第2話 桐島紫
その空間はまるで、時が止まっているかのように見えた。
左右に往来する生徒達の波の中、真正面の壁に背を預けて静かに佇んでいる少女がいる。帰宅するために昇降口へ、あるいはまた別の用事で忙しなく行き来する流れの中でそれに逆らうように佇む姿は、さながら川に点在する岩のようだ。
窓から流れ込む風にさらさらとした黒髪を揺らしながら、廊下に出た俺を微笑んで見つめるその女子生徒を、俺は良く知っていた。
「やっと来たわね、夏樹」
恐らくはこの学園においてこの少女、桐島紫以外の誰からも呼ばれないであろう、俺の名前。それを口にした少女は笑みを濃くすると、壁に預けていた背中を起こして近寄ってきた。
「折角一緒に帰ろうと思って待ってたのに、夏樹ってば全然出てこないんだもの。もう少し待っても来なかったら、呼びに行こうと思ってたのよ?」
「悪い悪い。ちょっと、ぼうっとしてた」
後ろ手に扉を閉めながらそう言うと、何故か紫の唇が意地悪げに吊り上がった。
「……何だよ、そのいやらしい顔は」
「別に。可愛いわよねー、凍空さん」
この野郎。
素知らぬ顔をして愉しそうにそう言う紫を俺は半目で睨みつけた。
教室の外にいた癖に俺の視線から考えていたことまで把握しているのがとても腹立たしい。そんなにわかりやすいのだろうか、俺は。
「……まぁ、それは否定しない」
ぶっきらぼうにそう答える。何しろ前回のミスコンの優勝者だ。
少なくとも客観的に見て凍空が可愛いことは疑いようがないし、俺自身凍空のその容姿には男として惹かれるものが少なからずあった。
「そうよねー。凍空さんって夏樹の好み、ストライクだもんね?」
「いつの間にか俺の好みが捏造されている気がするんだが」
「え? だって夏樹って昔から好きだったじゃない。ああいうタイプの子」
「ああいうタイプって?」
「ああいう社交的で人気者な子」
ぐ、と思わず言葉を詰まらせてしまうほどに、その答えは正しく俺の好みを言い当てていた。
「そんなことはないと、思うが」
苦し紛れに口にする俺の様子を「あら、そうなの?」と楽しそうに笑いながら見やる紫。
からかわれている。そのことを理解しているから、まるで心を見透かされているように気恥しく落ち着かない。
やはり、この幼馴染を相手にしているとどうにも調子が狂う。狂うというよりは、狂わされているのだろう。
会話の主導権は常に紫で、俺はただ彼女の掌の上でころころと転がされているだけの無力な玩具でしかない。
最もこんなやり取りとも子供の頃からの付き合いだから、今更怒る気にもなれないが。
それよりも、と俺は鞄を担ぎ直して顎をしゃくった。
「紫、話すのはいいがそれは歩きながらにしようぜ」
まばらとはいえ周囲には確かに人がいて、背後の教室には話題の中心人物である凍空がいるのだ。声を抑えているから聞こえるはずもないだろうが、正直に言って居心地が悪いなんてものじゃない。
そんな客観的に見ても至極真っ当な意見を、けれど敢えて弄ぶのがこの少女。
「いいじゃない、周りの目なんて気にすることはないわ、存分にお話を楽しみましょう? それに夏樹にはむしろ都合が良いんじゃない? 愛しの凍空さんに好意をアピールするチャンスよ?」
くすくすと鈴を転がすような音を奏でて笑う紫。その笑みは不思議の国でアリスを惑わすチェシャ猫のように愉快げで、そしてどこまでも底意地の悪いものだった。
ため息交じりに、無理矢理紫の手を引いて歩きだす。
「あら、強引ね。私はどこへ連れて行かれるのかしら?」
本当に、調子が狂う。
六月の初め、肌に纏わりつく空気は少し温い。
そんな僅かな熱気を放つぬるま湯のような空気の中を泳ぐようにして、紫と二人で歩いていた。
右手に小さな田圃と林、左手に店や家屋を置いた大通りからは、どこかちぐはぐな印象を受ける。
「そういえばさ」
黙ったまま歩くのも何だったので、ふと浮かんだ問いの言葉をそのまま舌に乗せて告げた。
「何?」
「何度目かわからんが、お前は俺以外の奴と帰ろうとは思わんのか? もしくは一人で帰るとか」
「またそれ?」と言わんばかりの顔をされた挙句に呆れたようなため息を吐かれた。
まぁ、こういう反応が返ってくることもわかっていたけれど。
そして次に紫が口にするであろう台詞も、恐らくは俺の予想と同じものなのだろう。
「何度目かわからないけど、そのつもりはないわね。それに夏樹は貴方以外に私に親しい友人がいないこと、知っているでしょう?」
ため息交じりの紫の言葉。その内容は一般的な観点から言えば本人にとってかなり辛いものであるはずだが、紫の顔色にはそのことに対する憂いは見られなかった。
恐らく、交友関係が狭いという点において俺と並びうる猛者がいるとすれば、それはこの桐島紫ただ一人。
何故かは詳しく聞いたことはないが、紫は周りに他人を置きたがらない。今まで共に過ごしてきた中で、俺は紫がクラスメイト、あるいはそれ以外の生徒と親しげに話しているのを見たことがなかった。
本当に、それが何故なのかはわからないけれど。
「やっぱり、友達とか作る気はないのか?」
これも幾度となく繰り返された応答。
「ないわね。少なくとも、この場所では貴方以外に作るつもりはないわ」
