第1話 凍空真白
――そろそろ起きる時間だぜ、と。
誰かに呼びかけられたような気がした。
スイッチが入るように目が覚めた。
机の上で組み合わせていた腕から顔を上げる。涙でぼやけた視界に見慣れた教室が広がった。
賑やかな空気に包まれた室内では同じ制服を着込んだ生徒が右へ左へ行き交い、あるいは机を寄せ合って弁当箱を広げている。いつの間にか昼休みを迎えていたらしい。
身体を起こして背中を反らし、大きな欠伸を一つ零す。
ぼんやりと教室を眺めていた視線が、教室の中央、チョークの粉で微妙に白く染まった黒板で止まった。
つい先程まで書かれていたであろう文字はすでになく、あとには黒板消しで無残に散らされた跡しか残っていなかった。
――しまったな。
手元に広げられたままのノートを眺めて顔をしかめた。
ついうとうととしてしまったばかりに、最後、十分ほどの間の内容が書けなかった。残されていた跡を見るに、教科書の演習問題を解説していたのだろうか。
それなら後でどうとでもなるだろう。そう判断した俺はその件はさっさと忘れて、昼食を取りに行くことにした。
立ち上がり、財布を制服のポケットに入れて教室を出る。
声をかけてくるような友達はおらず、声をかけるべき相手もいない。ただ意図的にこちらを避けようと、視線を決して向けないようにしている空気だけはしっかりと伝わってくるから性質が悪い。
背後から聞こえる談笑の声に締め付けられるような胸の痛みを覚えながら、俺は逃げるように購買部へと歩いて行った。
食事を済ませて教室に戻る途中、ふと視線の端に何かが映った。
「ん?」
廊下の隅。壁からせり出した柱の角に、柱の陰に混じることなく存在を主張する白いものが見えた。
屈みこんで拾い上げたのは、小さなストラップのついた鍵だ。
括りつけられた細い紐の先には、何かのキャラなのだろうか、プラスチックの雪だるまがぶらぶらと頼りなく揺れていた。
誰のものだろう。そう考えていた俺の耳が小さな声を拾った。
「あ……」
零れた声に視線を向ける。
そこに立っていたのは、少し変わった女子生徒。
同い年の少女達と比べると少しだけ小さい小柄な背丈と、太陽を知らないのではないかと疑いたくなるほどに白い肌。艶のある黒髪を頭から足にかかるまでだらりと垂らした、ともすれば死者の国から彷徨い出てきた女の幽霊とも見えてしまうその姿。
廊下の中、ちらほらと通り過ぎていく人の波にあって、一際存在感を放つその容姿。
凍空真白。
珍しい名前を持つそのクラスメイトは、じっと俺が手にした鍵を眺めていた。
「これ、凍空のか?」
屈みこんだまま、手の中にある鍵を差し出す。視線が交わったその先には、蠟燭の火のような儚げな光を灯す双眸があった。
その瞳に吸い込まれそうになる俺を差し置いて、瞳の主はこくりと頷く。
「そうですね、私のです。落としたので取りに来たのですが、先を越されちゃいましたね」
「気付いてたのか?」
落としたことに気付いたのなら、何故すぐに拾わなかったのか。
そう首を傾げる俺に凍空は補足した。
「先生に頼まれたプリントを職員室に持っていく途中だったのですよ。両手は塞がってましたし落とした場所は覚えてましたので、まぁ特に問題はないだろうと」
「問題はないって……無くなってたらどうするつもりだったんだよ」
「スペアはありますので、その点については大丈夫です」
「ちなみに、何の鍵だったんだ?」
「寮の部屋の鍵です」
「大事じゃねぇか」
呆れたと言わんばかりの大袈裟なため息を吐きながら、子供に飴玉でも与えてやるような仕草で凍空に鍵を手渡した。
「どうも、ありがとうございました」
それを受け取り、ぺこりと小さく頭を下げる凍空。
「気にするな、たいしたことはしていない」
本当にたいしたことではないのだから、むしろ感謝される方が申し訳ない。
俺は埃を払いながら立ち上がると、再び教室へ向けて歩き出した。
「そうですか、それではまた。如月さん」
名前を呼ばれたことにわずかながらの驚きを覚えて思わず振り返る。
しかし凍空はすでにこちらに背を向けていて、俺の視界にはゆらゆらと揺れている黒髪しか映らなかった。
凍空真白。
その名前は恐らくこの学園のほとんどの人間が知っていることだろう。
凍空の容姿は人目を惹く。
小柄な背丈と、それに不釣り合いに長い黒髪。病的に白い肌はどこか不気味な印象もあるが、凍空の整った容姿はそれさえも自身を引き立てるための要素に変えてしまう。
定かではないが、一年の時に開かれたミスコンでは二位にダブルスコアをつけて優勝したらしいという話も聞く。しかしそれを疑えない美しさが凍空にはあった。
更には、凍空は容姿だけではなく内面も完璧と言えた。
凍空には周囲に人を惹きつける才能でもあるのだろうか、気がつけばいつでも誰かと談笑しているイメージがあった。
現に今でも、教室内をぐるりと見渡せば小さな人だかりを見つけることが出来る。その中心には、当然のように凍空がいた。そこに男子も女子もない。朱に染まる教室の中、小柄な彼女を中心として、多くの生徒が笑っていた。
眩しいと、そう思った。
その輝きから逃げるように俺は手早く支度を済ませ、鞄を担いで席を立った。ホームルームは先程終わったし、これ以上ここにいる意味もない。
纏わりつく和やかな空気をかき分けるように進み、無言で扉を開いて廊下に出た。
今作は長さとしては短編くらいの長さです。
ジャンルとしては学園妖怪モノ、という感じでしょうか。
オリジナルということもあり、以前まで掲載していた二次創作とは少々形式を変えました。
具体的には、文章の改行を控えて、代わりに一話の長さを少なめにしてみたり。
このペースだと、大体十話前後で終わるかと思います。
読みにくい、などご意見がありましたら是非感想に書きこんでみてください。