに気付こうぜ」
ため息を一つ吐く。
「さっさと会計してくれ。こんなに長いこと店員が喋っていると──」
ぴたりと。それまで流暢に紡がれていた言葉が止められた。
同時に、立ちながらにして金縛りにあってしまったかのように指先一つ自由に動かすことが出来なくなった。
「? 如月さん?」
訝しむような凍空の声。
しまった。そう思った時にはもう何もかもが手遅れだった。
『──凍空真白は銀色の災厄に見舞われる』
唇が動き、声帯が俺の意志を無視して声を発する。
その言葉は低く、静かに、厳かに告げられた。紡がれた言葉は奇妙な余韻を伴って水面に波紋を伝えるように大気を震わせて消えていく。
その瞬間、身体が脳の支配を受け付ける。全身に力が行き渡るようになり、身体を動かすことが出来るようになる。
それはまるで、誰かに身体を乗っ取られたかのように。
腹の奥に潜む何かが口にした言葉が俺の口を衝いて飛び出したかのような、俺の意志を無視した言葉はけれど確かに、凍空に向かって放たれていた。
咄嗟に右手で口元を覆った。
今更押さえたところでどうにかなるわけがないとわかっていても、それでも押さえずにはいられなかった。顔が青ざめていくのがわかる。全身からどっと冷や汗が吹き出るのがわかる。
「如月さん、今のは──」
強張った表情が目の前にある。目を見開き、薄い桜色の唇を半開きにして、呆然とこちらを見つめる顔がある。
初めて見せた表情の変化。それがこんな形で起こってしまったことが無性に悲しかった。
今この時、俺は凍空に何と言えば良いのだろうか。
謝ればいいのだろうか。それとも冗談だと、無理矢理な軽い調子で彼女に笑いかければいいのだろうか?
そんな馬鹿げたことすら脳裏をかすめてしまうほどに、今の俺は打ちのめされていたのだろう。
真っ白になった頭のまま、何と言ったものかと馬鹿みたいに口を小さく開閉していると、凍空の顔からゆっくりと、驚愕の色が抜け落ちていく。代わりに浮かんだのは眉をひそめた、こちらを訝るような考察の表情。
「……災厄、と仰ってましたね、先程。私に何かが起こると、そういうことでしょうか」
唇に指を当て、何かを考え込むように視線を外す。
微かに細められた目からは凍空が何を考えているかは窺い知れない。怒りを感じているのかもしれないし、俺の正気を疑っているのかもしれない。
それは悲しいことではあるが仕方のないことだ。あんなことを言われたら俺だってきっとそう思うだろう。だから誤解を解く必要は今はない。
そうだ。今この状況で、何よりも優先しなければならないこと。それはこのままだと凍空が危険だというこの事実だけだ。
「凍空。しばらく、俺をここに居させてくれないか」
「随分と唐突な申し出ですね。しばらく、とはどのくらいの時間でしょうか?」
「お前がバイトを終えるまで。出来れば、お前が寮に着くまで傍に居させてほしい」
「それは婉曲的で控えめな告白と取って宜しいのでしょうか。ですが私は生憎と」
「凍空」
名前を呼ぶと、凍空が唇を引き結んだ。
こちらの真剣さが伝わったのか、真面目な表情をしてじっと俺を見つめ返してくる。
「……頼む。傍に、居させてくれ」
凍空に見えないように、密かに拳を握り込む。
自分の迂闊さに腹が立ってしょうがなかった。
いつか、こうなることはわかっていた筈なのに。こうなるからこそ、極力人と触れ合わないようにしていたのに。
凍空はそんな俺をじっと見つめた末に、ぴっと二本の指を掲げて口を開いた。
「二つ……いえ、三つ答えてください」
「何だ」
「先程の災厄とやらは、いつ私に降りかかるのでしょうか?」
「正確にはわからないが、近いうちに必ず起こる」
「それは具体的にはどのような災厄なのでしょうか? 銀色の災厄と仰っていましたが、銀色とは何ですか?」
その点については、実は俺もよくわかっていない。けれど過去の経験からある程度推測することは出来る。
「銀色ってのは、お前に降りかかる災厄に関わるものを色で表わしたものだ」
「色、ですか」
「それが何かはわからないが、たとえば赤なら火事とか、青なら水没とかな。他にも車の色だったり、その災厄に直接関わるものの色を示していることが多い」
「となると、今回の色は銀色ですから……一番に思いつくのはやはり刃物でしょうか。如月さんの言うとおり車の色という線も捨て切れませんし、他にも……」
