星屑の戦詩:クロノス・リベルタス双星伝
序章:永き黄昏の時代 ~歴史の幕開け~
人類がその揺籃の地、太陽系第三惑星、通称「地球」を離れ、星々の海へと乗り出してから長い年月が過ぎた。コールドスリープと亜光速航行の時代を経て、超光速航法が確立されると、人類の版図は爆発的に拡大した。無限とも思える宇宙空間へと生存圏を広げた人類社会は、しかし、その距離的・時間的な隔絶と共に統一性を失い、やがて銀河系内における二つの巨大な星間国家へと収斂し、分裂するに至った。銀河系の一角、オリオン腕にその壮麗な宮廷文化と軍事力を誇示するクロノス帝政と、ペルセウス腕を中心に多様な惑星国家が自由と共和を標榜し連合するリベルタス共和国連合である。両者は人類という単一種から派生した国家でありながら、その統治理念、社会構造、文化において、全く対照的な道を歩んでいた。
クロノス帝政は、建国以来数世紀の歴史を重ね、神格化された皇帝を終身元首として頂点に戴き、厳格な階級制度によって統治される専制君主国家であった。その首都、帝都クロノポリスは、帝国の心臓たる人工惑星であり、歴代皇帝の威光を示す壮麗な建造物が天を衝くように林立し、既知宇宙随一の威容を誇っていた。黄金と白亜で幾何学的に装飾された皇帝宮殿、天まで届けとばかりに聳える行政院の尖塔群、秩序正しく区画され、清潔に維持された市街。だが、その息を呑むような華やかさの裏には、特権を世襲する門閥貴族階級の驕慢と、それに伴う陰湿な権力闘争、そして変化を拒み過去の栄光に固執する硬直した官僚主義が、帝国の隅々にまで深く根を下ろしていた。民衆の多くは、帝国の揺るぎない秩序と(少なくとも表面的には)安定した生活という恩恵に浴する一方で、重い税負担と、生まれによって人生の道筋がほぼ決定される厳しい身分制度の軛に喘いでいた。彼らは日々の生活に追われる中で、政治への関心も、未来への希望も、徐々に、しかし確実に薄れさせていた。
『帝都のパンは固いが、配給は途絶えない。それが陛下の御恵みさ。我ら平民は、多くを望まず、ただ己の分を守って生きていけばよいのだ』
これは、当時の帝都下層市民が、故郷の家族に宛てた手紙の一節として、戦後発見された個人記録集『星屑の呟き』に収録されている。そこに込められた諦念と、体制への恭順の裏に見え隠れするわずかな皮肉は、帝国臣民の偽らざる心情を映し出していたのかもしれない。
若き皇帝マクシミリアン3世は、聡明さと改革への意欲を持つと噂されてはいたが、その玉座は未だ盤石ではなく、実権の多くは老獪にして権謀術数に長けた宰相ゲルハルト公ら保守派貴族に掌握されていた。帝国の巨大な機構は、あたかもその意志とは無関係に、ただ惰性によって、過去の栄光を引きずりながら動き続けているかのようであった。
一方、クロノス帝政による苛烈な支配と搾取に対し、独立戦争で敢然と反旗を翻して建国されたリベルタス共和国連合は、その名の通り、自由と平等を国家の基本理念として掲げていた。広大な星域から集まった、それぞれに異なる歴史と文化を持つ多様な国家・惑星が、対帝政という共通の脅威の下に連合を形成し、相互の主権を尊重しつつ運営されていた。その首都、自由首都フリーダムポートは、人工・天然の様々な形状の宇宙ステーションが寄り集まった巨大複合体であり、絶えず新しい文化、技術、そして情報が行き交う、活気と混沌に満ちた坩堝のような巨大都市であった。最高評議会による民主的な意思決定が謳われてはいたが、現実は各惑星・国家の代表が繰り広げる利権争いと、ポピュリズムに迎合する政治家たちの権力闘争の場と化し、汚職や利権誘導が後を絶たなかった。
『自由の名の下に、誰もが自由に儲け、自由に発言し、そして自由に餓える権利がある。それがこのフリーダムポートさ。だが、それでも俺は、皇帝陛下の命令一つで首が飛ぶような場所より、ずっとマシだと思うね』
首都の裏通りに軒を連ねる安酒場で、グラスを傾ける一人の宇宙商人が、同席したジャーナリストにそう語ったという逸話が残されている。理想と現実の乖離に苦しみながらも、自由への渇望を捨てきれない、連合市民の複雑な心境をそれは示唆していた。
また、建国の経緯から強大な発言力を持つ統合軍は、歴戦の勇士として名高い統合軍総司令官マードック元帥のような実力者の下で、時に政治の意向を無視して独走する傾向すら見せていた。軍内部には、政治家への不信感と、帝政への強硬論が根強く存在した。自由の名の下に経済格差は拡大し、社会不安は増大。市民の間には為政者への不信感が募り、社会全体が不安定な熱気を帯びていた。
両国の間には、独立戦争以来の百数十年以上にわたる根深い不信と憎悪が存在し、銀河を事実上二分する形で長年にわたり断続的な戦争状態が続いていた。星間航路の要衝たるヘリオス・ゲート星系や、天然の要害ケルベロス回廊、資源豊富なエリダヌス星区などを巡っては、幾度となく大規模な艦隊戦が繰り広げられ、数えきれない人命と、惑星数個分の年間予算にも匹敵する膨大な資源が、一瞬にして宇宙の塵と消えていった。しかし、ここ数十年は、互いに決定的な打撃を与えられぬまま、戦線は奇妙な膠着状態に陥っていた。散発的な国境紛争や、辺境宙域での小競り合い、互いの国力を削ぐための経済・情報戦は続くものの、かつてのような銀河の命運を賭けた大会戦は鳴りを潜めていた。人々は終わりの見えない対立に倦み、戦争があることが日常となり、一種の諦念と共に日々を送っていた。それはあたかも、太陽が沈みきらぬまま、地平線に長く留まる、憂鬱な黄昏時のようであった。
後世の歴史家、エミール・ランゲは著書『銀河興亡五百年史』において、この時代をこう評している。
「宇宙暦780年代。それは『永き黄昏』の時代と呼ばれた。かつての激しい戦火の記憶は風化し、人々は繰り返される日常の中に埋没していた。クロノス帝政はその栄華の内に構造的疲弊を深め、リベルタス連合はその自由の内に方向性を見失い漂流していた。銀河は、二つの巨人が互いに睨み合ったまま疲弊していく巨大な構造的疲労を起こしながら、ただ静かに、次なる時代の胎動を、あるいは終末への序曲を待っていたかのようである。そして歴史は、しばしばそうであるように、この息詰まる膠着した状況を打ち破るべく、敵対する陣営に、対照的でありながら共に特異な才能を持つ二人を、同時に送り出したのである。それは統計学的にはありえない偶然か、あるいは宇宙の法則が持つ、我々の理解を超えた必然であったのか。いずれにせよ、二つの星がその鮮烈な輝きを放ち始めた時、『永き黄昏』の時代は終わりを告げ、銀河は再び激動の渦へと巻き込まれていくこととなるのだ」
歴史の歯車が、再び大きく、そして激しく動き出すその瞬間は、まだ誰にも明確には知られていなかった。ただ、宇宙の深淵には、やがて銀河を揺るがすことになる二つの魂が、それぞれの場所で、それぞれの宿命を背負い、その非凡な才の萌芽を、静かに、あるいは激しく示し始めていたのである。
第一部:新時代の胎動 ~二つの星、輝き始める~
第一章:彗星、現る! ~辺境からの衝撃~
【クロノス帝政:エリダヌス星区の鎮撫 - 宇宙暦788年】
宇宙暦788年初頭、帝政の辺境、エリダヌス星区で勃発した大規模武装蜂起は、帝都中枢を震撼させた。希少鉱物資源の宝庫であるこの星区は、長年にわたる中央政府の搾取と、現地貴族による圧政の二重苦に喘いでおり、住民の不満は限界に達していたのである。蜂起は燎原の火の如く広がり、杜撰な対応に終始した駐留辺境警備軍は壊滅的な打撃を受け、司令官は更迭された。反乱軍は星区の主要都市を次々と掌握し、独立宣言すら視野に入れる勢いであった。
この帝政始まって以来とも言える危機的状況の収拾という、困難極まる任務を命じられたのは、当時、軍参謀本部の若きエリート将校として頭角を現し始めていた、アレクシス・フォン・シュトライザー中佐であった。わずか20代半ばという異例の抜擢。彼の家柄は帝国貴族としては決して高くなく、むしろ新興に近い。それ故に、この人事は彼の非凡な才能への期待の表れであると同時に、失敗した場合の責任を押し付けやすい「捨て駒」として選ばれたのではないか、という憶測も帝都のサロンでは囁かれていた。アレクシス自身も、その両方の側面を冷静に認識していた。彼は、最小限の増援…それは彼の能力を試すかのように意図的に少なく編成されていた…を引き連れ、混乱と絶望が支配するエリダヌス星区へと赴任した。
現地に到着したアレクシスが司令部で受けた報告は、惨憺たるものであった。味方であるはずの警備軍は、恐怖と相互不信によって統制を失い、士気は地に落ちていた。一方、敵である反乱軍は、長年の怒りと独立への熱望によって強く結束し、地の利を活かしたゲリラ戦術で帝政軍を翻弄していた。前任の司令官は、古典的な、しかし状況を無視した力による鎮圧を試みて大敗し、無用な犠牲を増やしただけでなく、住民の帝政への憎悪をさらに掻き立てていた。
アレクシスは、着任後初の訓示で、集まった将兵に対し、静かに、しかし有無を言わせぬ厳しさで告げた。「これ以上の流血は避けねばならない。我々の目的は、反乱の鎮圧であり、住民の虐殺ではない。彼らもまた、皇帝陛下の臣民であるという事実を片時も忘れるな。規律を乱す者は、敵味方の区別なく厳罰に処す」その冷徹なまでの言葉は、弛緩しきっていた辺境軍の空気を一変させた。
彼の戦略は、前任者とは全く異なっていた。武力衝突を可能な限り回避し、敵の継戦能力と意思を内部から削ぐことに主眼が置かれていたのである。まず、帝都から随行させた情報解析の専門家チームを最大限に活用した。そのチームには、アレクシスの軍幼年学校時代の数少ない友人であり、後に彼の最も信頼する右腕となるオスカー・フォン・ベルク少佐も加わっていた。ベルクは、アレクシスの意図を的確に理解し、その情報収集・分析能力を存分に発揮した。彼らは反乱軍の通信網を傍受・解読し、指導者層内部に存在する穏健派と強硬派の路線対立、各地域間の連携不足、物資不足といった脆弱性を徹底的に洗い出した。
次に、アレクシスは心理戦を仕掛けた。巧妙に編集された偽情報を、様々なルートを通じて流布させ、反乱軍内部の相互不信を煽動した。「あの指導者は帝政と裏取引をしている」「隣の地区は見捨てられるらしい」といった噂が広がり、彼らの結束に亀裂が入り始めた。同時に、帝政本国からの大規模な増援艦隊が到着間近であるかのような偽装工作(実際には存在しない艦隊の識別信号を発信するなど)を行い、反乱軍に心理的な圧力をかけ続けた。
