サルジュ
岐阜市文芸祭のために書き下ろしましたが、たぶん落ちたので供養します。
いつか傷つくのをわかって恋をしていた。
「私、好きな人いるんだ」
「へぇ、そうなんだ」
マクタブは、サルジュの長い髪を見つめていた。
黒い色はどこか風景にじっとりと滲んでいて、夜の空に溶け込みそうだった。こんな失恋の仕方をしたことはなかった。あるいは、今まで本気で恋焦がれたこともなかった。
「どんな人なの?」
「優しい人だよ」
「ふーん」
少しだけの沈黙の間、サルジュは満天の星空を目で追っているように見えた。ただ、マクタブはどの星を見ているかわかりかねた。推し量ろうとした。
そして、やめた。
「どんなふうに優しいの?」
これはおそらく、糾してしまっているのである。耳を傾けているわけではない。マクタブは自ら、薄々それに気づいていた。そして、まだ12歳であるサルジュもその幼稚さを見抜いていた。
「ううん、よくわからない。ただ、とても優しい人」
何らか言えないことがあって嘘をついたのだろう、ということは、その澄み切った青い目から、察しがついた。
近くの井戸が風に吹かれて、部品をカタカタと揺らした。
ここは砂漠の中の国であって、マクタブは男で、サルジュは女だ。性別は変わらない。
男が女を拐かして結婚するのはどうせできる。この国の法律ではそれができる。許されている。
マクタブはただ、倍も歳の離れたサルジュに躊躇もなく惚れてしまった。たまたま夜の喧騒を離れたくてゴムの木の下で休んでいたら、なぜか話しかけてきたのがこの女である。一目で美しい、と思った。その声は、耳を楽しませた。ほっそりとした身体に劣情を抱いた。
マクタブはもはやサルジュを示すのに「女」という言葉を躊躇なく行使できたーそれは残虐性の発露である。マクタブは男女の契りの何たるやを殆ど知らなかったが、否、だからこそ、とにかく強く愛してほしい、と願った。拐かすことはできたがサルジュの気持ちを考えれば無理矢理という選択肢は消えていた。決して思いやりなどではなく、拒絶に怯えて恐怖したのである。とにかく優しく話を聞いて、時に甘味を分けてあげた。猫か何かを飼うように懐かせていた。
「どこで会ったの?寺院かい?」
「道でだよ?たくさんのことを知ってる、賢い人」
「へぇ」
マクタブの頭の中はサルジュにどう恋を諦めさせるかということをずっと考えていた。サルジュは自分と同じこの木の下に来て、寂しいとこぼしていたから、もしかしたらお互いに愛し合えているのかもしれない、と思っていた。怒りなのか悲しみなのかわからないが、頭が変に冴えている。マクタブは、普段は街の市場に出て、ヤギやラクダの毛だの、蚕の糸だのを織物にした服や雑貨を売るだけの仕事をしているから、賢い人、と言われると、寺院の導師か修行をしている小僧くらいしか思いつかずにいる。
しかし、サルジュが恋している男の正体を、全力で調べようと必死に言葉を繋いだ。
「なんで賢いって、わかったの」
「数字の勉強を教えてくれるの」
マクタブは鼻で笑った。
「俺でも数字はできるよ。商売やっているんだぜ?」
「できるの?」
サルジュはちぎれた羊皮紙を見せた。
羊皮紙は星の話をしていた。円と線が描かれていてマクタブには目が回りそうだ。流麗で正確な文字は読めるものの、読んだところでよくわからない。
「また、明日も話そ」
サルジュは優しく、しかし残酷に、その日の会話を終わらせようとした。マクタブは止める気にもならなかった。
「うん、明日ね、、、」
街もそろそろ疲れてきたのか、賑わった顔を終えて眠り始める。静けさが主張する。明日も仕事があるぞ、と無言の圧力をかけてくる。マクタブは、家に帰る気になれなかった。家族とは家を分けている。どうせ独り身なのだ。
ゴムの木の幹を傷つけてみると、白く濁った液体が滴る。悪いことをしたなあ、という罪悪感が残る。
その日のマクタブは、やたら疲れて、ゴムの木の下で寝てしまった。
朝は平等に来て、日は上り、沈む。
