第2話 残酷な告白
駅前のロータリーを抜けると、馴染みのカフェチェーンの看板が見えてきた。ガラス張りの店内は暖色系の照明に照らされ、楽しげに談笑する客たちの姿がシルエットとなって浮かび上がっている。本来なら、この温かな光景は俺にとって安らぎの象徴だったはずだ。バイト終わりの愛を迎えに来て、二人で温かいコーヒーを飲みながら一日の出来事を語り合う。そんな些細な時間が、俺の生活の中心にあった。
だが今、その光景は不気味なほどに冷たく、俺を拒絶しているように見えた。
「健太、大丈夫か?」
隣を歩く翔が、俺の顔を覗き込むようにして声をかけてきた。俺は無言で頷くことしかできなかった。大丈夫なはずがない。心臓は早鐘を打ち続け、手足の先は氷のように冷たい。胃のあたりに鉛のような重りが沈んでいて、一歩足を踏み出すたびに鈍い痛みが走る。
「あそこにいるな」
翔の視線を追うと、カウンターの中で働く愛の姿があった。髪を後ろで一つに束ね、笑顔で客にコーヒーを手渡している。その笑顔は、俺が知っている「愛」そのものだった。優しくて、明るくて、周りをパッと照らすような笑顔。
本当に、あの子が裏切ったのか?
再び迷いが頭をもたげる。あんなに屈託なく笑える人間が、恋人を裏切り、他の男と体を重ねているなんて信じたくない。もしかしたら、写真は何かの間違いで、すべては悪い夢なんじゃないか。そう思いたかった。
「……行くぞ」
翔が俺の背中を叩いた。その強引さに救われるように、俺は重い足を引きずってカフェの入り口へと向かった。自動ドアが開き、コーヒーの香ばしい香りと共に、店内の喧騒が押し寄せてくる。
「いらっしゃいませー!」
明るい声が響く。愛の声だ。彼女は入ってきた客が俺たちだと気づくと、一瞬目を見開き、そしてすぐに表情を強張らせた。その反応の早さが、俺の心に突き刺さった。やましいことがなければ、そんな風に顔色を変える必要はないはずだ。
「け、健太? どうしたの、急に」
カウンター越しに、愛が困惑したように問いかけてきた。その声は普段より少し上擦っている。周囲のバイト仲間も、不穏な空気を察したのか、少し離れた場所からこちらの様子を窺っているのがわかった。
「……話があるんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「今、時間作れるか?」
「え、でも私、まだシフト中だし……」
愛は視線を彷徨わせ、逃げ道を探すように店内を見渡した。
「休憩、もう一回取れるだろ? あるいは店長に頼んで早上がりさせてもらえ。緊急事態だって言えばいい」
翔が横から割り込んだ。その声には隠しきれない刺々しさがあり、愛はびくりと肩を震わせた。翔の鋭い視線に射抜かれ、彼女は観念したように小さく息を吐いた。
「わかった……ちょっと待ってて。店長に言ってくる」
愛は逃げるようにバックヤードへと消えていった。残された俺たちは、店内の隅にある空席に腰を下ろした。テーブルの木目を見つめながら、俺はただ時間の経過を待った。秒針の音が聞こえてきそうなほど、長く、重苦しい時間だった。
十分ほどして、私服に着替えた愛が戻ってきた。淡いブルーのワンピースに、白いカーディガン。それは俺が去年の誕生日に贈ったものだった。それを見ているだけで、胸が締め付けられる。
「……場所、変えよっか」
愛は俺と翔の顔を交互に見ながら、小さな声で言った。ここじゃ話せない、という無言の訴えだ。俺たちは無言で頷き、店を出た。
向かったのは、駅から少し離れた場所にある深夜営業のファミリーレストランだった。平日の夜ということもあり、店内は空いている。俺たちはドリンクバーに近いボックス席に座った。俺と翔が並んで座り、愛がその向かい側に座る。
テーブルの上に置かれたアイスコーヒーのグラスが、汗をかいて水滴を垂らしている。誰も口を開こうとしない。重苦しい沈黙が、空気の密度を高めていくようだった。
「で、話って何?」
沈黙に耐えかねたように、愛が口を開いた。その口調は、どこか居直ったような、攻撃的な響きを含んでいた。
翔が俺の膝をテーブルの下で小突き、目で合図を送ってきた。「お前が言え」という合図だ。俺は深呼吸をし、震える手でスマホを取り出した。
「これ……何?」
画面に表示させた写真を、テーブルの中央に滑らせる。
西麻布の路上。男に寄り添い、艶めいた表情で笑う愛の姿。
愛の視線が画面に落ちた瞬間、彼女の顔から血の気が引いていくのがわかった。瞳孔が揺れ、唇が微かに震える。
「……これ」
「昨日の夜だよね。サークルの飲み会って言ってたけど、本当は違ったんだろ?」
俺はできるだけ冷静に問いかけようとしたが、声の震えはどうしても隠せなかった。
