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第5話 すれ違う背中

キャンパスの並木道が、鮮やかな黄金色に染まっていた。十一月の冷たい風が銀杏の葉を散らし、石畳の上に黄色い絨毯を広げている。吐く息は白く、冬の足音がすぐそこまで迫っていることを告げていた。


「佐藤くん、これ見て。先日のゼミの講評、教授から戻ってきてたわよ」


隣を歩く松下凛が、分厚いファイルを差し出してきた。彼女の首元には、チェック柄の暖かそうなマフラーが巻かれている。それは先週末、二人でショッピングモールへ出かけた際に俺が選んだものだ。よく似合っている。


「ありがとう。……うわ、結構赤字が入ってるな」

「ふふ、愛の鞭だと思って受け止めなさい。でも、最後の総評は『視点が鋭い』って褒められてたわよ」

「本当だ。松下さんが手伝ってくれたおかげだよ」

「私はサポートしただけ。佐藤くんの粘り勝ちよ」


俺たちは顔を見合わせて笑った。

あの雨の日から半年。俺の生活は劇的に変わった。どん底だった精神状態は、凛というパートナーを得て、穏やかで前向きなものへと再生していた。彼女との関係は、激しく燃え上がるような恋というよりは、冷えた体を芯から温める陽だまりのようなものだ。互いに尊敬し合い、支え合う。かつて俺が理想としていた「安定」が、ここにはあった。


「今日はこの後、どうする? 寒くなってきたし、鍋でもするか」

「いいわね。白菜が安かったら、ミルフィーユ鍋にしましょうか」


そんな何気ない会話を交わしながら、正門へと向かっていた時のことだった。


「……健太」


不意に、聞き覚えのある声が風に乗って届いた。

心臓がドクリと嫌な音を立てる。その声の主を、俺は忘れたことなどなかった。けれど、それは懐かしさからではなく、古傷が疼くような痛みとしての記憶だ。


足を止め、声のした方へ視線を向ける。

銀杏並木の幹の陰に、一人の女性が立っていた。


高橋愛だった。


最後に見た時よりも随分と痩せて見えた。自慢だった栗色の髪は手入れが行き届いておらず、少しパサついている。着ているコートも、以前なら決して選ばなかったような地味な色味のものだ。彼女の周りだけ、空気が淀んで見えた。


「……愛」


俺の口から、無意識に名前が漏れた。

隣にいた凛が、俺の袖を軽く掴んだのが分かった。彼女も気づいている。あれが、俺を深く傷つけ、そして今の俺たちを引き合わせた元凶であることを。


愛がおずおずと近づいてきた。その歩き方は、かつての自信に満ちた彼女とは別人のようだった。視線は泳ぎ、指先は不安そうにコートの裾を握りしめている。


「久しぶり……だね」


愛は俺の顔色を窺うように、弱々しい笑顔を作った。


「ああ。久しぶりだな」


俺は努めて冷静に返した。怒鳴りたい衝動も、逃げ出したい衝動もない。ただ、目の前にいる「他人」が、どうしてここにいるのかという疑問だけがあった。


「元気にしてた? 私、ずっと健太のこと心配で……LINEもしたんだけど、ブロックされちゃってたみたいで」

「……そうだな。連絡を取る必要はないと思ったから」


冷たい言い方だったかもしれない。でも、事実だ。

愛の表情が強張った。彼女は俺の隣にいる凛にちらりと目をやり、すぐにまた俺へと視線を戻した。まるで凛の存在を認めたくないかのように。


「健太、少し時間ないかな? 話したいことがあるの」

「話すことなんて、もうないはずだ」

「あるよ! たくさんあるの!」


愛は急に声を荒らげ、一歩踏み込んできた。その瞳には、切迫した色が浮かんでいる。


「私、間違ってたの。加藤くんとは別れたよ。あんな人、全然良くなかった。乱暴だし、私のことなんて全然大切にしてくれなかった」


彼女は早口でまくし立てた。


「あの時、私、どうかしてたんだと思う。刺激とか、ドキドキとか、そんなの一時の迷いだったの。本当に大切なものが何なのか、失って初めて気づいたの。健太がどれだけ優しかったか、どれだけ私を愛してくれてたか……今なら分かるの」


愛の目から、涙が溢れ出した。それは演技には見えなかった。本当に後悔し、傷つき、救いを求めているのだろう。だが、その涙を見ても、俺の心は不思議なほど凪いでいた。かつてなら、彼女の涙を見るだけで胸が張り裂けそうになったはずなのに。