さらにアレクシスは、反乱の根本原因である経済問題にメスを入れた。彼は、ベルクを通じて、反乱には直接参加していないものの、帝政の支配にも不満を抱いていた地元有力者や中立的な商人たちと秘密裏に接触。蜂起鎮圧後の経済復興プラン(それは彼らの利権にも配慮したものであった)と、中央政府に対する星区全体の待遇改善要求を、自身が責任を持って取り次ぐことを約束した。この「アメとムチ」の使い分けにより、反乱軍への物資供給ルートは徐々に細り、彼らは経済的にも精神的にも追い詰められていった。
「シュトライザー中佐のやり方は…まるで冷たい水で相手をゆっくりと窒息させるかのようだ。一切の感傷も、躊躇もない」ベルク少佐は、アレクシスの執務室で報告を行いながら、主君の背中に向かってそう心の中で呟いた。直接的な戦闘はほとんど発生せず、反乱軍は内部から、まるで自壊するように崩壊していった。指導者は求心力を失い、兵士たちの士気は地に落ち、脱走者が相次いだ。数ヶ月後、食料も弾薬も尽きかけ、内部対立も限界に達した反乱軍指導部は、ついにアレクシスとの交渉のテーブルに着かざるを得なくなった。アレクシスは、首謀者数名の身柄引き渡しと完全な武装解除を絶対条件としながらも、一般参加者の罪は問わないこと、そして約束通り、星区の待遇改善と経済復興を中央政府に強く働きかけることを確約した。彼の提示した条件は、反乱軍にとってもはや受け入れる以外の選択肢はなかった。
こうして、エリダヌス星区の武装蜂起は、帝政始まって以来とも言われるほど少ない損害(少なくとも帝政軍側の)で鎮圧された。帝都では「シュトライザーの奇跡」「若き天才の登場」として賞賛の声が上がったが、同時に、その敵はおろか味方すら欺く冷徹極まりない手法、そして人間的な感情を一切排したかのような徹底した合理性に対して、畏怖と警戒感を抱く者も少なくなかった。「あの男は、血の代わりに氷が流れているのではないか」ある古参貴族は、そう言って顔を顰めたと伝えられる。「氷の戦略家」という彼の異名は、このエリダヌスでの一件によって、賞賛と侮蔑の両方の意味合いを込めて、確固たるものとなったのである。
【リベルタス共和国連合:カストル宙域の奇跡 - 宇宙暦788年】
ほぼ時を同じくして、銀河の反対側、リベルタス共和国連合の支配宙域、カストル星系の外縁部、通称「悪魔の三角宙域」と呼ばれるアステロイドベルト付近でも、一つの伝説が生まれようとしていた。連合のパトロール任務に従事していた第17駆逐隊が、帝政の黙認の大規模な宇宙海賊団による巧妙な奇襲を受け、絶望的な窮地に陥ったのである。敵は周到な待ち伏せと、連合軍の旧式センサーを欺く高度な電子妨害能力により、第17駆逐隊をアステロイド帯深部に誘い込み、孤立させ、包囲殲滅しようとしていた。
この絶望的な状況を示す、ノイズ混じりの断片的な救難信号を受信したのは、近隣宙域で新兵器(新型高機動戦闘艇)のテスト飛行を行っていた、ソフィア・"ソフィ"・ベルナルド少佐率いる第8高速機動戦隊であった。ソフィは、当時すでに、その型破りな戦術と、自ら先陣を切ることを厭わない勇猛さで、一部の軍関係者の間で知られた存在であった。労働者階級出身という出自にもかかわらず、その卓越した戦闘センスと、部下を惹きつける天性のカリスマ性によって、異例の速さで昇進を重ねていた。部下たちからは、畏敬と親しみを込めて「ソフィ姐さん」と呼ばれていた。
「第17駆逐隊よりSOS! 座標XXX、敵艦隊に包囲され、損害甚大! 至急救援を!」通信士の悲鳴に近い報告を聞いた瞬間、ソフィは即座に決断した。司令部からの正式な命令や、リスク分析を待つ余裕はない。目の前で仲間が死にかけている、その事実だけで十分だった。
「見捨てるなんて選択肢はないよ! 第8戦隊、全艦、現時刻をもって訓練を中止! 救難信号座標へ全速力で向かう! 行くよ、みんな!」彼女の声は、ブリッジに響き渡り、迷いを打ち消した。その決断は迅速かつ独断的であり、規律を重んじる軍上層部、特にマードック元帥のような人物からは厳しく批判される可能性が高かった。だが、彼女の部下たちは、その言葉に迷いなく従った。彼らは知っていたのだ。この指揮官は、決して自分たちを見捨てないと。後にソフィの右腕としてその名を馳せることになる、当時艦長だったジャン・ラサールも、その一人であった。彼は冷静沈着な性格であったが、ソフィの持つ、理屈を超えた人間的魅力と、戦場での閃きには全幅の信頼を寄せていた。「了解しました、提督。全システム、戦闘準備!」
現場宙域に到着したソフィが見たのは、まさに地獄絵図であった。敵艦隊の十字砲火を浴び、次々と爆散していく第17駆逐隊の艦影。敵の数は味方の三倍以上。しかも、アステロイドが密集する複雑な地形で、敵は巧みに連携し、味方を追い詰めている。正面からぶつかれば、共倒れになるか、あるいは一方的に撃破されるのが関の山である。
ソフィは一瞬で戦況を把握すると、常人には思いもよらない、しかし彼女にとっては唯一の活路を見出すための大胆な作戦を指示した。
「全艦、最大戦速! 敵包囲網の最も厚い部分、敵主力艦隊がいるであろう中央に突っ込む!」
ラサールを含む幕僚たちは、一瞬、耳を疑った。最も危険な場所へ、しかも少数で飛び込むなど、自殺行為に等しい。
「提督、それはあまりにも危険です! 再考を!」ラサールは思わず進言した。
しかし、ソフィは強い意志を込めた瞳で彼を見返し、続けた。「敵はまさか、こっちから真正面に、しかもど真ん中に突っ込んでくるなんて思わないさ! 意表を突いて混乱させる! 大混乱させて、その隙に、17駆逐隊を引っ張り出すんだ! 私を信じて!」
ソフィの旗艦、最新鋭の駆逐艦として配備されたばかりの『アルテミス』が、その言葉通り、先陣を切った。彼女は自ら操舵コンソールの一部を操作し、人間業とは思えない驚異的な反射神経と空間認識能力で、降り注ぐ敵の弾幕と、不規則に漂うアステロイドの間を縫うように突き進む。鮮やかな赤色に塗装された『アルテミス』の艦体は、敵味方のセンサー上に、まさに「紅き流星」のような鮮烈な軌跡を描いた。続く僚艦も、ソフィの神がかり的な操艦と、その不屈の闘志に鼓舞され、死中に活を求める決死の突撃に身を投じた。
「姐さんに続け!」「『アルテミス』に遅れるな!」部下たちの士気は最高潮に達していた。
敵艦隊は、予想だにしなかった方向からの、しかも少数による、常軌を逸した猛烈な突撃に、文字通り度肝を抜かれた。指揮系統は乱れ、統制された包囲網に一瞬の、しかし致命的な隙が生じる。ソフィはその瞬間を決して見逃さなかった。巧みな艦隊運動で敵の一部を引きつけつつ、無線で第17駆逐隊に離脱経路を指示。自らは、殿となり、追撃してくる敵艦隊を食い止めるべく反転した。『アルテミス』は数発の直撃弾を受け、艦体から火花を散らしながらも、その驚異的な機動力と、クルーたちの必死のダメージコントロールによって、致命傷を避け続けた。
「あの赤い彗星は何だ!? 撃ち落とせ! 撃ち落とさんか!」後に捕虜となった敵軍の兵士が尋問で、当時の混乱と焦燥をそう語ったという記録が残っている。
最終的に、第17駆逐隊は半数以上が包囲網からの脱出に成功した。ソフィの第8高速機動戦隊も、数隻の損害を出し、『アルテミス』自身も中破に近いダメージを受けながらも、見事に戦場を離脱した。この戦闘は、損害比だけで見れば、依然として連合側の敗北であったかもしれない。しかし、絶望的な状況から多くの人命を救い、敵の度肝を抜いたソフィの英雄的な活躍は、すぐに連合全軍、そして市民の間にも大きな衝撃と共に知れ渡ることとなった。従軍記者が、その鮮烈な印象を込めて報じた「戦場を駆ける紅き流星」というフレーズは、瞬く間に彼女の代名詞となった。
『ベルナルド少佐万歳! 俺たちは彼女に命を救われたんだ! あの人がいなかったら、今頃宇宙の塵だった!』救助された第17駆逐隊の一兵士は、救護施設で涙ながらにそう語ったという。その言葉は、多くの兵士たちの共感を呼んだ。カストル宙域での戦闘は、ソフィア・ベルナルドという稀代の闘将の伝説が、まさに銀河に轟き始めた瞬間として、連合史に、そして人々の記憶に、鮮やかに刻まれることとなる。
辺境の宙域で、偶然にもほぼ同時期に放たれた二つの閃光。クロノス帝政の「氷の戦略家」と、リベルタス連合の「紅き流星」。まだ互いの存在とその真価を詳しく知る由もない二つの星は、それぞれの宿命の軌道を描きながら、やがて銀河の中心で、避けられない引力によって交わる運命へと、確実に引き寄せられていたのである。
第一部 第二章:首都の光と影 ~英雄と陰謀~
【帝都クロノポリス:氷解の兆しと凍てつく視線 - 宇宙暦789年】
エリダヌス星区での「奇跡」とも称された功績は、アレクシス・フォン・シュトライザーの名を、帝国の心臓部、帝都クロノポリスの中枢にまで届けた。宇宙暦789年、彼は正式に中央への召喚命令を受け、帝政軍の頭脳が集う参謀本部の戦略情報分析部に配属されることとなった。辺境での実務から解放され、帝国の権力の中枢へと足を踏み入れたアレクシスを迎えたのは、荘厳極まりない帝都の景観と、そこに複雑に、そして深く渦巻く権力の力学、そして嫉妬と警戒の視線であった。
クロノポリスは、人類の工学技術と帝国の権威の粋を集めて建造された、計算され尽くした幾何学的な美しさを持つ巨大な人工都市であった。天を摩する純白の尖塔群、皇帝の権威を象徴する広大な皇帝広場、貴族たちのための緑豊かな空中庭園。しかし、そのあまりにも完璧で整然とした美しさには、どこか人間的な温かみを欠いた、冷たい印象がつきまとっていた。アレクシスは、この壮麗な首都の姿に、巨大であるが故に動きが鈍く、内部から静かに生命力を失いつつある老いた巨人の姿を見たような気がした。そして、その巨人を覆う華麗な装飾の下に、深い亀裂が走っていることも、彼は見抜いていた。
着任早々、アレクシスは帝国の頂点に立つ人物、皇帝マクシミリアン3世に謁見する栄誉に浴した。壮麗な玉座の間で彼が見たのは、予想していたよりもずっと若く、その知的な眼差しの中に、現状への憂いと未来への意志を秘めているかのような青年皇帝であった。皇帝は、侍立する重臣たちの前で、エリダヌスでのアレクシスの手腕を高く評価し、「帝国の未来のため、その類稀なる才を存分に発揮してほしい。余は君に期待している」と、異例とも言える期待に満ちた言葉をかけた。アレクシスは、ただ静かに頭を垂れ、謝意を示した。