きっぱりとした答え。あまりにも躊躇いのないその台詞を読み上げる声に俺はため息を吐くしかなかった。
「この場所って、お前小学校の時も中学校の時も同じこと言ってなかったか?」
「あら、そうだったかしら?」
「すっとぼけるなよ、何度目だと思ってるんだこのやり取り」
「そうね。でも、気が変わらないんだもの。しょうがないじゃない?」
何が可笑しいのか、小さく笑みを零す紫。
その笑みは酷く自然に零れた綺麗な笑顔で、細められた瞳、柔らかな曲線を描く唇などを思わずじっと見つめてしまう。けれどそこには、無理をしているような歪みもなければ自嘲や諦観といった感情も見られない。
その笑顔を、少しだけ哀しいと思った。
頭を掻きながらの言葉は、どこか躊躇いがちに告げられた。
「お前は俺と違って、特に問題もないんだからさ……俺としては、出来ればお前にはもっと楽しい学園生活を送ってもらってほしいんだが」
「あら、それじゃあまるで私が楽しい学園生活を送っていないみたいじゃない?」
「お前がそう思うなら話は別だが、俺にはそう見えるって話だ。お前、意図的に周りの奴らと親しくならないようにしてるだろ。時には話しかけても無視してることもあるんだって?」
「そう? 誰に聞いたの?」
つい詰問するような口調になってしまったが、紫の声は平静そのものだった。
まるで、そんなことあったっけ、と身に覚えのないことに首を傾げているかのような、あるいはそうしているのだから当然だとでも言わんばかりの常と変わらない冷静な口調。
「そんな話が聞こえただけだ。大体誰に聞いたかなんて、そんな質問が意味のないものだってことは紫が一番良く知ってるだろ?」
苦笑交じりに告げた言葉に、そう、と囁くような声が相槌を打った。
「意識的に避け続けていれば、周りの奴らとの間に軋轢が生まれるのは当然だろ? そのせいで空気が悪くなるなんてことがわからないお前じゃないだろうに。そんな居心地が悪そうな空気じゃ、とてもじゃないけど楽しい学園生活なんて」
「夏樹」
遮るような紫の言葉。少しだけ強められた言葉の語気に、思わず口を噤んでしまう。
流石に怒らせてしまったか、と紫の顔色を窺ってみるが、そこにはいつもと変わらない楽しげな微笑しか見られなかった。
「ありがとう。けど、本当に大丈夫だから」
そう言われてしまっては、もう、言葉を繋げることなんて出来なくて。
「それに、私が貴方以外に友人を作ってしまったら、こうして一緒にいる時間も少なくなってしまうのよ? 夏樹はそれでもいいのかしら」
「いいさ。紫が楽しければ、それで」
多少の嘘が混ざった言葉。
紫の言うとおり、確かに紫が俺以外に友人を作って、こうして一緒にいる時間が少なくなってしまったら、俺はかなり寂しい思いをすることになるだろう。紫と違って特殊な事情のある俺には、きっと友人が出来る日なんて来ないだろうから。
それは諦めにも似た確信だ。
生まれた時から自分に備わっている、呪いのような特性。
そのせいで過去に痛い目を見たこともあって、俺はすでに自分の運命をある程度受け入れてしまっていた。
けれど紫は違う。紫にはそんな特殊な事情はないし、何より身内贔屓と取られるかもしれないが紫はとても綺麗だ。容姿に関して言えば凍空と同じか、身内贔屓を加えるとそれ以上。それだけの素質を持ち合わせながら俺としか付き合わないというのは勿体ないことだろう。人間関係に憧れすら抱いている俺だから、尚のことそう思う。
なのに。あぁ、なのに──紫はまた微笑を浮かべてこう言うのだ。見る者全てを虜にするような、惹かれずにはいられない、けれどどこか憂いを秘めたような切なげな眼差しで、こう囁くのだ。
「私は──寂しいわ。夏樹以外の人と過ごすなんて、とてもじゃないけれど考えられない。だから、そんな哀しいことを言わないで」
それが真摯なものなのか、いつものようにからかっているだけなのか、それともまるで意味などないのか。それはわからない。
わからないが、あぁ──くそ。俺は内心で毒を吐く。
そんな顔をして、そんなことを言われた時点で俺の負けだ。そんな顔をさせてしまったことを悔いた時点で、その言葉をほんの少しでも嬉しいと思ってしまった時点で、勝敗は決してしまっていた。
「お前のそのスタンスも、筋金入りだよな。ほんと」
ぶっきらぼうに、紫の顔を決して見ないようにしたままにそう言った。
何故かはわからないが、今は紫と顔を合わせるのが酷く照れ臭い。何となく、そう感じた。
「そうね。きっと一生、変わらないと思うわ」
楽しそうに、小鳥が囀るような声を奏でて紫が笑う。耳に届いたその響きが普段の紫からはあまりにも似つかわしくない無邪気なものだったから、気付けば俺も紫に釣られるようにして小さな笑みを零していた。
穏やかな空気の中、優しい笑みを浮かべたまま紫は俺の顔を覗き込んで。
「それじゃ、凍空さんの話に移りましょうか」
浮かべるその笑みの意味をまったく別のものに変えた。
仕事ェ……。
第1話、それも割と中途半端なとこで止まってしまって大変申し訳ないです。
というわけで今日は一気に二、三話更新する予定。
第1話と2話はヒロインの紹介みたいな回です。
この頃は色々と伏線張り巡らせながら書いてたなぁ。
ちなみにこの2話の間にも伏線あります。
次は敢えて言うなら主人公の話。