マクタブは、昼は店で織物を売る商人である。店といっても、市場の一角で屋台のような場所だ。店の管理をしているボスが朝、仕入れ値の書かれた紙とともに品物を置いていく。書いてある仕入れ値に、絹織物なら1.73、毛織物なら1.41を掛け算した後、乱暴に端数を切り上げる。そうしろと言われているのでそうしている。
初めの頃は算盤を使わねばならなかったがもう頭の中でこの程度の計算はできるようになった。
「マクタブさん、これお願いしますよお」
「アフマド、お前こんなこともできねえかあ?」
「いやー、人間算盤はマクタブさんだけですよお。ウスタズ・ダビールも褒めてましたよ」
後輩は今日もにやにや笑っている。アフマドは有能で、ぽんぽん、景気のいい言葉を出せる。商売人としてそこそこ優秀だ。マクタブはさっと暗算した後値札を店頭に出し、二人して声を張り上げる。
声を張り上げながらも、マクタブの頭はサルジュをたぶらかしている男のことばかりである。どんな奴なんだ、俺のサルジュを取らないでほしい。客から硬貨を受け取る間もずっと考えている。
他にもマクタブにはちょっと考えなければいけないことがある。最近、本当に時々、客が怪訝そうな顔をしたり、笑いをこらえたりしていることがある。考えが読まれているのか?俺が悩んでいる恋愛は、恥ずかしい内容なのだろうか。心の中のことが漏れ出ているのだとしたら、なぜそうなっているのか、見当もつかない。
しばらくすると、客が怪訝そうな顔をしているときはあまり売れず、笑いそうな顔をしているときは、よく売れるという規則性に気がついた。俺は商機を掴む途上にいるのではないか?しっかり金稼ぎしたら、サルジュも振り向いてくれるのではないだろうか?マクタブは商売のことを考えながら、サルジュをその中心に置いて妄想しながら、ずっとこういう調子だった。成長せずに、二週か三週かを消費していた。昼は織物を売りつけ、夜はたしかにサルジュと話もするのだが、恋愛の話はマクタブからせずにおいたら、世間話だけで夜がふけていった。
そんな日常のある日の夕方、マクタブには見覚えのある客が店に品物を買いに来た。
「へぇ、いらっしゃいませ」
「この絹織物を買いに来たんだが」
「31リャールです」
「へぇ、絹で……はいよ」
「ありがとうございます!」
マクタブが見覚えの理由を思い出せないまま、金貨三枚と銀貨一枚を受け取ると、男が大きく溜息をついて口を開いた。
「……おいおい忘れたかよ、ダビールだけど」
「あぁ!お疲れ様です、ボス!」
ダビールはこの店の管理を任されている、マクタブの上司だ。この店の人間はボスか、ウスタズ・ダビールと呼んでいる。
「おぉ、マクタブくんさぁ、いい度胸だよなあ」
「えっと……どうなさったでしょうか」
ダビールは木の値札を鷲掴みにすると、マクタブに投げつけた。そのままダビールはマクタブの胸ぐらを掴んで、ボコボコに殴りつける。マクタブは痛みを感じないわけではなかったが、ただでさえ狭い店の中がめちゃくちゃになる方がなぜか気になって、ぼんやりその様子を眺めていた。
「お前人間算盤しか取り柄がねえのに、生きてるのはどうしてだよ?計算がずっと間違ってるだろう?絹を毛の掛け率で売られちゃあ、採算が取れねえんだけど?毛を絹の掛け率で売られちゃあ、売れる筈のものも売れなくなるなあ?どうすんだよ」
「あっ……すみません!」
「あっ、じゃねえんだよ!!」
マクタブは殴られながら、状況を反芻した。
気づかないうちに計算をミスしていた。それを客に笑われても検討しなかった。上司の顔すら忘れて、ぼんやりしていた。もう十年は商売を続けてきたのに、こんなことは初めてだった。
認めたくなかったが、最近、サルジュが考えの中心になりすぎていた。妄想が仕事にも影響していた。
ひとしきり殴りつけ終わると、ダビールはため息をついて言った。
「お前ちょっと最近頭おかしいんじゃねえの。アフマドからも聞いてるぞ」
「えぇ、仰る通りかもしれません」