ぶつぶつと真剣な表情で独白を続ける凍空。何かを思案しているようだが、しかしこちらに確認を取ろうとはしない。ただただ自らの思考に没頭していた。
俺はじっと凍空を見つめる。俺の言葉を、自分でも馬鹿げたことだと思う戯言を真に受けて黙考を続ける少女を静かに見つめた。
何故凍空は俺の言葉を信じているのだろう。こういう事態には何度も直面したが、大抵は一笑に付されるのが常であったというのに。
思考を巡らしながら彼女を見つめていると、先に凍空の方が思考を終えたようで、こちらに視線を戻して常と変らない淡々とした口調でこう言った。
「結論から述べますと、その申し出は丁重にお断りしたいと思います」
告げられた言葉に愕然とした。
「な、どうしてだよ!」
「いえ、銀色にまつわる災厄というのであれば、大体の予想もつきますし、対策も出来ますから」
「対策って……お前、本当に危ないんだぞ!」
焦燥感に促されるままに懸命に訴える。
心を覆い隠そうとする悲哀や絶望、様々な負の感情が形作る暗雲を必死になって振り払う。けれど雲は一向に消えない。振り払っても振り払っても、引き寄せられるようにして空を覆い隠そうとする。
「……正直に言いましょう」
それは、過去に幾度となく見てきた光景。
俺を見る視線が、奇異なものを見るかのような視線に変わっていくその変化。
それが今、眼前の少女の表情に現れている──
「私には、貴方の言葉が信じられない」
暗雲が、心を覆い尽くした。
「貴方のその言葉には、信憑性がまるで無いんですよ。たとえば貴方の言う通り、この先私が何らかの災厄に見舞われる運命にあるとしましょう。そのために貴方が私の傍にいる。ということは、恐らく私の傍に貴方はいなかったのでしょうね。何故なら、貴方はその未来を変えるために私の傍にいたいと願ったわけですから」
力なく、頷く。
「しかし、それはつまり未来を変えるということですよね? 貴方の予言がどこまで正確なのかは知りませんが、もし貴方と共にいた場合、何も起きない可能性も出てくるのではないでしょうか。一人ではなく二人、しかも如月さんのような逞しい男性が傍にいるとなれば、もし人為的な災厄であれば相手もそう簡単には襲ってこられないでしょう。何せリスクが高すぎます。集団で襲われたりするとまた事情は違ってくるのかもしれませんが、そうなると危うくなるのは如月さんでは?」
「俺は、別に」
「そういう可能性もあるということです。そしてもし貴方がいることによって未来が変わってしまった場合、あとに残るのは貴方が私の傍にいるという、この事実だけです。勿論その場合は何もなかったわけですから、貴方の予言は嘘だったということになります。それを単なるナンパ目的の口実ではなかったと、どうして言い切ることが出来ましょうか」
「違う……本当に、違うんだ!」
何度も何度も、首を振って否定する。
本当だと、信じてくれと訴える言葉は、しかし凍空の心には届かない。
「大丈夫ですよ、心配には及びません。対策は取れると言ったでしょう? 最も、本当にそんなことが起きるのであれば、ですが」
「──ッ!」
抑揚のない凍空の声。その響きには今、確かに嘲りの色が込められていた。
痛い。凍空の視線が、凍空の声が。それは今までに経験したものと同じで、けれど今までに経験したどの痛みよりも強く胸を穿っていた。
「……俺はどう思われようと、別にいい」
絞り出す。なけなしの勇気を振り絞って、過去の傷を抉る痛みに逃げ出してしまいそうになる身体を奮い立たせて。
それでも頼りなくふらふらと揺れる軸を強引に固定しながら、最後に一度だけ、訴えた。
「俺が嘘吐き呼ばわりされて、それだけで凍空が無事でいられるのなら、それでいい。凍空、頼むよ。俺を傍に、居させてくれ」
視線を交えて、真摯に凍空のその目を見つめて、懇願するようにそう告げた。紡ぐ声に感情を乗せて、凍空の心に届くようにと、精一杯の気持ちを込めて送り出す。
「……如月さん」
眉をひそめた、凍空の声が耳に届く。
「申し訳ないですが、お断りします」
それ以上、何も言えなかった。
唐突にこんなこと言われたらこうなるよなぁ、という反応を目指して書きました。
このシーン書く上で最も悩んだのはやはり予言の内容ですねー。
はっきり台詞にすると面白みがなくなる、けれど抽象的に表わそうにもどう表現するべきなのか、とか。
どうあがいても上手い台詞が見つからなかったので物凄く曖昧にぼかす感じに。