しかし、その皇帝の傍らに控え、老獪な、しかし感情を窺わせない笑みを浮かべていた宰相ゲルハルト公の視線は、明らかに異質なものであった。それは、不用意に現れた、出自の卑しい異分子を値踏みし、その危険性を探るような、冷たく鋭い光を宿していた。ゲルハルト公にとって、家柄も後ろ盾も乏しいこの若き軍人の急速な台頭は、自身が長年にわたって築き上げてきた、貴族中心の権力構造に対する、無視できない潜在的な脅威と映ったのかもしれない。「若き英雄か…だが、英雄は時に秩序を乱す。注意深く見守る必要があるな」彼は後に、側近にそう漏らしたと伝えられる。
参謀本部でのアレクシスの扱いは、皇帝の期待とは裏腹に、あからさまな冷遇であった。戦略情報分析部という部署自体は、表向きは重要であったが、彼に与えられたのは、過去の戦史の再編纂や、重要度の低い辺境星区からの定型的な状況報告の整理といった、明らかに彼の能力と野心を持て余すような、地味で目立たない任務ばかりであった。周囲の同僚たちの多くは、帝国の権門とされる名門貴族の子弟であり、彼らは平民に近い家柄から成り上がってきた若き天才に対して、嫉妬と侮蔑の入り混じった視線を隠そうともしなかった。「辺境帰りの泥臭い男が、我々と同じ空気を吸うとはな」「所詮は使い捨ての駒よ。宰相閣下のお考え通りだ」といった囁き声が、アレクシスの耳に入らないはずはなかったが、彼は一切の感情を表に出さなかった。
「まるで、磨かれた剣を鞘に収めたまま、埃をかぶらせようとしているかのようだ」執務室で、アレクシスは随行してきた腹心のオスカー・フォン・ベルク少佐に、静かに、しかし確かな苛立ちを滲ませて語った。「彼らは、私が目障りなのだろうな」
ベルクは、主君の置かれた状況に憤りを感じつつも、冷静さを失わなかった。「閣下のお考えの通りです。しかし、今は耐える時かと。迂闊な動きは、敵に格好の口実を与えるだけです。我々は水面下で、来るべき時に備え、着実に準備を進めます」ベルクは、アレクシスの孤独な戦いを支える盾となることを、改めて心に誓った。彼は、単なる部下ではなく、アレクシスの理想を共有する数少ない理解者でもあった。
「うむ…」アレクシスは短く応じ、窓の外に広がる帝都の冷たい景観に目を向けた。「焦る必要はない。だが、無為に時を過ごすつもりもない。ベルク、君には頼みたいことがある…」
アレクシスは、表向きは与えられた凡庸な任務を完璧にこなし、旧守派の警戒心を解くように努めながらも、水面下では着々と行動を開始していた。彼は、帝政内部にも少数ながら存在する、現状の硬直化と腐敗に危機感を抱く改革派の存在を知っていた。その中心人物であり、高潔な人格者として知られるエーリッヒ辺境伯と、ベルクの手引きによって秘密裏に接触することに成功した。エーリッヒ辺境伯は、当初は若き軍人の野心を警戒していたが、アレクシスとの対話を通じて、その冷静な分析力、帝国の未来に対する深い洞察、そしてその奥に秘められた静かな憂国の情を見抜き、彼を信頼できる同志とみなした。だが、ゲルハルト公を中心とする保守派の力は依然として強大であり、彼らの監視の目は厳しい。迂闊な動きは、彼ら自身の破滅を招きかねない。彼らは、慎重に情報収集と人脈形成を進め、来るべき改革の好機を待つことを誓い合った。
公務を終えたアレクシスは、広大な執務館の一室で、しばしば一人チェス盤に向かった。複雑に絡み合った盤面を前に、彼は駒の一つ一つに、帝国の権力者たちの顔を重ね合わせ、次の一手、そして最終的な勝利への道筋を、幾通りもシミュレーションしているかのようであった。あるいは、執務室の片隅にある書架から、古代ギリシャ・ローマの哲学者や、中国の兵法家の書物を紐解き、古の英雄や賢者たちの思索に没頭することもあった。それは、帝都の喧騒と陰謀、そして自らの内なる葛藤から逃れるための、彼にとって数少ない安息の時間であった。氷のように冷静な仮面の下で、彼は着実に力を蓄え、来るべき変革の時に備え、静かに、しかし鋭く牙を研いでいたのである。
【自由首都フリーダムポート:熱狂の渦と醒めた視線 - 宇宙暦789年】
その頃、銀河の反対側、リベルタス共和国連合の首都フリーダムポートでは、カストル宙域の英雄、ソフィア・"ソフィ"・ベルナルド少佐(戦功により中佐に昇進)の凱旋に、首都全体が沸き立っていた。自由と平等を国是とするこの国家において、抑圧されがちな労働者階級出身の、しかも若い女性士官が、圧倒的な不利を覆して多くの仲間を救ったという物語は、閉塞感漂う社会の中で、まさに民衆が渇望していた英雄譚そのものであった。彼女の存在は、人々に希望と興奮を与えた。
ソフィが乗艦する巡洋艦(『アルテミス』は修理中であり、臨時に割り当てられた艦だった)がフリーダムポートの巨大な宇宙港に入港すると、港湾施設は、彼女を一目見ようと集まった熱狂的な市民で埋め尽くされた。色とりどりの電子紙吹雪が舞い、「ソフィ!」「ベルナルド!」という割れんばかりの歓声が、ドーム全体に轟いた。連合政府は、この国民的熱狂を最大限に利用しようと、彼女のために盛大な凱旋パレードを用意した。オープンカーに乗せられたソフィが、メインストリートを進むと、沿道からは「ソフィ!」「紅き流星!」「連合の女神!」と叫ぶ声が、まるで津波のように押し寄せた。メディアは連日こぞって彼女の活躍を報じ、「民衆の希望」「戦うジャンヌ・ダルク」とセンセーショナルな見出しで称え、その人気は瞬く間に最高潮に達した。
「なんだか…自分が自分でないみたいだよ…」パレードカーの上で、降り注ぐ歓声と無数のカメラのフラッシュに戸惑いながら、ソフィは隣に立つジャン・ラサール中佐(同じく昇進し、彼女の副官となっていた)に、小さな声で呟いた。彼女は、自分が成し遂げたことと、この熱狂との間に、大きな隔たりを感じていた。
ラサールは、そんな彼女の心情を察し、苦笑しながらも励ますように答えた。「無理もありません、提督。あなたは今や、この連合で最も有名な軍人であり、多くの人々の希望の象徴なのですから」しかし、彼の心の中には、この過剰な熱狂が、純粋で真っ直ぐな彼女を、いずれ傷つけるのではないかという懸念が渦巻いていた。
ソフィは、最高評議会にも招かれ、居並ぶ議員たちから形式的な、しかし大げさな賞賛の言葉を受けた。特に、最高評議会議長のアダムスは、満面の笑みで彼女の手を取り、その功績を熱心に称え、「民衆の中から現れた真の英雄の登場を、連合全体で歓迎する」と述べた。だが、その計算高い政治家の笑顔の裏には、ソフィの絶大な人気を自身の政治的基盤強化や、支持率向上に利用しようという下心が透けて見えた。ソフィは、政治家たちの美辞麗句に内心で辟易しながらも、軍人として、儀礼的に応対するしかなかった。
統合軍司令部での扱いは、さらに複雑で、冷ややかなものであった。総司令官マードック元帥は、公の場ではソフィの戦功を認めつつも、内部の会議では「軍規を無視した独断専行は、いかに結果が良くとも賞賛されるべきではない。規律こそ軍の生命線だ」と、釘を刺すことを忘れなかった。元帥をはじめとする軍上層部の多くは、ソフィの型破りな戦い方と、彼女に熱狂する民衆やメディアの動きを、軍の伝統的な指揮系統と秩序を乱す危険な兆候と捉えていた。彼女の存在は、旧来の軍隊組織にとって、制御しがたい、扱いづらい異物でしかなかったのである。「英雄は結構だが、軍は人気取りの場所ではない。彼女には、軍人としての本分を思い出させる必要があるな」マードック元帥の言葉は、軍内部のソフィへの反感を代弁していた。
メディアのインタビューを受けた際、ソフィは、用意された当たり障りのない回答ではなく、持ち前の率直さで語ってしまった。「私がやったことは、特別なことじゃないと思っています。ただ、仲間が危なかったから助けた、それだけですよ。それより、前線の兵士たちが本当に必要としている最新の装備や、十分な補給物資が、どうしてなかなか届かないのか、そっちの方がよっぽど大きな問題じゃないですかね?」
彼女の飾らない言葉と、暗に政治や官僚主義への批判とも取れる発言は、民衆からは「よくぞ言った!」と喝采を浴びたが、同時に政府や軍の上層部からは「立場をわきまえない発言だ」「軍人が政治に口を出すべきではない」と強い反発を招いた。ソフィは、自分が英雄として祭り上げられることにも、その人気が政治的に利用されることにも、強い違和感と嫌悪感を覚えていた。戦場で敵と戦うことよりも、首都でのこうした人間関係や政治的な駆け引きの方が、よほど疲れると感じ始めていた。
そんな彼女にとって、唯一の心の支えは、ラサールをはじめとする、カストルの戦いを共に生き延びた部下たちとの絆であった。彼らと基地の食堂で気取らない食事をしたり、シミュレーターで汗を流したりする時間だけが、首都での息苦しさから解放される瞬間だった。また、時には身分を隠してフリーダムポートのダウンタウンに紛れ込み、一般市民たちの生の声に耳を傾けることもあった。そこで聞かれる、長引く戦争への疲れ、政治家への不満や諦め、それでもなお失われていない自由への渇望や、ささやかな日常への愛おしさに触れるたび、ソフィは自分が本当に守りたいものは何か、何のために戦うのかを、改めて自問自答し、再確認するのだった。「この人たちの笑顔を守りたい…そのためなら、私はなんだってできるはずだ」
帝都の静かなる氷と、自由首都の熱き炎。クロノポリスで静かに爪を研ぎ、来るべき時に備えるアレクシスと、フリーダムポートで熱狂の渦に翻弄されながらも、自らの信念を見失うまいと苦闘するソフィ。二人の若き英雄は、それぞれの首都で光と影を浴びながら、否応なく国家の命運を左右する巨大な歯車の一部へと組み込まれていく。そして、彼らが再び、今度は互いを明確な敵として認識し、相見えることになる戦場は、刻一刻と、その時を近づけつつあった。
第一部 第三章:運命の初陣! ~ヘリオス・ゲート会戦~
宇宙暦790年。クロノス帝政とリベルタス共和国連合の間の「永き黄昏」と呼ばれた冷戦状態は、ついに終わりを告げた。両国の経済的・政治的対立は、もはや外交努力では修復不可能なレベルにまで達し、銀河の主要航路の一つであり、戦略的にも経済的にも極めて重要な価値を持つワームホール結節点「ヘリオス・ゲート星系」の完全な支配権を巡って、再び大規模な武力衝突の危機が急速に高まっていた。ヘリオス・ゲートは、帝政と連合の勢力圏が複雑に入り組み、互いに睨み合う最前線宙域に位置し、ここを制する者は銀河系オリオン腕・ペルセウス腕間の物流と軍事バランスに決定的な影響力を持つことができる。両国首脳部は、互いに譲歩の姿勢を微塵も見せず、ついに最大級の艦隊派遣を決定した。銀河は再び、全面戦争の暗く巨大な暗雲に覆われようとしていた。