「かもしれないだぁ?……そうだろ!」
蹴りが飛んでくる。マクタブは疲弊していた。靴のつま先を腹に思いきり食らうと、店の屋台骨を折る勢いで吹っ飛んで道の真ん中まで転がった。
ダビールは追い討ちのように言う。
「もう、諦めることだよな。時間が経てば、新しい職場も現れるさ。忘れられるわ。楽になれる」
「いや、それだけは……」
マクタブは哀れな男である。こんなことをされてもこの仕事にしがみつかざるを得ない。何より俺は、こんなところではへこたれたりしない、という意志が彼を支えている。サルジュを惚れさせる男はここから挽回するだろう、という妄想も混じっている。
「へぇ……お前おかしいな。なんか亡霊でも憑いてるんだろ。数日休んで、ゆっくりしてこいや。三日は帰ってくるな。俺がこの店にいておいてやるから、いろいろ取れたら帰ってこい」
ダビールは呆れたように吐き捨てた。
「……ありがとう、ございます」
マクタブは、蚊の鳴くような声で返事しながら、道を這いずって意味もなく道を歩き、どこを歩いたのかわからなくなりながらなんとか市場を後にした。
市場から出てきたマクタブはしばらく歩くと、本当に自分でもわからないほど、猛烈に笑い出した。
「休暇だ!休暇だ!!やすみだぁぁあっ!!アハハハ!!ハハ!!アハハハ!!」
別に休みがないわけではない。しかし、なんとなく笑えてしまうのである。何と言っても、今まで机上の空論だった、楽園を壊した悪魔の顔を一目見てやれるかもしれないのだ。なんとしてでも、サルジュの恋を致命的な形で妨げなければならない。そして本人に嫌われてはならない。叱られていたことなど頭の隅の隅に追いやられている。片思いとはひどい猛毒である。
マクタブは愚かだったので、やたらと上機嫌になりながら、サルジュの住む区画の近くまで来た。すると何やら紫がかった断髪の、美しい女が子供と語らっているのが見えた。語らう幼子の中にサルジュも混ざっていた。あさだらけの顔で、木か何かのようにその場に棒立ちしていると、女はマクタブに気づき、大変、とかなんとか言った。正確にはあの時の女がどんな言葉を口にしたかわからない。マクタブの意識がどんどん薄れていたからである。
目覚めたとき、マクタブは女の膝枕に寝かされていた。傷は丁寧に手当てされ、腕に巻かれた布切れからは血が滲んでいた。空の色は日が沈みきり、赤みがかった紺になっていた。
女はナディアと名乗った。
「私の生まれ故郷では女が学問をするのは法に則らないそうですので、佳き土地を求めているのです。ラクダと歩いてはあらゆる土地を巡っています。ここのあたりは本当に良い方が多くて、私のやっていることを、認めて下さいます」
「そうですか」
ぼんやりした頭でマクタブは、自らの怪我を癒したこの女の人生というようなことを思った。女が科学を教えるようなことは、マクタブには全然、想像がつかないことだった。しかし、宗教の経典がこの国では土地によってだいぶ違うことも知っていた。とすれば、経典によって理解される法の解釈も当然である。女の教師はこの村にも確かにいなかったが、マクタブは少なくとも、迫害せねばならない理由はないように思った。
「いつかは素敵な方と結婚して子供をもうけるのだろうと思いますが、こんなことしている女は変です、よね」
「いえ、そんなことはありません。俺にはそれを変だと言えません。俺も相当、変な人間ですから」
マクタブがそう言うと、ナディアは一瞬、目を丸くした。ただ、そっと目を閉じ、深いことを聞いてはいけない、と言うかのように首を横に振った。睫毛は誰の印象にも残るほど長く、目の美しさを際立たせていた。
「それにしてもなぜそんな怪我をなさったのですか」
「暴漢に襲われて、、、」
「そうですか……人生とは誰にとっても苦難ですね」
「ほんとうに、」
「あぁ、そういえば」
ナディアは懸命に、マクタブの傷を癒やすための薬を調えながら、何気なく会話を紡いだ。
