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第3話 雨上がりの兆し

カーテンの隙間から差し込む光さえ、今の俺には億劫だった。部屋の中は薄暗く、空気は淀んでいる。窓の外では、朝から降り続く雨がアスファルトを叩く音が響いていた。その単調なリズムだけが、止まってしまった俺の時間の中で唯一動いているものだった。


大学に行かなくなって、もう三日が経つ。

スマホの電源は切ったままだ。翔が心配して連絡をくれているのは分かっているが、誰とも話したくなかったし、誰の顔も見たくなかった。ましてや、SNSを開いて愛の痕跡を目にするなんて、自殺行為に等しい。


「……はあ」


重い溜め息を吐き、俺はベッドの上で寝返りを打った。シーツが擦れる音が、静寂な部屋に大きく響く。

目を閉じると、瞼の裏にあの夜の光景が焼き付いている。ファミレスの無機質な照明。愛の冷ややかな視線。「退屈」「重い」という言葉の刃。それらが何度もリフレインし、俺の心を抉り続けていた。


五年間。その月日の重みが、今は呪いのようにのしかかる。俺が積み上げてきた信頼も、将来への展望も、彼女にとっては「重荷」でしかなかったのだ。俺という人間の存在そのものを否定されたような虚無感が、身体の自由を奪っていた。食事も喉を通らず、ただコンビニで買ったゼリー飲料を啜るだけの生活。鏡を見るのも怖かった。そこには、生気を失い、抜け殻のようになった情けない男が映っているに違いないからだ。


ピンポーン。


突然、静寂を破る電子音が鳴り響いた。俺は身体をびくりと震わせ、布団を頭まで被った。

翔だろうか。それとも、まさか愛が戻ってきたのか?

いや、あり得ない。あんな捨て台詞を吐いて去っていった彼女が、今さら俺を訪ねてくるはずがない。じゃあ、翔か。あいつなら、俺が大学に来ないのを心配して、家まで乗り込んでくる可能性は十分にある。


居留守を使おう。

そう決めて息を潜めていると、再びチャイムが鳴った。今度は少し長めに。


「……佐藤くん? いる?」


インターホン越しに聞こえてきたのは、予想外の声だった。低くはないが、落ち着いた理知的な響きを持つ女性の声。愛の声とは違う、もっと静かで、凛とした声。


ゼミの、松下凛だ。


なぜ彼女が? 混乱する頭で記憶を手繰り寄せる。そういえば、俺たちは同じ班で共同研究のレポートを進めていたはずだ。俺が休んでいるせいで、進捗が滞っているのかもしれない。迷惑をかけている。その事実が、罪悪感となって胸を突いた。


無視するわけにはいかない。翔ならともかく、松下さんにまで迷惑をかけるわけにはいかない。真面目だけが取り柄だった俺の、最後の理性が身体を動かした。


俺は重い身体を引きずり、玄関へと向かった。ドアノブに手をかけると、冷たい金属の感触が掌に伝わる。深呼吸を一つして、俺はゆっくりとドアを開けた。


「……はい」


ドアの向こうには、ビニール傘を畳んだ松下凛が立っていた。紺色のレインコートに身を包み、少し濡れた黒髪が白い肌に張り付いている。彼女は俺の顔を見ると、驚いたように一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。


「急にごめんなさい。連絡がつかなかったから」

「あ……ごめん。スマホ、切ってて」


俺の声は酷く掠れていた。喉が渇ききっていることに、今更ながら気づく。


「そう。体調、悪いんでしょう? 三浦くんから聞いたわ」


翔のやつ、適当に誤魔化してくれたのか。それとも、何か察して松下さんが来てくれたのか。どちらにせよ、俺の今の姿を見れば「体調不良」という言葉に説得力が生まれるのは間違いない。無精髭にボサボサの髪、窪んだ目。誰が見ても病人だ。