クロノス帝政軍は、この乾坤一擲とも言えるヘリオス・ゲート奪取作戦において、その名を上げつつあった若きアレクシス・フォン・シュトライザー大佐(エリダヌス鎮撫の功績により昇進)を、艦隊総司令官に任命された歴戦の名将ラインハルト・フォン・ミュラー上級大将付きの首席作戦参謀に任命した。これは、実戦での大艦隊指揮経験が浅いアレクシスをいきなり最前線の顔にするわけにはいかないという保守派への配慮と、彼の非凡な戦略立案能力を最大限に活用したいという皇帝派(特にマクシミリアン3世自身の強い意向があったとされる)の意向が複雑に絡み合った、妥協の産物とも言える人事であった。アレクシス自身はその立場を冷静に受け止め、与えられた権限の中で、この作戦の骨子となる、大胆かつ緻密な計画を練り上げた。彼は、ミュラー上級大将の経験と威名を利用しつつ、実質的な作戦指導権を握ることを目論んでいた。
一方、リベルタス共和国連合軍も、国家の生命線とも言えるヘリオス・ゲートの防衛に全力を挙げるべく、保有する艦隊の半数近くを投入するという、国家の存亡を賭けた決断を下した。その精鋭艦隊の中には、国民的英雄として人気絶頂にあり、兵士からの信頼も厚いソフィア・"ソフィ"・ベルナルド中佐(カストルでの功績と国民的人気により、異例の昇進と艦隊指揮権を与えられていた)が率いる、最新鋭艦で構成された高速機動部隊も含まれていた。彼女の部隊は、その比類なき突破力と、敵の意表を突く戦術センスを期待され、戦況に応じて自由に動ける遊撃部隊として、最も危険な最前線に配置されることとなった。政治的な思惑も絡み、彼女には大きな期待と同時に、失敗した場合の責任という重荷も負わされていた。
両軍合わせて十万隻を超える大艦隊が、それぞれの母港から、ヘリオス・ゲート星系へと続々と集結しつつあった。星系内に存在するアステロイドベルトや高密度ガス星雲、磁気嵐が吹き荒れる不安定な宙域など、複雑な地形を持つこの空間で、人類史上でも屈指の規模を誇る二つの大艦隊が、今まさに激突しようとしていたのである。銀河中のメディアがこの動きを報じ、両国の市民は固唾を飲んで戦いの行方を見守っていた。それは、長きにわたる対立の、一つのクライマックスとなるであろう戦いであった。
戦端が開かれたのは、宇宙暦790年5月14日。帝政軍が仕掛けた、比較的小規模な偵察艦隊による陽動攻撃に、連合軍の前衛部隊が過剰に反応したことをきっかけに、本格的な戦闘が開始された。序盤の戦況は、まさにアレクシスが描いた筋書き通り、恐ろしいほどの正確さで進んだ。彼は、過去数十年間にわたる両軍の戦闘データを徹底的に分析し、特に連合軍の主要な指揮官たちの思考パターン、性格、過去の作戦における意思決定の傾向などをアルゴリズム化。彼らが最も陥りやすいであろう状況をシミュレーションし、そこに完璧な罠を仕掛けていた。
「敵主力は、我が方の陽動部隊に引き寄せられ、予定通りポイント・アルファに進入。現在、包囲予定宙域に向けて移動中です」帝政軍総旗艦、巨大戦艦『オーディン』の広大な作戦司令室で、情報参謀の冷静な声が響いた。アレクシスは、眼前に広がる巨大な三次元立体星図に映し出される、無数の光点(敵味方の艦艇を示す)の動きを、微動だにせず、まるで感情のない機械のように見つめていた。
「よろしい。計画通りだ」歴戦の老将、ミュラー上級大将が、アレクシスの計画書に目を落とし、満足げに頷いた。「第二、第三伏兵艦隊に信号を送れ。予定通り、包囲網を形成。獲物を逃がすな」彼の声には、長年の宿敵に対する勝利への確信が滲んでいた。
アレクシスが立案した作戦名は「クリスタル・トラップ」。それは、あたかも水晶の結晶が成長するように、段階的に、しかし確実に獲物を内部へと誘い込み、最後には完全に閉じ込めて粉砕するという、多重構造の包囲殲滅陣であった。連合艦隊は、自らが有利に戦いを進めていると錯覚したまま、気づかぬうちに、四方八方から静かに、そして正確に迫る帝政軍の伏兵によって、徐々に退路を断たれつつあった。それは、巨大な蜘蛛が巣を張るように、緻密で、冷酷な罠であった。
だが、その蜘蛛の巣に絡め取られようとしている獲物の中に、鋭敏な感覚で罠の存在を誰よりも早く感じ取った者がいた。連合軍の最前線で、麾下の高速機動部隊を率いていたソフィ・ベルナルドであった。彼女の旗艦、最新鋭の巡洋艦として設計され、彼女自身の要望も取り入れられたという『ヘクトル』のブリッジは、敵味方の識別信号、飛び交うレーザーやミサイルの軌跡、損傷報告といった膨大な情報で、半ば飽和状態にあった。だが、ソフィは、司令部から次々と送られてくる楽観的な戦況報告と、自らが肌で感じる戦場の不穏な空気との間に、致命的な齟齬を感じ取っていた。
「おかしい…敵の動きが良すぎる。まるで、こっちの動きが完全に読まれているみたいだ…」ソフィは眉根を寄せ、立体星図を食い入るように睨みつけた。「それに、さっきから妙な宙域…小惑星帯の影とか、ガス星雲の奥とかで、断続的に観測される微弱なエネルギー反応…あれは絶対に伏兵じゃないのか?」彼女の戦場での直感は、しばしばコンピューターの分析よりも正確だった。
「しかし、提督。司令部からは、敵前衛を追撃し、ポイント・ベータまで前進せよとの命令が繰り返し入っております。抗命は…」副官のラサール中佐が、規律を重んじる立場から懸念を示す。
「司令部は完全に罠にかかってるんだよ! あの報告を送っている奴ら自身が、敵の術中にはまっているんだ! このままじゃ、主力艦隊ごと全滅だ!」ソフィは即座に決断した。逡巡している時間はない。「ラサール、全艦に通達! これより我が隊は、司令部の指示を一時保留し、独自の判断で行動する! 目標、敵包囲網の南西方向、データ上、最も手薄と思われる一点を突破する! 全艦、エンジン出力最大! アフターバーナー点火! 行くぞ、『メテオ・ブレイク』だ!」
「メテオ・ブレイク」。それは、ソフィが得意とする、防御を捨てて速度と突破力に全てを賭ける、文字通り流星のような一点突破戦術のコードネームであった。彼女の命令は、最高司令部への明確な抗命であり、戦後、軍法会議にかけられてもおかしくないほどの独断専行であった。だが、彼女の部下たちは、カストルの奇跡を再び起こすことを信じ、一糸乱れぬ動きで、一斉に艦首を転じた。旗艦『ヘクトル』を先頭に、ソフィの「紅き流星」の名に恥じぬ猛スピードで、敵の包囲網の一角へと、一条の光となって突進していく。彼らの胸には、恐怖よりも、敬愛する指揮官への信頼と、死中に活を求める興奮があった。
帝政軍総旗艦『オーディン』では、この予期せぬ動きが、計算され尽くした作戦司令室に僅かな、しかし確かな動揺をもたらした。「緊急報告! 連合軍の一部隊、識別コード『レッド・コメット』、司令部の命令系統を離脱! 我が包囲網の第四象限に対し、常識外れの速度で急速接近中!」オペレーターの声が上ずる。
「なんだと? どこの部隊だ! なぜ命令を無視する!」ミュラー上級大将が、眉間に深い皺を刻み、声を荒らげる。
アレクシスは、即座に表示された識別信号と、予測される進路を確認し、初めて表情をわずかに動かして、小さく呟いた。「…ベルナルド中佐。やはり、この女か」エリダヌスで反乱軍の意表を突き、そしてカストルで絶望的な状況を覆した、あの型破りな指揮官。彼は、ソフィア・ベルナルドという存在を、事前に最重要警戒対象としてリストアップし、その思考パターンを分析していた。しかし、これほど早く、そして正確に罠の本質を見抜き、しかもこれほど大胆な行動に出るとは、彼の計算をも超えていた。
「恐らく、直感…あるいは、戦場の空気とやらを読む能力に長けているのだろう。厄介な相手だ」アレクシスは内心でそう分析した。
「閣下、あの部隊を放置すれば、計画通りに形成した包囲網に穴が開きます! 即座に迎撃部隊を差し向け、撃破すべきです!」居並ぶ参謀の一人が、焦りの色を浮かべて進言する。
だが、アレクシスは、冷静にそれを制した。「いや、待て。彼女の狙いは、突出することで我々の注意を引きつけ、包囲されつつある主力部隊の離脱を助けることにあるのだろう。ならば、こちらもその動きに乗ってやろうではないか」彼は即座に思考を切り替え、ミュラー上級大将に進言する形で、新たな指示を出す。「第四象限の迎撃部隊は、予定通り展開させ、ベルナルド隊の進撃を遅滞させよ。ただし、深追いは禁ずる。本命はあくまで、包囲網の内側にいる敵主力艦隊の殲滅だ。…そして、ミュラー閣下、許可を頂けるのであれば、我が直属の高速巡洋艦戦隊を率い、ベルナルド隊の予想進路上に展開し、直接これを叩きます。私が直々に、彼女の『勇気』とやらを計ってやろう」彼の声には、珍しく感情の響きが混じっていた。それは、好敵手に対する挑戦的な意志の表れであったのかもしれない。
ミュラー上級大将は、一瞬ためらったが、アレクシスの自信に満ちた(ように見えた)態度と、彼のこれまでの功績を鑑み、これを許可した。「よかろう。だが、シュトライザー大佐、油断は禁物だぞ。あの『紅き流星』は、侮れん相手だ」
アレクシスは、麾下の高速巡洋艦数隻を率い、自ら前線へと向かった。彼の座乗艦として新たに配備された、白銀に輝く流麗なフォルムを持つ最新鋭巡洋艦『ブリュンヒルデ』が、『オーディン』の艦影から離れ、戦場の奥深くへと静かに滑り出す。
そして、運命の瞬間が訪れた。帝政軍の包囲網の中で、比較的手薄と見られていた第四象限の宙域で、ソフィ率いる突撃部隊「メテオ・ブレイク」は、待ち構えていたアレクシスの直属部隊と激しく衝突した。戦場の混乱と、双方の高速機動が重なり、両者の旗艦、『ヘクトル』と『ブリュンヒルデ』が、互いの姿を肉眼でも(ブリッジのメインスクリーン越しではあるが)確認できるほどの至近距離にまで接近したのである。
それは、無数のレーザー光線が飛び交い、ミサイルが爆発する激しい戦闘の最中でありながら、まるで一瞬、時が止まったかのような、奇妙な静寂と緊張感を伴う対峙であった。レーダーやセンサーが示す記号や数値ではなく、強化ガラスのブリッジから、互いの艦の形状、色、そしてその艦橋にいるであろう指揮官の存在を、肌で感じられるほどの距離。
ソフィは、白銀の、まるで芸術品のように優美な艦影と、そこから放たれるであろう、氷のように冷徹で、底知れない知性を感じ取り、背筋に悪寒が走るのを感じた。「あれが…シュトライザー…! なんてプレッシャーだ…!」噂に聞く氷の戦略家。その存在感が、目に見えない力となって彼女にのしかかる。
