第四話 女の子な僕
筆者の半陰陽に関する知識には不備があります。実際の半陰陽の方とは異なる場合もございますが、その辺りはご了承ください。
「ただいま」
「あっ、おかえりなさーい」
聞こえてくるのはいつも通りの母の声。
いつも通りの返事。
母はリビングでドラマの再放送なんてものを見ていた。
確か前にやっていたありきたりなラブコメディーとかで、ものすごくつまらなかったらしい。けれどそのつまらなさが有名になり視聴率は伸びたのだとか。よく知らないが、なぜそんなものが再放送になっているのだろうと少し疑問。まあ、どうでもいいけど。
靴を脱いで家に上がる。リビングに入り、開けっ放しのドアを閉めると、寒かった外の空気はここには存在せず、暖房特有の暖かさとどこか息苦しさを感じさせる空気が充満していた。 僕の体は急な温度変化に対応しきれず、クシャミを一つ。おっと失礼。鼻水が。
ぶちーん、と騒がしく鼻をかみ、テイッシュはゴミ箱へ。家の構造上この部屋を通らずに二階の僕の部屋には行けないので、母の邪魔にならないように(もう手遅れな気もするが)リビングを通り抜け、ドアノブを掴む。
そしてドアを開けようとする、その前に母がこちらにゆっくりと振り向いた。
「あっ、明後日病院だから忘れないでおきなさいね」
何でもないことのように母は言った。
年相応に綺麗な母は笑うでもなく、悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ普通の表情。普通の瞬き。普通の形。そして僕が何か返事を返す前に母はすぐにテレビへと顔を向け、つまらないはずのドラマの再放送を見て笑う。笑う。笑う。
母の手は固く握りしめられていた。
だから、僕は何も言わなかった。
何も言わずに手元のドアを開け、一気に階段を駆け上り、音を立てずに廊下を歩き、また激しくドアを開け、ダッシュで自分の部屋へと入り、ベッドに勢いよくダイブ。
そしてようやく何かから解放されたように安心した。不思議と。でも胸は空虚。寂しい。哀しい。面倒臭い。
・・・・窮屈だ。
ため息を吐く。どうやら隼人の馬鹿癖が移ったらしい。まったくもっていい迷惑だ。慰謝料を請求したい。
「はぁ。・・・・解くか」
そして僕は苦しい胸の原因を一つ取り除くことを決意。
上着の厚い学ランを脱いで、ポイッとベッドに適当に放る。次にワイシャツのボタンを一個一個丁寧に外し、また投げ捨てる。最後に白い無地のティーシャツを足元に落とす。
上半身の服を全て脱いだ僕の皮膚は肌色のはず。しかし、今僕の上半身は白い。別に病気なわけじゃない。包帯が巻かれているのだから当然なのだ。いや、これはサラシというのか。
きつく締められたサラシを解くためにベッドに寝転がりつつ学校のカバンを引き寄せ、その中の筆箱からハサミを取り出す。刃こぼれし放題のそのハサミをサラシと胸の間に差し入れ、そしてチョキチョキチョキチョキ。切り刻む。サラシは上から解かれていった。
抑えがなくなった。それなりに大きな僕の胸は跳ね上がる。男にはありえない脂肪の塊。胸に二つ。今日は少々きつく締めすぎたようで、跡が胸にくっきりと残っていた。
苦しさが少し和らいだ。
ため息ではない吐息を一つ。体から空気が抜ける。
サラシをゴミ箱へと捨て僕は等身大の鏡の前に立ってみた。
そこに映っているのは紛れもない女の子。
肩までかかる黒髪に、眠そうな顔で立っている垂れ眼の女の子。男の制服を着ているとただの童顔のチビ男子高校生だが、上半身を剥き出しにすると女の子に見えてしまうから不思議。いや、元々女顔でもあったし、不思議ではないはず。うん?この場合は女顔ではなく男顔であったというほうが正しいのか。
・・・・面倒臭いや。考えるのが。
とりあえずいつまでも裸でいるのは不謹慎。つつしみがないらしいので箪笥へと足を運ぶ。前に親に怒られたのだ。弟には勘弁してくれと泣きつかれた。あまり性の意識がない僕には、よく分からない反面よく分かる。矛盾しているけど、そんなものだ。
箪笥から一番手前にある下着――パスカルピンクのブラジャーを取り出し、いつものように装着。ただこれを付けるのはあまり好きなものではないのだけど。また息苦しさが戻ってくる。少し顔を顰めつつもこれは仕方がないのだろう、と心の中で独り呟いた。
すると、控えめなノックが聞こえてきた。
「おーい、兄貴。ちょっと教えて欲しいところがあるんだけど」
「・・・・ちょっと待て。」
下着が入っている箪笥を閉め、ズボンやティーシャツなどの一般服が入っている箪笥を開ける。すぐに下の制服も脱いで、また適当に服を選んだ。ちょっと洒落たダメージジーンズに、ロゴの入ったロングの黒いテーシャツ。部屋着だしこれでいいだろう。
服を着ると「いいよ」と返事を返した。
弟の小島大河は「おじゃましまーす」と言いながら部屋に入ってくる。
部屋に入ってくるなりに弟はなぜか、うっ、と顔を顰めた。弟の癖に僕より高い身長で部屋を見回すと一言。
「って、何だよ、これっ!ちゃんと服は畳めって!」
「そのことか。別にいいじゃん。うるさいな」
