静かな違和感
午後の診療所は、朝とは違う静けさに包まれていた。
人の出入りは減ったのに、空気は軽くならない。
むしろ、沈殿した疲労が、壁や床に薄く張り付いているようだった。
リナは器具を拭きながら、ふと手を止める。
指先に残る微かな痺れ。
治療の負荷ではない。
もっと、嫌な感覚だった。
「……おかしい」
小さく呟いた声は、誰にも届かずに消える。
今日診た患者たち。
症状は違うのに、共通点があった。
回復が、遅すぎる。
治療は間違っていない。
判断も、処置も、これまでと変わらない。
それなのに、身体が拒むように、力が戻らない者がいる。
カイは入口付近で、外の様子を見ていた。
通りを歩く人々の足取りは、どこか重い。
笑い声はある。
けれど、目が笑っていない。
「街、変だな」
独り言のような声。
リナは顔を上げ、静かに頷いた。
「うん。森とは違う“疲れ”がある」
それは魔物の気配でも、呪いでもない。
もっと曖昧で、もっと厄介なもの。
積み重なった不安と、終わらない我慢。
逃げ場のない生活が、少しずつ人を削っている。
夕方、ひとりの少年が運び込まれた。
外傷はない。
熱もない。
なのに、意識が薄く、呼吸が浅い。
母親は泣きそうな顔で、何度も謝った。
無理をさせたわけじゃない。
ただ、働きすぎただけ。
ただ、それだけなのに。
リナは少年の手を握る。
冷たくはない。
でも、生きる力が、指の先からこぼれていくようだった。
「大丈夫。ちゃんと戻るから」
言い聞かせるように、優しく。
祈りではない。
約束だ。
夜が近づく頃、街の灯りがひとつ、またひとつと灯る。
柔らかな光が、影を長く伸ばす。
その影は、人の形をしていながら、どこか歪んでいた。
診療所を閉めた後、屋上に出る。
風が気持ちよく、昼の熱をさらっていく。
リナは柵にもたれ、遠くの空を見た。
星は見えない。
雲が低く垂れ込めている。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「この街、守られてない気がする」
カイはすぐに答えなかった。
ただ、同じ空を見上げる。
「……誰かが守る前提で、成り立ってた街なんじゃないか」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
守る者がいなくなった時、
街は、こんなふうに疲れていくのかもしれない。
風が吹き、雲が少しだけ流れる。
一瞬、月明かりが覗いた。
それは綺麗で、でもどこか冷たい光だった。
リナは知らない。
この違和感が、やがて“選択”を迫るものになることを。
そして、この街での決断が、次の戦いへ繋がっていくことを。
夜は、まだ静かだ。
けれど、確実に、何かが目を覚まし始めていた。