アレクシスもまた、鮮やかな赤い塗装が施された、荒々しくも力強いフォルムを持つ巡洋艦と、そこから迸る、計算だけでは到底測れない、燃えるような闘志と直感的な閃きを感じ取っていた。「ベルナルド…報告以上に、厄介な存在かもしれんな。単なる猪武者かと思えば、これほどの突破力と、戦術眼を併せ持つとは…!」彼は、自らの完璧な計画を狂わせたこの敵将に対し、初めて個人的な興味と、そして明確な敵愾心を覚えた。それは、彼がこれまでの人生で、ほとんど感じたことのない種類の感情であった。
直接的な砲火の応酬は、時間にしてわずか数分であった。だが、その間に繰り広げられたのは、単なる撃ち合いではなく、互いの艦隊運動による、高度な戦術の読み合いであった。アレクシスは、『ブリュンヒルデ』とその僚艦の精密な連携によって、ソフィの直線的な突撃を巧みにいなし、包囲するように側面から回り込もうとする。ソフィは、それを動物的な勘で読み取り、艦隊に急減速と反転を指示、逆に『ブリュンヒルデ』の死角を突き、一気に距離を詰めようとする。それはまるで、三次元の宇宙空間を盤面とした、超高速のチェスゲーム、あるいは剣術の立ち合いのようであった。
「あの女、こちらの思考を読んでいるのか!? 常識が通用しない!」『ブリュンヒルデ』のブリッジで、アレクシスは思わず、普段の彼からは考えられないような驚きの声を上げた。
「あの男、どこまで計算しているんだ…! まるで底が見えない!」『ヘクトル』のブリッジで、ソフィもまた、敵将の深淵を覗き込んだような感覚に襲われ、冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。
この息詰まる一騎打ちは、双方の麾下艦艇が、主君(あるいは敬愛する指揮官)を守るべく割って入る形で、決着を見ずに中断された。ソフィは、当初の目的である主力艦隊の離脱時間を稼ぐことに成功したと判断し、麾下艦隊に全速力での戦線離脱を命令。赤い残像を残しながら、戦場を駆け抜けていった。アレクシスもまた、深追いすることなく、それ以上の損害を避けるため、そして崩れかけた包囲網の再構築を優先するため、追撃を中止した。
ヘリオス・ゲート会戦の結果は、後世の歴史家の間でも評価が大きく分かれることとなる。帝政軍は、連合軍に多大な損害を与え、ヘリオス・ゲート星系の戦術的支配権を確保した。これは紛れもなく帝政の戦略的勝利であった。しかし、アレクシスが当初目標としていた連合軍主力艦隊の完全包囲殲滅は、ソフィア・ベルナルドという予測不能な「変数」の存在によって阻止された。連合軍は主力艦隊の多くを失い、戦略的には大きな痛手を負ったものの、完全な壊滅は免れ、再起の機会を残して撤退に成功したのである。ソフィの型破りな戦術と奮闘は、敗北の中の光明として、連合市民からさらなる熱狂的な喝采を浴びることとなった。
そして、このヘリオス・ゲート会戦が持つ、戦術的・戦略的な結果以上に重要な意味は、アレクシス・フォン・シュトライザーとソフィア・ベルナルドという二人の名前が、敵味方を問わず、銀河中の軍関係者、政治家、そして戦争に関心を持つ一般市民たちの間に、鮮烈な印象と共に、深く刻み込まれたことであった。ある者はアレクシスの悪魔的なまでの知略を称賛し、ある者はソフィの女神のような勇気を讃えた。またある者は、この若き二人の英雄の登場が、この長きにわたる戦争を、より激しく、より苛烈に、そしてより悲劇的なものにするのではないかという、漠然とした、しかし拭いがたい予感を抱いていた。
歴史分析家アルブレヒト・カウフマンは、その主著『双星の軌跡:銀河大戦における英雄の研究』の中で、この戦いを総括して次のように記している。
「ヘリオス・ゲート会戦は、疑いなく、後の『双星の時代』と呼ばれる激動期の序章であった。この戦場で初めて直接火花を散らした二人の若き指揮官は、互いの非凡さを認め合い、そして生涯を通じて互いを意識し続けることになる宿命のライバルとして、銀河の歴史という巨大な舞台の上で、その存在感を確立した。彼らの物語は、ここから本格的に始まったのである。そして、それは銀河全体にとって、祝福となるのか、あるいは破滅への道筋となるのか、この時点では誰にも予測できなかった」
第二部:激動の銀河 ~野望、理想、そして裏切り~
第四章:盤上の攻防 ~知略と勇猛~
ヘリオス・ゲート会戦は、銀河全体に衝撃を与えた。クロノス帝政の戦略的勝利と、リベルタス連合のソフィア・ベルナルドによる戦術的奮闘。この結果は、両国の対立を一時的に緩和させるどころか、むしろ決定的なものとし、銀河は疑いなく、再び全面戦争の時代へと突入することとなった。そして、この新たな戦いの局面において、二人の若き英雄、アレクシス・フォン・シュトライザーとソフィア・ベルナルドの名は、かつてないほど大きな、そして象徴的な意味を持つようになっていた。彼らの動向一つ一つが、両国の戦略、そして市民の士気にまで影響を与えるようになっていたのである。
クロノス帝政軍では、アレクシス・フォン・シュトライザー少将(ヘリオス・ゲートでの実質的な作戦成功により、形式上の上官ミュラーの推薦という形を取りつつも昇進)が、その卓越した戦略眼と、皇帝からの信任を背景に、軍令本部において対連合戦略の立案と実行に、より深く、そして実質的に関与するようになっていた。宰相ゲルハルト公ら保守派は依然として彼を警戒していたが、ヘリオス・ゲートでの「成果」を無視することはできず、渋々ながらも彼の発言力が増すことを認めざるを得なかった。アレクシスは、ヘリオス・ゲートでの経験から、単なる正面からの艦隊決戦による勝利だけでは、広大な版図と、独立戦争以来の不屈の精神を持つ連合を完全に屈服させることは困難であると改めて判断した。彼は、物理的な戦闘と並行して、敵国の社会基盤そのもの、すなわち経済、情報インフラ、そして民衆心理を揺るがす、より大局的かつ陰湿とも言える戦略の必要性を、軍令本部の会議で繰り返し説いた。
彼の提唱した包括的な戦略計画は「サイレント・ストーム作戦」と名付けられた。それは、連合経済の生命線である主要交易ルートに対し、探知されにくい特殊潜航艇(通称「ゴーストシップ」)を多数投入して行う執拗な通商破壊活動、連合の主要金融市場や政府機関のネットワークに対する高度なサイバー攻撃による経済・行政機能の混乱誘発、そして連合内部に存在する地域間の対立や、政府への不満を持つ分離主義者、過激派などを秘密裏に支援・煽動する偽情報の流布などを組み合わせた、多角的かつ非対称な戦争計画であった。表立った華々しい艦隊行動とは別に、水面下で静かに、しかし確実に連合社会を内部から蝕んでいくこの作戦は、アレクシスの冷徹な合理性と、目的のためには手段を選ばない非情さを象徴するものであった。
「戦争とは、単に敵艦隊を撃滅することではない。敵国の社会秩序を破壊し、継戦意思そのものを根底から奪い去ることにある」アレクシスは、皇帝臨席の最高軍事会議において、居並ぶ老将たちを前に、そう淡々と、しかし確信に満ちた口調で語ったとされる。「我々は、目に見える戦場だけでなく、経済、情報、心理といった、あらゆる領域で、同時に、そして継続的に敵を攻撃しなければならない。それこそが、最小限の犠牲で、最大限の効果を上げる、現代における戦争の要諦である」彼の言葉は、伝統的な騎士道精神を重んじる一部の貴族将校からは「卑劣」「邪道」と批判されたが、その有効性を認めざるを得ない者も多かった。
この「サイレント・ストーム作戦」の影響は、やがて連合市民の日常生活にも暗い影を落とし始めた。「最近、また物資不足が深刻だわ。特に医薬品が手に入りにくくて…。夫の給料は上がらないのに、物価ばかりが上がっていく。これも全部、帝政のせいなのかしら? シュトライザーっていう、悪魔みたいな軍師がいるっていう噂だけど、本当なのかしら…」これは、連合のある中流家庭の主婦が、遠く離れた惑星に住む親友に宛てた電子メールの一節であり、当時の連合社会に広がりつつあった不安と不満を物語っている。
一方、リベルタス共和国連合軍では、ソフィア・"ソフィ"・ベルナルド中佐が、ヘリオス・ゲートでの絶望的な状況からの奮戦により、「不屈の英雄」「民衆の守護神」としての名声を、さらに揺るぎないものとしていた。彼女の型破りな戦術と、部下からの絶大な信頼、そして何よりも彼女自身が持つ不屈の闘志は、膠着した戦況を打破する唯一の希望と見なされるようになっていた。最高評議会と軍上層部は、内心では彼女の存在を危険視しつつも、高まる国民の期待と、前線の兵士たちの士気高揚のために、彼女に大幅な自由裁量権を持つ独立機動艦隊(通称「ソフィ艦隊」)の指揮を正式に任せるという、異例の措置を取らざるを得なかった。
ソフィは、帝政軍の厳格で統制された大艦隊に対し、正面からの消耗戦は、兵力・物量に勝る帝政軍に利するだけだと判断した。彼女は、自身の艦隊の最大の武器である機動力と、兵士たちの高い士気、そして自身の得意とする奇襲戦術を最大限に活かす作戦を展開した。それは「レッド・アロー作戦」と呼ばれ、高速艦艇を駆使して、帝政軍の広大に広がる補給線を神出鬼没に襲撃し、守りの手薄な後方基地や中継ステーションを攪乱するという、ゲリラ的な戦法であった。ソフィの艦隊は、帝政軍の厳重な警戒網や予測アルゴリズムを、まるで嘲笑うかのようにかいくぐり、重要な輸送船団を襲撃しては素早く離脱、あるいは小規模な基地を奇襲して施設を破壊し、帝政軍の後方兵站と士気に、無視できないダメージを与え続けた。
「『紅き流星』だ! また奴らが来たぞ! 全艦、迎撃用意! 絶対に逃がすな!」帝政軍のある後方補給基地の緊迫した戦闘記録には、ソフィ艦隊の襲撃に対する恐怖と、それを阻止できない焦りが如実に残されている。
「でかい図体でのろまな奴らには、正面からぶつかるんじゃなくて、チクチクと一番痛いところを針で刺してやるのが一番効くんだよ!」ソフィは、作戦会議で部下たちにそう嘯き、彼らの士気を高めたという。彼女の活躍は、連合市民にとっては数少ない明るいニュースとなり、「紅き流星」の伝説をさらに確かなものにしていった。彼女の姿は、プロパガンダ映像やポスターにも頻繁に登場し、連合の抵抗の象徴となっていった。
こうして、広大な銀河を舞台とした巨大な盤上では、アレクシスの静かなる大戦略「サイレント・ストーム作戦」と、ソフィの燃えるような局地戦術「レッド・アロー作戦」が、互いに影響を与え合いながら、複雑な模様を描き出すこととなった。アレクシスは、ソフィの神出鬼没なゲリラ戦術によって、計算され尽くした兵站計画を度々狂わされ、内心で苛立ちを募らせながらも、その予測不能な動きと、敵の意表を突く戦術的センスの高さを、認めざるを得なかった。「彼女は、戦場の『変数』だ。こちらの論理的な計算を、常に感情と直感で狂わせる…実に厄介な存在だ」彼は、自室でチェス盤を眺めながら、そう呟いたとベルクは記録している。