「うるさいじゃなくて。脱いだら畳むのは常識でしょうが。・・・・はぁ、さすがは兄貴だわ。本当に純潔のO型だよね」
「血液型は関係ない。それにそんなこと言ったらお前こそA型臭いぞ」
「臭くない」
「臭い」
意味のわからない応酬をしつつ、僕は勉強机へと腰掛け、大河は僕の制服を片付け始めた。 どうも弟はこういうぐちゃっとした空間が好きではないらしい。僕の部屋とは違って、本当に男の部屋かと聞きたくなるくらいに綺麗だし。まあ何にせよ、こうやって毎日掃除してくれるのはごくろうなことだ。
大河は服を綺麗に折りたたみ全て片付け終えると、僕のところへやってきて、手に持っていた教科書を勉強机の上に置いた。数学の教科書。中学二年生の授業でやった懐かしい方程式。できれば二度と見たくなかったが、可愛い弟のためだ。仕方がない。
「で、どこがわからないの」
「ああ、えっと・・・・ここ。因数分解を使うらしいんだけど、イマイチやり方がわかんない」
ちらっとその部分を見て見れば、何やら複雑な幾何学模様がはこびっている。これをどうやって因数分解で解くのだ、弟よ。
冷や汗を垂らしながら、それでも昔の記憶と今使っている記憶を総動員してなんとか問題を解き、説明してやる。問題を解くのに数十分を要し、解けたときにはほっと息を吐いたのは言うまでもない。
最近の中学生は難しいことやってんだね。
ほんの二年前には同じことをやったはずなのだが。
説明を終え、「わかった?」と尋ねると、「わかった」と短い返事。
ようやく終わったと僕は肩を鳴らす。そして、まだ部屋を出る様子のない大河の方を見てみれば、なにやら立ち尽くしてもじもじと挙動不審なご様子だった。
用がないのならさっさと勉強しろ、優等生。
「あ、あのさ。兄貴。えっと、ほら、あれだよ」
「何だよ」
意味のわからない弟は意味のわからないことを言う。その後詰まってしばらく呻いた後、「な、何でもない」と手を振った。
肩を落としトボトボ歩いて部屋を出ようとする弟を見ながら、僕は首を傾げる。まあでもどうせくだらないことだろうけど。
分からないことを考えても仕方がないし、考えるのも面倒臭い。それならそんな無駄なことはせずに有効に時間を使うべきだろう。ということで、僕は勉強机に隠してある漫画の一冊を手に取る。
だが、その漫画を開く前に、もう部屋を出たと思っていた弟がそれを遮った。
「兄貴・・・・いや、姉貴」
と、呼びかけているのかも分からないくらいに小さな一言で。
けれど、僕はその小さな一言で動きを止めた。そしてぎこちなく弟の方へと体を向ける。弟は頬を掻いて僕の視線から眼を逸らしていた。弟の癖。何か重要なことを話すときはいつも頬を掻く。その癖。まだ直ってなかったらしい。
「なんていうか、その、言う言葉が見つかんないけど、でも、さ」
ごくり、と大河は唾を飲み、躊躇って、言った。
「俺は姉貴の味方だかんな」
一瞬の間。
僕は何を言えばわからずに、迷う。惑う。
急に胸が苦しくて、切なくなった。この胸を占めているものは、喜びなのだろうか。悲しみなのだろうか。苦しみなのだろうか。よく分からない。けど、きゅうっ、と胸が締め上げられる。不覚にも涙が出そうなのを堪えて、堪えて、何とか無表情に保ちつつ、僕はその弟の返事を茶化した。
「・・・・くさいよ」
と。
その返事に弟はぽかんと口を開けると、すぐに顔を真っ赤にして「じゃあもう知らない!」と叫び、部屋を出て行ってしまった。
バタンと大きな音がする。
それに僕は部屋で一人苦笑い。出て来るかと思った涙も何とか引っ込んでくれたらしい。ここで泣いたら兄貴として示しが付かなかったから、助かった。ただ、少し大河には悪いことをしたけれど。
どうやら大河の用事は勉強じゃなくて、あの一言にあったみたい。兄弟思いの弟を持ったものだ。本当に、僕には勿体ないくらいに。
しばしの間、僕は大河が出て行ったドアをぼーっと眺めて、無為に時を過ごした。静かな部屋にはただ時計が時を刻む音しか聞こえない。そして、たぶん数分後くらいに、僕は手元に置いてある漫画を緩慢に開いた。特に、何かを思うわけでもなく。
その漫画の内容はくだらない恋愛模様が描かれている、やはりありきたりなもの。男の子が二人の女の子の間で揺れ動くとか、女の子の嫉妬とか優しさとか、そんなものが色々と。けれど、これも再放送のドラマ同様になぜか人気を博しているらしい。まあ、僕もその噂を聞いて買ってしまったのだから評判についてどうのこうの言うことなどできないのだけど。
ただ、その漫画を読んでも内容なんて頭には入ってこなかった。別にそれが陳腐なものだからだとかそういうことではなくて、弟の言葉が頭から離れなかったというだけのこと。しきりに繰り返されるワンフレーズ。
『俺は姉貴の味方だからな』
じゃあ、それなら、僕は聞きたい。聞きたいと思う。大河に。一つだけ。
そう言うのなら、一体誰が、何が、僕の敵なのかと。
なんとなく面白くなくて僕はそのありきたりな漫画を壁へと投げつけた。
とりあえず物語りを転がすところまでは来たと思います。感想を下さるとより元気がでますので、どうかよろしくお願いします。