「サルジュさんが心配していらっしゃいましたよ。川からたくさん水を汲んで、死なないで、と大切に手当てして、あざを冷やしていらっしゃいました。ご家族ですか?お友達ですか?」
マクタブはこれが夢か分かりかねた。サルジュが、心配?俺のことを?動かない身体の中で、心の臓が小踊りして、飛び跳ねる。
「ええそうです!とても可愛くて、純粋で、そうでありながら聡明で、健康で、大切な」
マクタブはそこまでを必死なように喚いて、言葉を止めた。
「……友達です」
結局はここに落としてしまうことに気づいた。それは針で刺されるような痛みだった。マクタブはまだサルジュと離れ離れであること、一生結ばれないのかもしれないということを自覚し始めていた。
ナディアというおそらく人間として自分より何倍も上手の存在に、恋という聖域を犯されることもまた拒んだのである。
「美しいですね」
ナディアははっきりとそう言った。
「どういうことですか?」
「いえ、私の故郷では男と女が対等に、認め合って友情を育むなどあり得ませんでした。男が女を認めるのは、女としてでしかありません。ましてや肉欲の惚れた腫れたのない、清らかな友情などというのは……あなたの目は、澄んでいらっしゃいますし。敬意を払います」
「……はい」
マクタブは返事をする。奇妙な感覚だった。ここでナディアの言葉に飼い慣らされれば、彼は素敵な男でいられる。経典を超えて、サルジュとマクタブは友愛を育む同士としてこの空間に認めてもらえる。
友情を、認めてもらえる。
友達と、認めてもらえる。
「……そうですね。ありがとうございます」
違う。違うことがわかっている。マクタブは劣情を抱き続けている。自覚している。だからこそ手当てされているのだ。
しかし、マクタブはさらけ出せない。結局は矮小で立場を大事にしてしまう男なのだ。マクタブ自身も諦めている部分がある。草やトカゲや、数多の材料を煮た生温かい薬液が、すり傷の傷口に優しく流れこむ。
「乾けばだいぶ良くなりますよ。少しここで休んでみてください。私はまた少し歩きますから」
「ええ」
ナディアの言葉を反芻しながら、マクタブは彼女が立ち去るのを呼び止めず、そのままにした。また、意識が薄れ始める。
目が覚めると、マクタブの顔に陽の光がさしていた。舌がひりつく。一瞬、少し寝ていただけかと思われたが、違った。これは夕日である。マクタブは怪我を手当てされたこの道端で一日も惰眠に費やしてしまったらしかった。
「水を、」
本能は水場を求める。マクタブは薬液と包帯で誤魔化された痛みを引きずりながら、身体を懸命に動かした。思いつく限り一番近い水場は、あのゴムの木が生えた土地の近くだった。
水を井戸から手で汲んで、飲む。飲み干す勢いで、飲む。飲む。寝ている間に麻縄のように固く結ばれた筋肉が解れ始め、渇きが癒えてきた。
ひとしきり飲み終えると、マクタブはゴムの木の下にサルジュがいるのに気づいた。
近くによると、サルジュが口を開いた。
「私の好きな人に会ったよね」
「いや?わからないな」
「先生に会ったでしょ」
「……もしかして、ナディアと名乗っていた、あの女かい?」
「女って言わないで」
マクタブは初めてサルジュの怒りに触れた。青い目は涼しくなかった。涼しさを数倍強くしたような痛みがした。普段使わない言葉であるせいで、冷たさという言葉がずいぶん長いこと出てこなかったが、マクタブが言語に当てはめようとすれば、サルジュの目線はそれが一番近かった。
「私にとっては誰も抱いたことのない気持ちを出せる人なの。マクタブと話していても楽しいよ。だけど違うの。先生と話したでしょ。わかるでしょ」
マクタブは怒りを抱いた。悲しみも抱いた。同時に驚きと嘲りも抱いた。
染料は一色で布を染めれば、その本来の色を出す。赤、藍、黄、緑、紫、様々な色がある。ただ、染料を何も考えずに混ぜ合わせた色は、清潔な形をしていない。黒かもしれない。ただ、黒と表現されるのを拒む、泥や沼のような色だ。ちょうどそんな色の感情が理性と混ざり、本来のマクタブを黙らせた。