ソフィもまた、連合各地で散発的に発生する原因不明の経済混乱や、巧妙に仕掛けられた社会不安の背後に、見えざる敵…アレクシス・フォン・シュトライザーの冷徹な意図を感じ取り、強い憤りを覚えていた。「奴は、戦場だけでなく、兵士でもない普通の市民の生活まで、平気で戦いの道具にする! なんて卑劣なやり方だ…!」同時に、その知略の底知れなさと、目的のためには手段を選ばない非情さに、本能的な恐怖と、そしてある種の戦慄にも似た感情を感じずにはいられなかった。「あの男を止めなければ、連合は内側から崩壊してしまうかもしれない…」
この二人の対照的な知略と勇猛が、最も激しく、そして最も長期間にわたって火花を散らしたのが、銀河の主要航路を扼する天然の要害、「ケルベロス回廊」とその中核に位置する難攻不落の巨大宇宙要塞「アステリオス」を巡る攻防戦であった。宇宙暦791年から翌792年にかけて、両軍はこの銀河の喉元とも言える戦略的要衝の支配権を巡り、数ヶ月にもわたる、血で血を洗う死闘を繰り広げることとなる。
アレクシスは、アステリオス要塞の文字通り鉄壁とも言える圧倒的な防御力と、回廊内に三重に仕掛けたステルス機雷原、そして伏兵艦隊による多重トラップを組み合わせ、連合軍の侵攻を着実に阻み、消耗させようとした。彼は、焦って攻勢に出るであろう連合軍を、要塞という巨大な「金床」の上で、自軍の艦隊という「鉄槌」で打ち砕き、最終的に包囲殲滅するという、古典的だが確実なシナリオを描いていた。彼は、ソフィ・ベルナルドの存在を警戒しつつも、この堅牢な要塞と周到な罠の前では、彼女の奇策も通用しないだろうと計算していた。
しかし、ソフィはアレクシスの罠を警戒し、正面からの無謀な消耗戦を断固として避けた。彼女は、要塞攻略は不可能と判断し、目標を要塞機能の一時的な麻痺と、帝政軍への継続的な打撃による戦意喪失に切り替えた。そして、誰もが不可能、あるいは自殺行為と考えていた、ケルベロス回廊脇に広がる、航行不能とされる高密度デブリ帯(かつての戦闘で破壊された艦艇や小惑星の残骸が密集する危険宙域)を踏破するという、前代未聞の奇策を敢行したのである。彼女は、麾下の最も操艦技術に優れた精鋭部隊を選抜し、自ら先頭に立って、危険極まりないデブリ帯を、まるでアクロバット飛行のように突破。そして、帝政軍が全く予想していなかったアステリオス要塞の死角となる後背部から、奇襲攻撃を仕掛けたのである。この神出鬼没の攻撃により、要塞の索敵システムや通信機能の一部が一時的に麻痺し、帝政軍の指揮系統は混乱に陥った。
「報告! 要塞後方より、所属不明部隊の奇襲! 敵は…ベルナルド隊です!」アステリオス要塞司令部に、驚愕の報告がもたらされた。
「またしてもベルナルドか!」帝都で作戦を指揮していたアレクシスは、報告を受け、苦々しげに、しかしどこか感嘆したように呟いた。「彼女の発想は、常にこちらの論理的思考の枠を超えてくる…あのデブリ帯を突破するなど、狂気の沙汰だ。だが、それを実行に移すとは…」彼は即座に対応策を講じ、予備兵力を投入してソフィの部隊を押し戻そうとするが、ソフィもまたヒット・アンド・アウェイ戦法を繰り返し、粘り強く抵抗し、一進一退の攻防が続いた。
『毎日が地獄だ。いつ、あの「紅き流星」がデブリの影から突っ込んでくるか分からない。レーダーには映らないんだ! 俺たちは一体、何と戦っているんだ? シュトライザー閣下は、本当に俺たちを守ってくれるのか…』ケルベロス回廊に駐留する帝政軍の一兵士が、戦闘の合間に書き残した日記には、そんな悲痛な言葉が赤裸々に綴られていた。
ケルベロス回廊の戦いは、双方に甚大な人的・物的損害をもたらしながらも、決定的な決着を見ないまま、数ヶ月にわたって長期化した。それは、アレクシスの緻密な知略と、ソフィの常識を超えた勇猛さが、互いに相手の長所を打ち消し合い、短所を突き合う、まさに互角の、そして泥沼の戦いであった。そして、この長く過酷な戦いを通して、アレクシスとソフィは、互いを単なる「敵将」としてだけでなく、己の能力と限界を測る上での、唯一無二の「好敵手」として、より強く、そして複雑な感情を伴って意識するようになっていったのである。それは、憎しみと敬意、脅威と魅力が入り混じった、奇妙な絆とも呼べるものであったのかもしれない。
第五章:嵐の中心で ~それぞれの試練~
外敵との熾烈な戦いが銀河を揺るがす一方で、アレクシスとソフィは、それぞれの国家内部に存在する、もう一つの、より陰湿で厄介な「敵」とも戦わなければならなかった。戦争という未曽有の状況は、両国の社会に長年潜んでいた矛盾や対立、権力闘争を、より一層顕在化させ、彼らをその渦の中心へと引きずり込んでいたのである。
クロノス帝政においては、宇宙暦792年、旧態依然とした体制にしがみつく旧守派貴族たちによる、帝政史上でも最大規模となる反乱「鉄の王冠の乱」が勃発した。これは、アレクシス・フォン・シュトライザーの急速な台頭と、彼が皇帝マクシミリアン3世の後ろ盾を得て進めようとしていた軍制改革(それは貴族の世襲的な特権や、旧来の軍閥の利権を根本から脅かすものであった)に対する、守旧派勢力の組織的な、そして周到に準備された反発であった。宰相ゲルハルト公は、表向きは皇帝への忠誠を誓い、中立を装いながらも、裏では反乱勢力に情報を流し、資金援助を行うなど、密かに、しかし確実に反乱を扇動していたとも言われる。彼の狙いは、アレクシスと反乱軍を共倒れさせ、混乱に乗じて自らの権力をさらに強化することにあったのかもしれない。
皇帝マクシミリアン3世は、この国家を揺るがす反乱の鎮圧を、迷うことなくアレクシスに命じた。だが、それは彼への絶対的な信頼を示すと同時に、結果的に、ゲルハルト公の策略に乗る形ともなった。アレクシスに与えられた兵力は、反乱軍の規模に比して明らかに不足しており、しかも補給や後方支援に関しても、ゲルハルト公の影響下にある官僚たちによる、執拗なサボタージュや妨害工作が相次いだ。アレクシスは、正面の敵と戦いながら、同時に背後からの見えざる攻撃にも対処しなければならないという、二重の苦境に立たされた。
「内なる敵の方が、外なる敵よりも、はるかに厄介かもしれんな」遠征先の旗艦『ブリュンヒルデ』の艦橋で、前線からの苦しい報告を受けながら、アレクシスは腹心のオスカー・フォン・ベルク少将に、珍しく疲労の色を浮かべて弱音とも取れる言葉を漏らした。
ベルクは、主君の苦悩を間近に見ていた。彼は、アレクシスがただ冷徹なだけの人間ではないこと、その冷静な仮面の下に、帝国と民衆への深い責任感と、時に激しい情熱を秘めていることを知っていた。「しかし閣下、我々には閣下を信じ、付き従う者たちがおります。そして何より、帝国の未来は、腐敗した旧体制にしがみつく者たちではなく、閣下のような真の指導者にかかっていると、多くの者が信じております」彼は、自らの忠誠を改めて示し、主君の孤独な戦いを最後まで支え抜く決意を新たにした。「私が閣下の剣となり、盾となります」
アレクシスは、ベルクの言葉に静かに頷き、再び冷徹な戦略家の顔に戻った。彼は、この二重の苦境にあっても、決して諦めなかった。限られた手勢を巧みに運用し、情報操作によって反乱軍内部の連携を分断。反乱に参加した貴族たちの、それぞれの利害対立や猜疑心を利用し、彼らを巧みに誘導して各個撃破していく。同時に、ベルクら信頼できる側近たちと共に、宮廷内の妨害工作に対抗するための独自の秘密情報網を構築し、ゲルハルト公の陰謀の証拠を掴み、反撃の機会を虎視眈々と窺った。数ヶ月にわたる、血と汗と神経をすり減らす苦闘の末、アレクシスはついに反乱軍主力を壊滅させ、首謀者たちを捕縛することに成功する。
この「鉄の王冠の乱」鎮圧の功績により、彼の軍内での地位は、もはや誰にも揺るがすことのできないほど確固たるものとなった。皇帝からの信任も絶対的なものとなった。しかし、同時に彼は、帝政内部に深く根差した腐敗と対立構造の根深さ、そして改革の道のりの険しさを改めて痛感することとなった。彼は、真の改革を成し遂げるためには、軍事的な勝利や皇帝の信任だけでは不十分であり、旧守派の牙城である宮廷と官僚機構を完全に掌握するための、より強大な政治的な力をも手にする必要があると、密かに、そして冷徹に決意を固めたのである。
一方、リベルタス共和国連合でも、深刻な内部対立が、戦争の長期化と共に表面化していた。長引く戦争は国民生活を著しく圧迫し、各地で反戦デモやストライキが頻発。政治家への不信感は頂点に達し、連合の結束は揺らぎ始めていた。そんな中、宇宙暦793年、統合軍総司令官マードック元帥に近い一部の軍部強硬派が、救国班会議を名乗り、クーデター未遂事件を起こした。彼らは「腐敗しきった文民政治家を一掃し、強力な軍事政権を樹立して戦争遂行体制を確立すべし」と主張し、首都フリーダムポートの主要施設を占拠し、最高評議会を打倒するという、具体的な武力蜂起計画を立てていたのである。
救国班会議の首謀者たちは、国民的人気の高いソフィ・ベルナルドにも接触し、クーデターへの参加、あるいは少なくとも支持を取り付けようと画策した。彼らは、ソフィもまた現体制の腐敗や非効率さに強い不満を抱いていると考え、彼女を「新しい連合の象徴」として担ぎ上げようとしたのだ。しかし、ソフィは、彼らの主張に一部共感する点があったとしても、その急進的で排他的な思想と、何よりも民主主義という連合の根幹を暴力で否定するやり方に、強い反発と嫌悪感を覚えた。
「力で自由を奪い取ろうなんて、本末転倒だよ! それじゃあ、私たちが戦っている帝政と同じじゃないか! 私たちが命を賭けて守ろうとしているのは、たとえ不完全でも、自分たちの手で未来を選び取る権利なんだ!」彼女は、救国班会議の使者に対し、きっぱりと要求を拒否した。
ソフィは、クーデターの具体的な計画とその危険性を察知すると、即座に行動を起こした。彼女は、自身の人気が政治的に利用されることを警戒しつつも、この危機を乗り越えるためには、あらゆる手段を使わなければならないと判断した。彼女は、最高評議会議長アダムス(彼もまた、自身の権力維持のためにクーデターは絶対に阻止したかった)と、表向き協力関係を結んだ。同時に、最も信頼できる右腕であり、冷静な判断力を持つジャン・ラサール少将(ケルベロスでの功績により昇進)と緊密に連携し、対策を練った。