「だから、お願い。もう一度やり直したいの。私、健太のためなら何だってする。これからは真面目になるし、健太の言うことだって聞くから……!」


彼女は俺の手を掴もうと手を伸ばしてきた。

俺はその手を、静かに避けた。


愛の手が空を切り、行き場を失って震えている。


「……健太?」

「悪いけど、愛。その話には乗れない」

「なんで? まだ怒ってるの? それとも、許せない?」

「怒ってないよ」


俺は静かに首を横に振った。


「怒りなら、もうとっくに消えた。悲しみも、薄れたよ。ただ……何かが冷めてしまったんだ」

「冷めた……?」

「ああ。お前が言ったんだろ。『退屈』だって。『重い』って」


愛はハッと息を呑んだ。自分の放った言葉が、今になって刃となって返ってきたことに気づいたのだろう。


「あれは……その場の勢いで……」

「勢いでも、本音だったはずだ。お前は俺の誠実さを『退屈』だと感じ、俺の愛情を『重荷』だと感じた。それは事実だ。そして、俺も気づいたんだ。俺の愛を『重い』と感じる相手と、一生を共にすることはできないって」


俺は言葉を選びながら、淡々と告げた。

復讐心からではない。ただ、今の俺が感じている真実を伝えるためだ。


「お前が加藤とどうなったかは知らない。酷い目に遭ったのかもしれない。それは同情するよ。でも、だからといって、俺がその傷を癒やすための道具に戻る義理はないんだ」

「道具だなんて……そんなつもりじゃないよ! 私はただ、健太が好きなだけなの!」

「好き? それは、今の自分が寂しいからだろ? 都合のいい避難場所が欲しいだけだろ?」


俺の指摘に、愛は言葉を詰まらせた。図星だったのだ。彼女は俺を愛しているのではなく、かつて俺が与えていた「安全な場所」を愛しているに過ぎない。


「違う……違うよ……」


愛は首を振り続けたが、その声には力がなかった。


俺は大きく息を吐き出し、隣に立つ凛の方を見た。彼女はずっと無言で、俺の判断を見守ってくれていた。その信頼が、俺に勇気を与えてくれる。


「愛、紹介するよ」


俺は凛の肩に手を回し、引き寄せた。凛は少し驚いた顔をしたが、すぐに俺の意図を汲み取り、背筋を伸ばして愛と向き合った。


「こちらは、松下凛さん。俺の、大切なパートナーだ」

「え……」


愛の目が大きく見開かれた。信じられないものを見るような目で、凛と俺を交互に見ている。


「パートナー……? 彼女、ってこと?」

「ああ。そうだ」

「嘘……だって、健太、まだ別れて半年だよ? そんなすぐに、次の人なんて……」

「早くはないさ。俺がどん底にいた時、手を差し伸べてくれたのが彼女だった。俺の『重さ』を受け止め、俺の『真面目さ』を肯定してくれた」


俺は凛の手を取り、愛に見せつけるように握りしめた。凛の手は温かく、力強く握り返してくれた。


「俺は今、彼女と新しい未来を歩き始めている。そこにお前の居場所はないんだ」


決定的な一言だった。

愛の顔から血の気が完全に引いた。彼女はよろめくように一歩後退り、口元を震わせた。


「そん、な……。じゃあ、私は? 私はどうすればいいの?」

「それは、自分で考えることだ」


俺は突き放すように言った。


「自分で選んだ道だろ。加藤を選んで、俺を捨てた。その結果がどうであれ、その責任を負うのはお前自身だ。誰かに助けてもらうんじゃなくて、自分で立ち上がらなきゃいけないんだよ」