「……あぁ、とても素敵な人だったよ。
俺は、サルジュの恋を応援したい」
「ほんと!?」
「あぁ、本当に」
嘘をつけ!マクタブは自らを叱りつけたかった。同時に自らを天才だとも思ってほくそ笑んだ。
理性が囁いたのだ。結婚とは、恋愛を国と地域社会が認めてあげる制度である。そういう意味でこの国での女同士の恋愛は、認められない。自分は勝っている。この恋愛に勝利したのだ。二人が終わるのをただ黙って見ていればいい。もう、何も悩む必要はない。何か手を下す必要もない。
マクタブの心は、新手の罠を仕掛けた狩人のように高揚した。しかし、それをおくびにも出さず、ただサルジュの恋を応援するふりをした。
「私、きっと先生に認めてもらうから」
「とても良いよ!がんばろうよ」
「大丈夫かなあ、ナディア先生はどう思ってそう?」
「サルジュは賢いし、褒めてたよ!」
マクタブは浅い言葉で、サルジュを応援し、その憧れを褒めちぎった。卑怯者である。
その次の日からマクタブは確実に変わった。三日は帰ってくるなと言われていたのに、休暇の三日目の朝には店に帰ってきていた。どことなく夢見心地でダビールにもアフマドにも気味悪がられていたが、計算はしっかりこなし、商売の感覚が戻っているのをしっかり見せていた。
マクタブが仕事をしているのをよそに、二人が話し込んでいた。
「ダビールさん、マクタブさんはどうなっちゃったんですかあ?」
「わからん奴だよな。すぐ戻ってきて、調子乗りが治っていないと思ったらな。とんでもない壊れ方をした割に、前以上に上手く店を回せてる。術師だの医者に診てもらったわけでもないらしい」
「なんか阿片でもやり始めたんではないですかあ?」
「まあどうでもいいわ。俺は店が回っていればそれでいいからな。道具が壊れりゃ治す。直りゃそれでいい……また壊れてたら手紙よこせ。俺は今日から別の店も見に行かなくてちゃいけない」
「でもですねえ」
「まあ、あの算盤はなかなか愛着のおける道具だ。アフマド、アレが壊れたら次はお前がこの店を回す番だからな。お前が大事に使え」
「マクタブさんにきっかけがありそうには見えませんでしたよお?一時期からすごく計算を間違えるようになって、誰にも指摘させないような変な威圧感を出して……いきなりですよお」
「はぁ、そうだな。お前は、そんな種類の道具ではなかったな。ただな、察する能力がないのを愛嬌でベタ塗りして誤魔化す癖はやめたほうがいいぞ。
アレも人間の気持ちがわからん。
また手紙で連絡してこい」
マクタブにはそういう会話が聞こえていなかった。どんどん服を売り、布を売り、貯金袋を大きくし、夜はサルジュと会う、彼にとっては幸福な生活を続けた。
そんなある日、見るからに金持ちそうな客が慌てて店の前に現れた。
「とびきりの、神前のェアバーヤをくれ」
「ェアバーヤですか?アフマド、そんなのあるか?」
「ええ、白い絹は仕入れていますけどお、仕立ててあるのは……」
布はあるにはあるのだが、仕立てられたものはこの店にはない。ェアバーヤ自体は普通の女性用の伝統服だが、この国で言う神前のェアバーヤとは、結婚式に新婦が着る服であって、専門の業者に依頼する服だからだ。こんな街の市場でひょいと買える服ではない。またこういう金持ちが神前、という言葉を使う場合、最高級の、白い布で作られたェアバーヤを指すのは業界の常識である。急ぎの用であって、きな臭い依頼なのは確かだった。
「着せたい人がいてね」
男は長い髭を触って、恥ずかしそうに、しかし緊迫した表情で言う。
「無理ですよお、いきなりは」
「言い値で払うよ?」
「無理ですってえ」
「アフマド!」
マクタブは断ろうとするアフマドを怒鳴りつけて、客に向き直る。その目は鋭く、商売人の目をしていた。
「言い値で良いのですね?」
「ああ、そうだよ」
「夕方ごろまでお待ちいただけますか?必ず作ります」
「マクタブさぁん……旦那様も無理ですよねえ?」
「待つのは、構わんよ?」