ソフィは、まずメディアを通じて、クーデター計画の存在を暴露し、その危険性と不当性を国民に直接訴えた。彼女の言葉は絶大な影響力を持ち、民衆の支持は明確に現体制維持へと傾き、救国班会議の大義名分は急速に失われた。さらに、ラサールと共に、軍内部の穏健派や、マードック元帥とは距離を置く他の派閥の将校たちにも働きかけ、説得工作を進めた。ソフィ自身の前線での実績と人望も、この説得を後押しした。
「提督は、またしても連合を救ってくださった。だが、そのお心の内はいかばかりか…。民衆の期待と、組織の軋轢、そして戦争の現実。その全てを一身に背負われている提督の姿を見ていると、胸が締め付けられる思いがする」ラサールは、クーデターが未遂に終わった後、自身の私的な記録にそう記している。彼は、ソフィの純粋さと強さを誰よりも理解していたが故に、彼女が背負う重荷の大きさに、深い同情と、そして彼女を最後まで守り抜かねばならないという強い使命感を覚えていた。
結果として、救国班会議のクーデター計画は、実行に移される前に内部から瓦解し、首謀者たちは逮捕された。首都での大規模な武力衝突は最小限に抑えられたが、この事件はソフィに大きな、そして癒えることのない爪痕を残した。彼女は改めて、軍上層部との埋めがたい溝の深さと、政治家たちの自己保身と権力欲、そして戦争が生み出す社会の歪みを、嫌というほど目の当たりにした。民衆の期待を一身に背負い、救国の英雄としてさらに祭り上げられながらも、組織の中ではより一層孤立感を深めていくソフィは、自由と平和という自らの理想と、戦争という過酷な現実の狭間で、これまで以上に深く苦悩することになる。「私は、一体何のために戦っているんだろう…この先に、本当に私たちが望む未来はあるのだろうか…」そんな虚無感にも似た疑問が、時折、彼女の脳裏を容赦なくよぎるようになっていた。救国班会議の残党の一部は逮捕を逃れて地下に潜伏し、後の連合社会における不安定要因となる可能性も示唆された。
嵐の中心で、アレクシスとソフィは、それぞれの試練に立ち向かっていた。外敵との戦い以上に過酷で、複雑な、内なる敵との戦い。それは、彼らのリーダーシップを否応なく鍛え上げると同時に、彼らが背負うものの重さと、その頂点に立つ者の逃れられない孤独を、より深く、そして痛切に刻み込む経験となったのである。
第六章:仮面の下の素顔 ~刹那の邂逅~
宇宙暦793年末。長引く戦争に疲弊した銀河に、一筋の、しかし儚い光明とも言える出来事が訪れた。クロノス帝政とリベルタス共和国連合の間で、双方合わせて数万名規模となる、大規模な捕虜交換が合意されたのである。両国ともに、戦争長期化による国内の厭戦気分は無視できないレベルに達しており、特に兵士たちの間では士気の低下も顕著になっていた。人道的見地からも、そして国内世論への配慮からも、この捕虜交換は、両国の指導者にとって実行せざるを得ない、しかし歓迎されるべきものであった。交換式典の開催場所として選ばれたのは、両国の勢力圏の狭間に位置し、厳格な中立政策を維持することで知られる惑星国家、テラ・ノヴァであった。
この歴史的とも言える式典に、両国はそれぞれ威信をかけた代表団を派遣した。そして、それは運命の悪戯か、あるいは両国首脳部の何らかの政治的な意図があったのか――帝政側はアレクシスの影響力拡大を牽制しつつもその存在感を内外に示すため、連合側はソフィの人気を最大限に利用しつつ軍内部での立場を誇示するため――クロノス帝政代表団の責任者には、「鉄の王冠の乱」を鎮圧し名実ともに帝国軍の最高実力者の一人となっていたアレクシス・フォン・シュトライザー上級大将(乱鎮圧の功績により昇進)が、一方のリベルタス共和国連合代表団の責任者には、クーデター未遂事件を収拾し国民的人気が頂点に達していたソフィア・ベルナルド大将(連合の規定を覆す異例の特例昇進)が、それぞれ任命されたのである。銀河で最も注目される二人の軍人が、戦場以外で初めて公式に顔を合わせることになったのだ。
テラ・ノヴァの首都、クリスタル・シティに設けられた広大な式典会場は、テラ・ノヴァ軍による厳重な警備体制が敷かれる中にも、どこか祝祭的な、しかし張り詰めた空気に包まれていた。長年の敵対関係にある両国の、全く異なるデザインの軍服を着た人々が、同じ場所に集うこと自体が、この数十年間で初めてと言っても良い稀有な出来事であった。中立を示す星間赤十字の純白の旗が掲げられ、両国の荘厳な国歌が交互に演奏される中、長年の捕虜生活で痩せ衰え、しかし解放の喜びに顔を輝かせる兵士たちの引き渡しが、粛々と、そして感動的に行われた。
アレクシスとソフィは、それぞれの代表団の最前列で、儀礼的に対面した。純白の帝政軍礼装に身を包んだアレクシスと、鮮やかなブルーの連合軍礼装を纏ったソフィ。二人は、互いに鋭い、探るような視線を交わしながらも、公の場であることを意識し、一切の感情を表に出すことなく、形式的な挨拶を交わした。
「シュトライザー上級大将。この度の捕虜交換が、今後の我々の間に横たわる深い溝を埋める、ささやかながらも確かな一歩となることを、心より願っております」ソフィが先に口を開いた。その声には、連合軍最高司令官としての威厳と、わずかながら、この稀代の敵将に対する緊張が滲んでいた。
「ベルナルド大将。貴官のその言葉が、単なる外交辞令でないことを期待しよう。だが、平和は願うだけでは訪れない。それを忘れてはならない」アレクシスは、感情の全く窺えない静かな、しかし芯のある声で応じた。彼の蒼氷色の瞳は、ソフィの瞳の奥にある、彼女自身も気づいていないかもしれない何かを見透かそうとしているかのようであった。
式典が無事に終わり、場所を移して行われた簡単なレセプションの席。会場は、解放された捕虜たちの喜びの声と、両国の外交官や軍人たちの儀礼的な会話、そして報道陣の喧騒で満ちていた。アレクシスとソフィは、それぞれの国の関係者に囲まれ、当たり障りのない会話を交わしていた。このまま、二人が個人的な言葉を交わすことなく、この場は終わるかに見えた。
だが、その時、会場の照明システムに予期せぬトラブルが発生し、一瞬、全ての照明が落ちるという小さなアクシデントが発生した。ほんの数秒間の完全な暗転の後、非常灯が点灯し、再びメイン照明が復旧した時、なぜかアレクシスとソフィは、喧騒の中心から少し離れた、夜景の美しいテラスへと続く通路の入り口付近で、ほとんど二人きりという状況で立っていた。偶然か、あるいはどちらかが、この混乱を利用して意図的に相手を誘導したのかは、定かではない。歴史の記録には、ただ、そうなっていた、としか記されていない。
短い、しかし重い沈黙が流れた。先に口を開いたのは、アレクシスだった。彼は、テラスの外に広がるクリスタル・シティの壮麗な夜景に目を向けながら、静かに言った。「ベルナルド大将。貴官の戦いぶりには、いつも驚かされる。ヘリオス・ゲートでの、あの無謀とも思える突撃。そして、ケルベロスでの、常識を覆すデブリ帯突破…」彼の声には、敵意とは異なる、純粋な賞賛とも、あるいは理解し難いものへの困惑とも取れる響きがあった。
ソフィは、彼の意外な言葉に少し驚いたような表情を見せたが、すぐに毅然として答えた。「シュトライザー提督こそ、その冷徹なまでの計算高さには、いつも感心させられます。味方の犠牲すら計算に入れるような、あの非情な戦略には…もっとも、感心ばかりもしていられませんが」彼女の言葉には、棘が含まれていた。
「戦争だからな。感傷は不要だ。目的達成のためには、時に非情な決断も必要となる」アレクシスは、表情を変えずに応じた。
「感傷…ですか」ソフィは、彼の言葉を反芻するように呟き、再びテラスの外に広がる、平和に見えるテラ・ノヴァの夜景に目を向けた。「私たちは、なぜこのような、互いの命を奪い合う戦いを続けなければならないのでしょうね…この美しい星のように、ただ穏やかに、互いを認め合って共存することはできないのでしょうか」彼女の声には、深い悲しみと、切実な問いかけが込められていた。
アレクシスの表情が、ほんのわずかに、しかし確かに翳ったように見えた。「理想だけでは、国も民も守れない。秩序なくして平和はありえない。それが、我々人類が、数千年の歴史の中で、血をもって学んだ教訓だ」
「秩序…帝政の言う秩序は、多くの人々の自由と尊厳を犠牲にしているではありませんか? 私たちは、誰かに支配されるためではなく、自由であるために戦っているんです!」ソフィの声に、熱がこもる。
「自由…」アレクシスは、その言葉を静かに繰り返した。「連合の言う自由は、時に衆愚政治と、際限のない混乱を生み出す。貴官も、それを身をもって体験したのではないか? 自由の名の下に行われる暴力もある」彼の言葉は、連合内部のクーデター未遂事件と、それに伴う混乱を暗に示唆していた。
ソフィは、彼の的確な指摘に、一瞬言葉に詰まった。クーデター未遂事件の際の、あの醜い権力争いと、扇動される民衆の姿が脳裏をよぎった。しかし、彼女はすぐに強い口調で言い返した。「それでも…それでも私たちは、自由を諦めない! 不完全かもしれない、間違うこともあるかもしれない! でも、自分たちの手で未来を選ぶ権利を、誰にも奪わせはしない! あなたのような、人の心を計算でしか測れないような人に、私たちの理想が分かるとは到底思えない!」
「分かる、分からないの問題ではない」アレクシスは、感情的になるソフィを、静かな、しかしどこか寂しげな瞳で見つめながら言った。「我々は、それぞれが背負うもののために、それぞれの信じるもののために戦うしかない。それが、我々に与えられた宿命なのだろう。…ベルナルド大将、貴官のような人物が、敵でなければ、あるいは…」彼は、そこまで言いかけて、ふと言葉を切った。
「シュトライザー提督…」ソフィもまた、アレクシスの瞳の奥に、冷徹な仮面の下にある、深い孤独と、あるいは彼女自身と同じような葛藤の影を見たような気がした。彼女もまた、何かを言いかけたが、言葉にならなかった。
その時、二人の忠実な副官、ベルクとラサールが、主君の姿を探して、少し慌てた様子で駆けつけてきた。「閣下、こちらにおられましたか」「提督、お時間です」
束の間の、奇妙な邂逅は終わりを告げた。二人は、まるで魔法が解けたかのように、再び敵対する国家の軍司令官としての仮面をつけ、互いに短い敬礼を交わすと、一言も交わさずに背を向け、それぞれの代表団へと戻っていった。
