英雄と敗残者
シーン1:王都からの使者
戦いが終わった後、アイギスを包んでいたのは、死のような静寂だった。
街の誰もが、巨大な落とし穴の底を、あるいは城壁の上に立つ一人の男の背中を、信じられないものを見る目で見つめていた。
その静寂を最初に破ったのは、誰かの嗚咽だった。
やがてそれは、一人、また一人と伝染し、最後には割れんばかりの歓声へと変わった。
「うおおおおおおおっ!!」
「やった…! 勝ったんだ!」
「アルト様! 我らの領主様、万歳!!」
人々は抱き合い、涙を流して喜びを分かち合った。その視線の先には、ただ一人、静かに街を見下ろすアルトの姿があった。彼は英雄ではなかった。ただ、愛する者たちの日常を守り抜いた、一人の誠実な男だった。
その日から数日後。
エンシェントドラゴン討伐という、王国史を揺るがすほどの報せは、瞬く間に王都を駆け巡った。そして、アイギスには、王家の紋章を掲げた壮麗な一団が到着した。
「これが…あのアイギスか。噂には聞いていたが、これほどとは…」
国王代理として派遣された宰相ダリウスは、純白の城壁と、その内側に広がる活気ある街並みを見て、驚愕の声を上げた。辺境の地に、これほど見事で、かつ機能的な城塞都市が、一人の男の手によって築かれたという事実が、にわかには信じがたかった。
領主の館で、アルトは宰相と向き合った。リリアが、緊張した面持ちでその隣に寄り添っている。
「アルト殿。この度の貴殿の功績、国王陛下に代わり、心より感謝申し上げる」
宰相は、深々と頭を下げた。
「貴殿は、ただ伝説の竜を討伐しただけではない。この王国を、未曾有の危機から救ってくださったのだ。よって、陛下は貴殿に、正当な地位と爵位をお与えになることを決断された」
宰相は立ち上がり、従者から渡された羊皮紙の勅書を恭しく広げた。
「——アルト殿を、このアイギスを含む周辺一帯を治める『辺境伯』に叙する。これより、アイギスは王国東方を守る最も重要な拠点となるだろう」
辺境伯。それは、王族に次ぐほどの高位な爵位。
アルトは驚きに目を見開いたが、やがて静かに立ち上がり、その勅書を受け取った。自分のためではない。この街で暮らす全ての人々の、未来と平和のために。
「謹んで、お受けいたします」
その瞬間、アルト・フォン・アイギス辺境伯が誕生した。かつて「無能」と蔑まれ、全てを奪われた男が、自らの手で築き上げた場所で、国を守る英雄として認められた瞬間だった。
シーン2:絶望の再会
ちょうどその頃、アイギスの城門に、三人のみすぼらしい冒険者がたどり着いていた。
ボロボロの装備、虚ろな瞳、そして全身から漂う敗北の匂い。それは、伝説への挑戦に敗れ、全てを失ったバルトロ、セリーナ、ガストンの三人に他ならなかった。
「な…んだ、ここは…」
バルトロは、目の前にそびえ立つ壮麗な城塞都市を前に、愕然と呟いた。地図では、ここはただの寂れた辺境のはずだった。
彼らは、まるで夢遊病者のように、活気に満ちた街の中へと足を踏み入れる。すれ違う人々は皆、幸福そうな顔をしている。聞こえてくるのは、街の発展を喜び、領主を称える声ばかり。
「聞いたかい? アルト様が、正式に辺境伯になられたそうだ!」
「当然さ! たった一人でエンシェントドラゴンから、この街を守ってくださったんだから!」
「ああ、我らが英雄、アルト様!」
アルト——その名を聞いた瞬間、バルトロたちの足が、まるで地面に縫い付けられたかのように止まった。
まさか。そんなはずがない。
自分たちが捨てた、あの戦闘の役に立たない雑用係が?
この巨大な街を創り、伝説の竜を討伐した英雄?
信じたくない思いとは裏腹に、彼らの脳裏に、過去の記憶が残酷なまでに蘇る。
完璧だった野営。常に最高の状態に保たれていた武具。どんな時でも的確だった支援。それら全てが、一人の男の「地味なスキル」によってもたらされていたという、あまりにも遅すぎた真実。
その時、広場がひときわ大きな歓声に包まれた。
見ると、民衆に囲まれ、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに手を振っている一人の青年がいた。隣には、幸せそうに微笑む美しい少女が寄り添っている。
——アルトだった。
自分たちが嘲笑し、見下し、追放した男が、今、国の英雄として、数万の民から喝采を浴びている。
そして自分たちは、その英雄が作り上げた平和な街で、施しを乞わねば生きていけないほどの、惨めな敗残者となっている。
「あ……あ……」
バルトロの口から、意味をなさない声が漏れた。
幼い頃に見た、あの輝く剣で自分を救ってくれた英雄の姿が、目の前のアルトに重なる。だが、アルトは剣を振るっていない。彼が振るったのは、名もなき知恵と、地道な作業の積み重ねだった。
自分が信じてきた『力』とは、一体何だったのか。
プライド、名誉、自信、彼を支えていた全てのものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
セリーナは顔を覆ってその場に泣き崩れ、ガストンはただ天を仰いで、自らの過ちの大きさに絶望していた。
彼らは、アルトに声をかけることすらできなかった。
自分たちが犯した過ちの大きさを、その代償として失ったものの価値を、この絶対的な現実の前で、ただ思い知らされるだけだった。
三人は、誰に言われるでもなく、静かに踵を返した。
そして、英雄を称える人々の歓声に背を向け、まるで存在しないかのように、雑踏の中へと消えていった。
自分たちが捨てたものが、どれほどかけがえのない宝だったのかを、その心に永遠に刻みつけながら。