「健太……」

「もう行こう、凛」


これ以上話しても、堂々巡りになるだけだ。俺は凛を促し、歩き出そうとした。


「待って!」


愛が悲鳴のような声を上げた。


「嫌だよ! 行かないで! 一人にしないで!」


彼女は俺のコートの袖を掴んだ。その力は必死で、爪が食い込むほどだった。


「私、一人ぼっちなの。友達もいないし、バイトも辞めちゃったし、親とも喧嘩して……健太しかいないの! お願い、捨てないで!」


なりふり構わない懇願。通りすがりの学生たちが、何事かと振り返る。かつてのプライドの高かった彼女からは想像もできない姿だ。

哀れだと思った。

でも、それだけだった。


俺は静かに、しかし力強く、彼女の手を振りほどいた。


「俺が捨てたんじゃない。お前が、俺を捨てたんだ」

「あ……」


愛の手が力なく垂れ下がった。


「さようなら、愛。元気で」


それが、俺が彼女にかける最後の言葉だった。

俺は前を向き、凛の手を引いて歩き出した。


二人の靴音が、石畳に響く。

カツ、カツ、カツ。

その音は、俺たちが未来へ進む秒針のようにも聞こえた。


愛の嗚咽が背後から聞こえた気がした。だが、俺は一度も振り返らなかった。振り返れば、同情という名の未練に足をすくわれるかもしれない。そんな甘さは、もう捨てた。隣には、俺を信じてくれる人がいる。彼女の手を離すわけにはいかないのだ。


しばらく歩いた後、キャンパスの喧騒から離れた場所で、凛がぽつりと口を開いた。


「……良かったの?」

「何が?」

「あんなに泣いてたわよ。少し、言い過ぎたんじゃない?」

「いや、あれくらい言わないと伝わらないから。それに、今の俺には君がいる。過去に引きずられている暇はないんだ」


俺が真っ直ぐに答えると、凛は顔を赤らめ、マフラーに顔を埋めた。


「……調子いいこと言っちゃって」

「本心だよ」


俺は彼女の手を握る力を少し強めた。

ふと見上げると、空は澄み渡るような青色をしていた。雲ひとつない、突き抜けるような青。半年前の雨空が嘘のようだ。


「鍋、何入れる? 俺、豆腐多めがいいな」

「私はキノコ類をたくさん入れたいわ。出汁が出るし」

「いいね。じゃあ、スーパー寄ってこうか」


俺たちは日常会話に戻り、夕暮れの街へと溶け込んでいった。

背後には、もう何もない。

さよならの残響は風にかき消され、ただ二人の明日の足音だけが、確かに響き続けていた。


***


キャンパスに取り残された愛は、その場に崩れ落ちていた。

冷たい石畳の感触が、膝を通して伝わってくる。行き交う学生たちの視線が痛い。「何あれ」「修羅場?」そんな囁き声が聞こえるが、顔を上げることができない。


「なんで……」


涙が止まらなかった。化粧が落ち、顔はぐしゃぐしゃだろう。でも、そんなことを気にする余裕もなかった。


健太は行ってしまった。

あんなに優しかった彼は、もうどこにもいない。彼の隣には、私の知らない女がいて、私に向けられていたはずの笑顔を彼女に向けていた。


「私の場所だったのに……」


悔しさと、惨めさと、どうしようもない喪失感。

自分が何をしてしまったのか、今更ながら痛感していた。


「退屈」なんて言わなければよかった。

加藤の誘いに乗らなければよかった。

あの日の写真がなければ。

いや、もっと前から、私は間違っていたのだろうか。


健太の「真面目さ」は、退屈なんかじゃなかった。それは、何よりも得難い「誠実さ」という宝石だったのだ。それを私は、安っぽいガラス玉と勘違いして、ドブに捨ててしまった。そして、私がガラス玉だと思って拾った「刺激」は、ただの破片で、私の手を血だらけにしただけだった。


「自業自得、か……」


健太の冷たい目が脳裏に焼き付いている。


『お前が、俺を捨てたんだ』


その通りだ。私は自分で自分の幸せを壊した。被害者ぶっていたけれど、本当の加害者はずっと私だったのだ。


立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

世界が灰色に見える。これからどうすればいい? 加藤もいない。健太もいない。友達も離れていった。誰からも必要とされていない自分。


寒気がした。物理的な寒さだけではない。孤独という絶対零度の風が、心の空洞を吹き抜けていく。


「寒いよ、健太……」


もう二度と、その名前を呼んでも返事は返ってこない。

私の手は冷たいままだ。温めてくれる人はもういない。


愛は震える手で地面をつき、なんとか立ち上がった。

ふらつく足取りで、あてもなく歩き出す。

どこへ行けばいいのか分からない。ただ、この幸せそうな学生たちで溢れるキャンパスから逃げ出したかった。


夕日が沈み、影が長く伸びる。

愛の影だけが、独りぼっちで、どこまでも長く、暗く伸びていた。


その背中は小さく、誰が見ても痛々しいほどに孤独だった。

彼女の春は終わり、長く厳しい冬が始まろうとしていた。

それが、彼女が選んだ「自由」の代償であることを、彼女自身が一番よく理解していた。

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