「うん、ちょっとね。……それで、何か?」

「ゼミの資料。今日配られたレジュメと、来週の発表に関するメモ。これがないと、佐藤くん困ると思って」


彼女は抱えていた鞄から、クリアファイルを取り出した。雨に濡れないように丁寧にビニール袋で包まれている。その気遣いが、弱った心に沁みた。


「わざわざ、ありがとう。悪いね、雨の中」


受け取ろうと手を伸ばしたが、指先が微かに震えているのが自分でも分かった。松下さんの視線が、俺の手元に注がれる。


「……顔色が悪いわね」

「え? ああ、まあ、熱があってさ」

「嘘ね」


彼女は短く言い切った。責めるような口調ではない。ただ事実を淡々と指摘するような、温度のない声だった。


「熱がある人の顔じゃない。もっと、別の……深い消耗をしている顔よ」


ドキリとした。彼女の瞳は、まるで心の奥底まで見透かすように澄んでいる。愛のことで嘘をつかれ、人間不信になりかけていた俺にとって、その真っ直ぐすぎる視線は痛いと同時に、どこか救いのようにも感じられた。


「……立ち話もなんだし、入る?」


俺は自分でも驚くような言葉を口にしていた。散らかった部屋を見られたくないという羞恥心よりも、この雨音だけの孤独な空間に、誰かの体温を感じたいという欲求が勝ったのかもしれない。


松下さんは少し考え込むように視線を落としたが、やがて小さく頷いた。


「お邪魔します。少しだけ、雨宿りさせて」


部屋に通すと、彼女はレインコートを脱ぎ、丁寧に畳んで玄関に置いた。部屋の中は酷い有様だった。飲みかけのペットボトル、脱ぎ散らかした服、読みかけの本。俺は慌ててテーブルの上にあるものを端に寄せ、スペースを作った。


「ごめん、汚くて」

「気にしないで。男の一人暮らしなんて、こんなものでしょう」


彼女は気にする素振りも見せず、座布団に正座した。その所作が美しく、場違いなほどに部屋の空気を引き締める。俺はキッチンへ逃げ込み、震える手でお湯を沸かした。カップなど気の利いたものはないので、マグカップにティーバッグの紅茶を入れる。


「どうぞ」

「ありがとう」


湯気の立つカップを挟んで、俺たちは向かい合った。窓の外の雨音は相変わらず激しい。沈黙が落ちるが、不思議と居心地の悪さはなかった。彼女が無理に会話を繋ごうとせず、ただ静かに紅茶を啜っていたからかもしれない。


「……佐藤くん」


カップを置き、彼女が口を開いた。


「無理して大学に来なくていいわよ」

「え?」

「ゼミのことは心配しないで。班の発表は、私がフォローしておくから。教授にも、しばらく体調不良で休むって伝えておいたわ」

「いや、でも……それは申し訳ないよ。俺の担当分だってあるし」

「今は、休むべき時なんじゃない?」


彼女の言葉は、確信めいていた。


「何があったかは聞かない。でも、今の状態で無理をしても、何も生まれないわ。壊れた機械を無理やり動かしても、傷口が広がるだけよ」


壊れた機械。まさに今の俺だ。愛に「退屈」というレッテルを貼られ、廃棄処分された欠陥品。


「……俺、自分が分からなくなったんだ」


気がつくと、俺はポツリと漏らしていた。誰にも言えなかった本音が、彼女の静かな空気に誘われるように溢れ出した。


「真面目にやってきたつもりだった。相手のことを大切にして、誠実に生きていれば、報われると思ってた。でも、それじゃダメだったみたいだ。俺の生き方は、ただの『退屈』で、『重い』だけだったんだって」


一度口火を切ると、止められなかった。愛の名前こそ出さなかったが、自分が否定された経緯、信じていたものが崩れ去った絶望感を、途切れ途切れに語った。情けない話だ。クラスメイトの女子に、こんな女々しい愚痴を聞かせるなんて。でも、松下さんは口を挟まず、茶化すこともなく、ただジッと俺の話を聞いてくれた。


一通り話し終えた後、俺は深く項垂れた。


「ごめん。変な話して。忘れてくれ」

「……私もね、似たような経験があるの」


彼女の言葉に、俺は顔を上げた。松下さんは遠くを見るような目で、湯気の向こう側を見つめていた。


「昔、すごく大切に思っていた人がいたの。その人のために私は変わろうとしたし、その人が望むような人間になろうと努力した。でも、ある日突然、いなくなってしまったわ」

「いなくなったって……別れたの?」

「ええ、まあ。形としてはね。理由は違えど、残された感覚は同じだと思う。自分の半分をもぎ取られたような、世界の色が全部抜け落ちてしまったような感覚」


彼女の言葉は、今の俺の心情そのものだった。あの冷静沈着な松下さんに、そんな過去があったなんて想像もしていなかった。彼女の持つどこか影のある雰囲気は、その喪失から来ているのだろうか。