「わかりました。お相手の身丈と腹囲を頂けますか」
マクタブはこの商機を逃すまいと思った。サルジュと結婚するのだ。ェアバーヤはどうせ自分が作ることになるのだ、こんなのは練習だ、と思い、店の奥にあった織機をとんでもない速さで動かし始めた。
二時間ほど経ったときに、依頼されたェアバーヤは大体完成した。マクタブはふとサルジュのことを想像した。
彼女にこのェアバーヤを着てもらったら、どうだろう。いつもはオリーブ色とか、紺色とか、鮮やかな色のェアバーヤを着ている。着せたい。美しいはずだ。容易に想像できる。サルジュの身丈と腹囲は、大体わかる。ほとんど毎日目に焼き付けているのだから。
夕方の納期には余裕で間に合った。アフマドに店を回させていたし、二着のェアバーヤは完成した。
「これでよろしかったでしょうか」
「ありがとう……!道で出会った奇跡の出会いだったんだ。必ずあの女を幸せにするぞ!!」
金持ちは喜び勇んで帰っていった。
この日の売り上げは、過去最大の記録になり、今までずっと越えられなかった売り上げ記録の二十倍以上の数値になった。店はいつも通り市場が閉まるまで営業を続け、アフマドは声を震わせた。
「マクタブさん最近おかしいですよ」
「なんだアフマド」
「人間算盤から人間織機にもなれたんですね……」
「あぁ、」
マクタブは少し考えて言った。
「愛する人を普通に愛しているだけで、人間は、神にも悪魔にもなれるということだな」
マクタブは自分のキザなセリフに顔を赤らめ、アフマドはそれを尊敬の眼差しで見つめる。
「マクタブさん……!!」
「じゃ、店の締め作業はやっておいてくれ」
「ええ、喜んで!!……あれ、マクタブさん」
「どうした?」
「……何でもないです!!お疲れ様です!!」
アフマドは絹布と収益が想定しているより少しだけ足りないような気がしたが、自分は算盤もろくにはできないのだし、こんな時に言うことではない、と違和感を黙っていた。マクタブは店を後にした。
市場を出て小躍りするマクタブには、今日ばかりは遊び歩いても良いのではないか、という考えがあったのではある。いつも寂しい懐に今日はぎっしり金が入っているからである。何でも、ェアバーヤの客が持っていた金貨が自分の手の中にある。ちょっとした出来心である。自分の給料になる前に、盗んできてしまった。最高級のものだ。これだけでも半年ほど遊んで暮らせる。
しかし、マクタブは首を横に振った。宝石が埋め込まれたこの金貨を、サルジュに見せてやりたいからだ。これでなびいてくれなくても、サルジュが商才という価値を理解できないほど幼いとは思わない。見せてやりたい。その一心でゴムの木の方面に足を進めると、さめざめと泣く声が聞こえた。
「サルジュ、」
マクタブは、涙で服の袖を濡らしている最愛の人に声をかけ、金貨を見せた。
「あげようか?」
「……いらない」
マクタブは少しムッとした。ただ、ここはサルジュに寄り添う場面だとも考えた。
「何があったの?」
「……先生が」
サルジュの差し出した羊皮紙は、書かれたインクが滲んで、読みづらかった。涙を落とした跡だろうと思われた。ただ、文字が綺麗だったので、しっかり読み取ることができた。
「サルジュさん
私は結婚します
あまり手紙を書いている時間がありません
あなたは私の最後の生徒でした
楽しかったです
どこかでまたあえるでしょう
しばらくおわかれです」
最後は急いで崩し字になっている手紙だった。
「辛かったね……」
マクタブは悲しそうなフリをした。しかし、心の中では、はしゃぎすぎて脳の血管がちぎれるかのようだった。
ナディアは拐かされたのであろう。よく思い出すと今日受けた依頼は、ナディアくらいの身丈の衣服であった。そういった情報が一気に頭の中で繋がった。
そうだ、そうだ。俺が、恋敵に引導を渡したのだ!邪魔者はもういない!ナディアには少し申し訳ないような気もするが、些細なことだ。これで、俺は、サルジュと愛し合える。愛しあえる!!