「この男、加藤だろ? 翔から聞いたよ。お前、こいつとどういう関係なんだ?」
愛は答えない。視線をテーブルに落とし、両手を膝の上で固く握りしめている。その沈黙こそが、何よりの肯定だった。
「愛、答えてくれよ。誤解なら誤解だって言ってくれ。俺は、お前を信じたいんだ。信じさせてくれよ……!」
俺の悲痛な叫びが、店内に小さく響いた。近くの席にいた客がこちらをちらりと見たが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
愛はゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が溜まっていたが、それは懺悔の涙というよりは、追い詰められた子供のような、怯えと諦めが混じったものに見えた。
「……ごめん」
小さな、蚊の鳴くような声だった。
「嘘ついてた。昨日は、加藤くんと一緒だった」
世界が音を立てて崩れ落ちた。
予想はしていた。覚悟もしていたつもりだった。けれど、実際に彼女の口からその事実を聞かされる衝撃は、想像を絶するものだった。内臓を素手で握り潰されたような激痛が走り、目の前が真っ暗になる。
「なんで……」
言葉が続かない。喉が詰まり、呼吸が苦しい。
「俺たち、うまくいってたじゃないか。ずっと一緒だって、約束したじゃないか。なんで、あんな奴と……」
「あんな奴って言わないでよ!」
突然、愛が声を張り上げた。その豹変ぶりに、俺と翔は息を呑んだ。さっきまでの怯えた様子はどこへやら、彼女の瞳には強い反抗の色が宿っていた。
「健太にはわからないよ。加藤くんの魅力なんて」
「はあ? 何言ってんだお前」
翔が呆れたように口を挟んだ。
「加藤なんて、ただの女好きのクズだぞ。お前みたいなのを騙して遊んでるだけだ。そんなこともわかんねえのかよ」
「翔くんは黙ってて!」
愛は翔を睨みつけ、それから再び俺へと視線を戻した。その目は、かつて俺に向けていた慈愛に満ちたものではなく、どこか冷ややかで、見下すような光を帯びていた。
「健太はさ、優しすぎるの」
「え……?」
「優しいし、真面目だし、私のことを一番に考えてくれる。それはわかってる。でもね、それだけなの。五年も付き合ってれば、何もかもが予想通りで、安心感はあるけど……退屈なんだよ」
退屈。
その二文字が、俺の心臓に深く突き刺さった。俺が大切にしてきた「安定」や「信頼」は、彼女にとっては単なる「退屈」でしかなかったのか。
「加藤くんは違うの。強引で、私のことなんて全然考えてくれなくて、振り回されてばかり。でも、だからこそドキドキするの。私、自分がこんな風になれるなんて知らなかった。ただの『健太の彼女』じゃなくて、一人の女として求められてるって感じがして……」
愛はまるで夢を見るように語り出した。その表情は、写真の中で見せていたものと同じ、俺の知らない「女」の顔だった。
「刺激が、欲しかったの。平凡な幸せだけじゃ、埋まらないものがあったの」
「ふざけんなよ……」
翔が低い声で唸り、テーブルを拳で叩いた。
「そんな理由で、健太を裏切ったのか? こいつがお前のためにどれだけ尽くしてきたか、知ってるだろ? 就活だって、お前との将来を考えて地元に残る選択をしたんだぞ。それをお前は、刺激だのドキドキだのって……馬鹿じゃねえのか」
「翔、やめろ」
俺は翔を制した。怒りは理解できる。俺だって叫び出したいほど腹が立っている。だが、それ以上に、どうしようもないほどの虚しさが胸を支配していた。
「愛」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「本気なのか? その、加藤って奴のことが、俺よりも大事なのか?」
愛は唇を噛み、視線を逸らした。
「……わからない。でも、今は加藤くんと一緒にいたい。健太とは、もう……」
「待ってくれ」
俺は思わず身を乗り出した。このままでは終わってしまう。五年間積み上げてきたすべてが、この瞬間に無になってしまう。それはあまりにも理不尽で、受け入れがたい現実だった。
「一回の過ちなら、許すよ。人間なんだから、魔が差すことだってあるだろう。だから、もう二度と会わないって約束してくれるなら、俺は……」
そこまで言って、自分がいかに惨めなことを言っているか気づいてしまった。浮気された側が、なぜ必死に懇願しているんだ。だが、プライドなんてどうでもよかった。愛を失う恐怖に比べれば、惨めさなんて些細なことだ。
しかし、愛の反応は残酷なものだった。彼女は悲しげに首を横に振ったのだ。
「違うの、健太。許すとか許さないとか、そういう話じゃないの」
「どういうことだよ」