「どうやって……立ち直ったの?」


縋るように尋ねると、彼女は寂しげに微笑んだ。


「完全に立ち直ってなんていないわ。ただ、受け入れただけ。喪失も、痛みも、私の一部なんだって。無理に忘れようとしたり、元通りになろうとしたりするのはやめたの」


彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「佐藤くん。あなたは真面目で、優しい人よ。それは決して『退屈』なんかじゃない。その誠実さは、誰かにとっての救いになるはずだわ」

「……救い?」

「ええ。少なくとも、私はゼミであなたのそういう姿勢に助けられている。資料の準備も、議論の進め方も、いつも丁寧で安心感がある。それは、あなたの美徳よ。誰かに否定されたからって、あなた自身が価値のない人間になるわけじゃない」


胸の奥が熱くなった。

誰かに肯定されたかった。俺の五年間は無駄じゃなかったと、俺という人間は間違っていなかったと、誰かに言って欲しかったのだ。それを、まさか松下さんが言ってくれるなんて。


「……ありがとう」


涙声にならないように必死に堪えながら、俺は言った。


「その言葉だけで、少し救われた気がする」

「そう。なら、来た甲斐があったわ」


彼女はカップに残った紅茶を飲み干すと、ふぅと息を吐いた。その瞬間、彼女の纏っていた凛とした空気が少し緩み、年相応の柔らかな表情が覗いた気がした。


ふと気づくと、窓の外の雨音が小さくなっていた。激しく打ち付けていた雨粒は小雨に変わり、雲の切れ間から薄っすらと陽の光が漏れ始めている。


「雨、止みそうね」


松下さんが窓を見上げて言った。


「本当だ……。予報じゃ一日中降るって言ってたのに」

「天気予報も外れることがあるわ。人の気持ちと同じで、変わらないものなんてないのかもしれないわね」


彼女は立ち上がり、玄関のレインコートを手に取った。


「さて、そろそろ行くわ。長居しちゃってごめんね」

「いや、こっちこそ。わざわざ来てくれて、話まで聞いてもらって……本当にありがとう」


玄関まで見送る。彼女は靴を履き、ドアノブに手をかけたところで振り返った。


「佐藤くん。来週のゼミ、もし来られそうなら来てね。あなたの意見、参考にしたいから」

「……うん。努力するよ」

「無理はしないで。でも、待ってる」


その「待ってる」という言葉が、俺の背中をそっと押してくれたような気がした。


ドアが閉まり、再び部屋に静寂が戻ってきた。だが、先ほどまでの重苦しい空気とは何かが違っていた。澱んでいた空気が換気され、新しい風が吹き込んだような清々しさがある。


俺はテーブルの上に置かれたクリアファイルを手に取った。中には、几帳面な字で書かれた講義のメモと、付箋がたくさん貼られたレジュメが入っていた。付箋の一つ一つに、『ここはテストに出そう』『ここは佐藤くんの得意分野かも』といったコメントが書き込まれている。


その文字を見ていると、自然と涙が滲んできた。

愛が残した傷跡はまだ深く、痛む。失ったものは大きすぎて、すぐには埋まらないだろう。けれど、世界は俺が思っているほど冷たくはないのかもしれない。


俺はキッチンへ行き、マグカップを洗った。

そして洗面台の鏡の前に立ち、自分の顔を見た。相変わらず酷い顔だ。でも、瞳の奥には、わずかながら光が戻っているように見えた。


「……髭、剃るか」


独り言のように呟き、俺はシェーバーを手に取った。

雨上がりの街に、夕日が差し込んでいる。窓ガラスの水滴が、オレンジ色に輝いていた。

明日は、久しぶりに外の空気を吸ってみようかと思う。まずはそこから、一歩ずつ。


俺の止まっていた時間が、ゆっくりと、軋みながらも再び動き出そうとしていた。

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