「大丈夫、俺がそばにいる」
マクタブはサルジュの髪を触った。
「君の気持ちはよくわかるよ。ただ、もう諦めることだ。時間が経てば、新しい恋人も現れるさ。忘れられるわ。楽になれる」
精一杯、かっこよくした。それが癒しになると信じた。
「……わかってない」
か細い声でサルジュが言う。
「……え?」
「わかってない!!わかってないわかってないわかってない!!」
泣きじゃくりながらサルジュは走り出した。
「おい待てよ!!」
マクタブはサルジュを急いで追いかけた。全て完璧だったはずなのに。どうして?女同士結ばれないのは、お前もわかっているだろう?マクタブの頭には思考が巡る。俺には金もある。能力もある。なぜ?
走りながら、それは怒りに変わった。裏切られた。裏切られた!そう判断するのに、マクタブは十分な時間を費やしていた。そして、十分な無知と傲慢をも併せ持ってしまっていた。
気がつくと、二人は随分遠くまで来てしまっていた。マクタブはサルジュを崖に追い詰めていた。
「なぁ、サルジュ、もっとお前を早く拐かしていればこんなことにはならなかったなあ」
マクタブの目は血走っていた。隠し通していた怪物としての、本来の性格が見て取れる瞳だった。
「お前に着てほしいものがあるんだよ」
マクタブは店から持ってきていたェアバーヤをサルジュに見せる。
「俺が仕立てたんだよ。お前のために。着せたい。崖は危ないよ。これを着て、おうちに帰ろう」
「いや!!!やめて!!!」
サルジュは泣き叫ぶ。
マクタブは理解できなかった。もうお前の恋人は、競争から抜けたじゃないか。なぜ拒む?俺はこんなにお前を愛しているのに、と。
「脱げよ。汚れた服から、この最高級の服に着替えさせてやるから。一緒になろう……」
「やだ、やだ、やめて、、、」
サルジュは震えながら後ずさる。
「なんでだよ。俺はこんなに愛しているのに。先生はもう、結婚したんだよ!恋愛ではもう、死んだも同然じゃないか!ハハハ!!!」
マクタブは笑っていた。自分に酔っていた。理性的に説得しているつもりで、サルジュが泣くのも震えるのもやめて、無言になった理由に全く気づかずにいた。
「……どうした?なぜ黙っているんだ。愛し合おう」
マクタブが近寄る。すると、サルジュは踵を返して崖から飛び降りた。
マクタブは一瞬、何が起きたかわからなかった。
しかし、状況を読み込むと、とんでもないことになったと思った。サルジュは死ぬことを選んだのだ。なぜだ。なぜだ……
「……逃げるなぁああぁっ!!」
マクタブは崖から落ちたサルジュの後を追いかけて飛び降りた。
ごしゅ、と何かが潰れる音がした。
血が流れている。頭から血が流れている。
足も血まみれになっている。
身体が思うように動かない崖の下の中で、手だけは動いた。頭を触ると、ぷつっと何かがちぎれる感触がした。長い髪の毛に見覚えがあった。
それは、すでにこときれていた幼い女の髪の毛だった。マクタブはサルジュの上に落ちた。サルジュの亡骸が、マクタブが少しの間だけ生きながらえるのを許したのだ。
サルジュの亡骸から、血がとめどなく溢れている。その血は、マクタブの血と混じる。身体はどんどん冷たくなっていくのに、感覚だけはあたたかくて、気持ちが良い。マクタブは、この感覚が子宮のようなのではないか、というようなことを思った。
日はもうとっくに暮れていた。視界もだんだん暗くなる。マクタブは死んでいくまでの数十分、譫言のように繰り返した。
「やっと一緒になれる……やっと一緒になれる……」
(重要な注意)
本作品は、特定の人物、国や地域、宗教を批判する目的で執筆されたものではありません。