「健太のそういうところが、重いの」
重い。
また一つ、決定的な言葉が投げつけられた。
「すぐに『許す』とか『将来』とか、そういう風に全部背負い込もうとするところが、息苦しいの。私はもっと自由に、自分の感情のままに生きたい。健太と一緒にいると、自分がすごく悪い人間みたいに思えてきて……辛いの」
彼女の言葉は、論理的ではなかった。身勝手な自己正当化に過ぎない。けれど、だからこそ反論の余地がなかった。感情論で拒絶されたら、理屈で説得することなどできない。
「じゃあ、別れるって言うのか?」
俺の声は掠れ、消え入りそうだった。
愛は一度大きく息を吸い込み、そしてはっきりと言った。
「うん。別れてほしい」
テーブルの上の氷が溶けて、カランと音を立てた。
それが終わりの合図だった。
「……そうか」
俺は力なく背もたれに体を預けた。全身の力が抜け、指一本動かせないような感覚に襲われる。
「おい、ちょっと待てよ愛ちゃん」
翔が食い下がろうとしたが、俺はそれを手で制した。
「もういいよ、翔。……もう、いいんだ」
これ以上すがっても、傷口を広げるだけだ。彼女の心はもうここにはない。俺の言葉も、想いも、彼女には届かない。その事実を、痛いほど理解させられてしまった。
愛は立ち上がった。
「ごめんね、健太。今までありがとう。……幸せになってね」
その言葉が、最後のトドメだった。自分勝手に裏切り、傷つけ、その挙句に「幸せになってね」なんて、どの口が言えるんだ。あまりの身勝手さに、怒りを通り越して笑いが込み上げてきそうだった。
愛は伝票を掴むことなく、そのまま店を出て行った。自動ドアが開閉する音が、俺たち二人の間に虚しく響く。
残されたのは、溶けかけたアイスコーヒーと、抜け殻のようになった俺、そしてやり場のない怒りを抱えた翔だけだった。
「健太……」
翔が俺の肩に手を置いた。その手は温かかったが、俺の凍りついた心を溶かすには足りなかった。
「最低だな、あいつ」
翔が吐き捨てるように言った。
「刺激が欲しい? 重い? ふざけんなよ。自分が浮気したのを正当化するために、お前を悪者にして逃げただけじゃねえか」
「……ああ、そうだな」
俺は天井を見上げた。ファミレスの無機質な照明が、滲んで見える。
「わかってたよ、翔。あいつが弱い人間だってことは、昔から知ってた。でも、俺が守ってやればいいと思ってた。俺が支えてやれば、あいつは真っ直ぐ歩けると思ってたんだ」
それは傲慢だったのかもしれない。彼女は守られることを望んでいなかった。俺の庇護の下にいることに、窒息しそうになっていたのかもしれない。けれど、だからといって、この裏切りが許されるわけではない。
「悔しいな……」
涙が頬を伝い落ちた。一度溢れ出すと、もう止まらなかった。
「悔しいよ、翔。俺の五年間は、なんだったんだよ……」
俺は両手で顔を覆い、子供のように泣いた。周囲の視線など気にならなかった。ただ、胸に開いた巨大な穴から、大切なものがすべて流れ出していくような喪失感に耐えることしかできなかった。
翔は何も言わず、ただ黙って俺の背中をさすり続けてくれた。その無言の優しさだけが、今の俺にとって唯一の救いだった。
どれくらい時間が経っただろうか。涙が枯れ果てる頃、俺はふらつく足取りで店を出た。
外は完全に夜になっていた。街灯の明かりが、アスファルトに俺たちの影を長く伸ばしている。
「送ってくよ」
翔が言った。
「いや、いい。一人で帰る」
「でも……」
「大丈夫だ。これくらい、一人で歩ける」
俺は無理やり口角を上げて笑ってみせた。それがひどく歪んだ笑顔になっていることは、自分でもわかった。翔は心配そうな顔をしていたが、俺の頑なな態度を見て、それ以上は食い下がらなかった。
「わかった。……無理すんなよ。何かあったら、いつでも電話しろ」
「ああ、ありがとう」
翔と別れ、俺は一人で夜道を歩き出した。
いつもの帰り道。愛と手をつないで歩いた道。コンビニの角を曲がると、彼女が好きだったアイスののぼりが見える。公園のベンチには、二人で座って将来の話をした記憶が焼き付いている。
街のいたるところに、彼女の残像があった。
風の匂いも、街の明かりも、すべてが彼女を思い出させる。
「さよなら……」
誰もいない夜空に向かって、俺は小さく呟いた。
その言葉は、誰にも届くことなく、夜の闇に吸い込まれて消えた。
心に残ったのは、愛が最後に言い放った「刺激が欲しかった」という言葉と、俺の心臓を抉り取ったような深い空虚感だけだった。明日から、俺はどうやって生きていけばいいのだろうか。今はまだ、その答えは見つかりそうになかった。
ただ、冷たい風が、涙で濡れた頬を乾かしていくだけだった。