このテラ・ノヴァでの短い接触は、両国の公式記録には、儀礼的な挨拶以上のものはほとんど残されていない。しかし、後年発見されたアレクシスの私的なメモとされる断片には、「流星の瞳、曇りなく。だが、その純粋さが、彼女自身を焼き尽くさねばよいが…。もし、違う時代、違う場所で出会っていたならば…いや、詮無いことか」という意味深な記述が残されていた。また、ジャン・ラサールの回顧録には、「あの会見の後、フリーダムポートに戻られてから、提督は珍しく、長い時間一人で執務室に篭り、古い星図を眺めておられた。その横顔は、どこか遠くを見つめているようで、以前にも増して寂しげに見えた」と記されている。
歴史家たちは、この刹那の邂逅が、二人の英雄の心理に、決して小さくない、そして複雑な影響を与えたと推測している。互いの人格、苦悩、そして祖国への譲れない想いを、仮面越しに垣間見たことで、彼らの間には、単なる敵愾心だけではない、より深い次元での感情…敬意、共感、そしてそれ故の、より根源的な対立の認識…が芽生えたのかもしれない。それは、互いを最も理解しうる存在でありながら、決して交わることのできない宿命を、改めて突きつけられた瞬間であったのかもしれない。しかし、彼らが置かれた立場と、彼らに寄せられる期待は、それを個人的な感傷として昇華させることを許さなかった。銀河の運命を左右する二つの星は、この邂逅の後、再びそれぞれの軌道へと戻り、もはや避けることのできない、最終決戦へと、その歩みを進めていくしかなかったのである。
第三部:終焉への序曲 ~星々のレクイエム~
第七章:最後の聖戦 ~銀河を賭けて~
ケルベロス回廊での長く血腥い消耗戦は、両国に甚大な人的・物的損害を与えたものの、決定的な勝敗をもたらすには至らなかった。だが、この戦いは、クロノス帝政とリベルタス共和国連合の指導者たち、そして民衆に、一つの明確な認識を植え付けた。もはや中途半端な勝利や、現状維持のための停戦では、この百数十年以上にわたる戦争を終結させることはできない、と。国力の限界は誰の目にも明らかになり始め、国内には厭戦気分と社会不安が暗い影のように広がりつつあった。だからこそ、皮肉にも、両国の指導部は、残された全ての国力と国民の士気を振り絞り、銀河の覇権と、それぞれの国家体制の存続を賭けた、最後の、そして最大の決戦に臨むことを決意したのである。「この一戦で全てを決する!」両国のプロパガンダ機関は、国民に対し最後の勝利を約束し、来るべき「聖戦」への熱狂を、半ば強制的に煽り立てた。もはや、どちらの国にも、後戻りは許されない状況であった。銀河全体が、息詰まるような緊張感に包まれていた。
この最終決戦を前に、クロノス帝政軍では、帝国の歴史を塗り替えるほどの大きな動きがあった。「鉄の王冠の乱」を鎮圧し、ケルベロスでの功績も加わったアレクシス・フォン・シュトライザー上級大将が、若き皇帝マクシミリアン3世の絶対的な信任(それは同時に、依然として宮廷に影響力を残す宰相ゲルハルト公ら旧守派への明確な牽制でもあった)を受け、帝政軍の全艦隊の作戦指揮権を掌握する、宇宙艦隊総司令長官という、帝政史上でも前例のない地位に就いたのである。平民に近い家柄の出身者が、この地位に就くことは、まさに歴史的な出来事であった。帝都クロノポリスの、歴代の名将たちが使ってきた壮麗な総司令長官執務室で、就任の辞令を受けたアレクシスは、窓の外に広がる、無数の星々が輝く宇宙空間を、静かに、しかし感慨深げに見つめていた。
「ついに、この時が来たか…」傍らに控え、同じく中将へと昇進し、彼の首席補佐官となった腹心のオスカー・フォン・ベルクに、アレクシスは静かに、しかし重々しく語りかけた。「我々が目指す、真に公正で秩序ある帝国の未来のためには、この戦いに勝利するしかない。他の道は残されていない」
「閣下の指揮があれば、必ずや勝利を掴めると信じております。我々幕僚一同、命に代えても閣下をお支えいたします」ベルクは、主君への揺るぎない忠誠を込めて、力強く応じた。彼は、この日のために、アレクシスと共に歩んできたのだ。
「ありがとう、ベルク」アレクシスは珍しく穏やかな表情を見せたが、すぐにその瞳に冷徹な光を宿らせて続けた。「だが、勝利の先にあるものを、決して忘れてはならない。我々が築くべきは、単なる帝国の軍事的栄光ではない。腐敗を排し、民衆の生活を安定させる、真に秩序ある、持続可能な社会だ。…そのためには、多くの血が流れることになるだろう。敵だけでなく、味方の血も。…私も、そして恐らくは、君も、その覚悟を決めねばなるまい」
ベルクは、主君の瞳の奥に宿る、氷のような冷徹な覚悟と、その裏にある、測り知れないほどの深い苦悩と孤独を見た。彼は、かけるべき言葉を見つけられず、ただ黙って、深く頭を垂れた。彼もまた、この最後の戦いに、自らの全てを捧げる覚悟を決めていた。
一方、リベルタス共和国連合においても、最終決戦に向けた最高指揮体制が整えられつつあった。救国班会議によるクーデター未遂事件を収拾し、民衆からの絶大な人気と、前線兵士からの揺るぎない信頼を得ていたソフィア・ベルナルド大将が、最高評議会の満場一致による特別決議により、連合の全軍事力を統括する**最高司令長官(戦時特例)**に任命されたのである。これもまた、連合の歴史において前例のない人事であり、彼女がいかに多くの人々の希望を一身に背負っているかを示していた。しかし、軍内部、特にマードック元帥を中心とする旧主流派には、依然として彼女への反発や嫉妬も根強く、彼女の指揮権を快く思わない勢力も存在した。その重圧は、彼女の比較的若い肩には、あまりにも重すぎるものであったかもしれない。
就任後、ソフィは旗艦として新たに与えられた最新鋭の大型巡洋艦『ヘクトル』(カストルで活躍した駆逐艦の名を受け継いだ)の、広大な展望デッキで、同じく中将に昇進し、彼女の最も信頼する副官となったジャン・ラサールと二人きりで話していた。眼下には、最終決戦のために、連合の各惑星から集結しつつある、連合の誇るべき、しかし帝政軍に比べれば数で劣る大艦隊が、星々の光を反射して静かに停泊していた。
「すごい数だね…これだけの艦と、これだけの命を、この私が預かることになるなんて…正直、ちょっと怖いよ」ソフィは、ガラス越しに艦隊を見つめながら、普段の彼女からは想像できないような弱音を、ラサールにだけは打ち明けた。
「提督ならできます。あなたは、カストルでも、ヘリオス・ゲートでも、ケルベロスでも、不可能を可能にしてこられたではありませんか。我々は皆、あなたを信じています。あなたの行くところ、我々はどこまでもついていきます」ラサールは、変わらぬ忠誠心と、心からの敬意を込めて、彼女を励ました。彼は、ソフィの強さも弱さも知っていたが、彼女の持つ、人々を惹きつけ、不可能を可能にする力を、誰よりも信じていた。
「ありがとう、ジャン。信じてくれるのは、本当に嬉しいよ」ソフィは、ラサールの言葉に力づけられ、少しだけ微笑んだ。だが、すぐにその表情は曇った。「でもね、ジャン…考えてしまうんだ。この戦いで、一体どれだけの人が死ぬことになるんだろうって。私たちが守りたい自由や平和のために、こんなにも多くの血を流さなきゃならないなんて…本当に、皮肉だよね」
「…それが、戦争というものの、悲しい現実だからです、提督」ラサールは静かに答えるしかなかった。
「分かってるよ」ソフィは、寂しげに、しかし強い意志を込めて微笑んだ。「だからこそ、勝たなきゃならない。絶対に勝って、この馬鹿げた戦争を終わらせるんだ。そして、勝った後には、二度とこんな悲劇が起きないような、誰もが自由に、安心して暮らせる世界を作らなきゃ。それが、これから死んでいくかもしれない仲間たちへの、私にできる、せめてもの償いだ」彼女の瞳には、悲壮なまでの、しかし揺るぎない決意が宿っていた。
決戦前夜。銀河全体が、嵐の前の静けさに包まれていた。
帝都クロノポリスのアレクシスは、広大な総司令長官執務室で、一人、壁一面に投影されたヴァルグリンド星域の立体星図を前に、瞑想に耽っていた。傍らのテーブルには、複雑な終盤戦を迎えたままのチェス盤が置かれていた。彼は、この最後の戦いに勝利し、その先にある帝政の抜本的な改革、そして自らが理想とする秩序ある銀河の実現という、彼が長年描き続けてきた「王手」への道筋を、静かに、そして冷徹に、寸分の隙もなく確認していた。彼は、勝利のために、あらゆる犠牲を払う覚悟を決めていた。自らの命すらも、その計算の中に入れて。
一方、自由首都フリーダムポートから遠く離れた前線基地に集結した連合艦隊。その旗艦『ヘクトル』では、ソフィがブリッジで、ラサールら主要な幕僚たちと最後の作戦会議を行っていた。彼女は、兵士たち一人ひとりの顔を思い浮かべ、彼らの無事を心の底から祈りながらも、勝利のためには多くの犠牲を覚悟しなければならないという現実に、胸を締め付けられるような痛みを覚えていた。会議の後、彼女は一人残り、全軍に向けて放送されることになるであろう、決意と希望、そして兵士たちへの感謝を込めたメッセージの最終稿を、何度も何度も推敲していた。そのタイトルは「我らが旗のもとに」であった。彼女は、全ての兵士の命を守ることはできないかもしれないが、彼らの死を無駄にはしないと、固く誓っていた。
『父さん、母さん、元気ですか。いよいよ明日、銀河の運命を決める大決戦です。怖いかって? そりゃあ怖いです。でも、俺たちには、あのベルナルド提督がついています。あの「紅き流星」が、きっと俺たちを勝利に導いてくれます。だから、心配しないでください。必ず生きて帰って、また皆に会います。連合の自由と平和のために!』これは、連合軍に所属する一人の若い兵士が、決戦前夜に故郷の家族へ送った、最後の音声通信記録として保存されている。
歴史書は記す。「『ラグナロク会戦』前夜、両国のプロパガンダは、それぞれの英雄を神の如く称え、圧倒的勝利を疑わない熱狂的な報道を繰り返した。だが、その喧騒の陰で、銀河の命運をその双肩に担うことになった二人の若き総司令官は、それぞれに深い孤独と、計り知れない重圧の中で、最後の夜を過ごしていた。彼らは、これから始まるであろう銀河史上最大の殺戮と、避けられないであろう夥しい犠牲の予感に、人知れず深く苦悩していたのである。後世に発見されたアレクシスの最後の親書(皇帝への忠誠と、自らの改革案の実現を託す内容とされる)の草稿や、ソフィの感動的な全軍演説放送『我らが旗のもとに』の記録断片は、その英雄的な仮面の下にあった、彼らの人間的な葛藤と覚悟を、雄弁に物語っている」
銀河の未来を賭けた最後の戦い、「ラグナロク会戦」の幕開けは、もう目前に迫っていた。二つの星は、その輝きを最大限に放ち、避けられない衝突の瞬間を迎えようとしていた。
第八章:神々の黄昏 ~ラグナロク会戦~
宇宙暦794年。歴史の教科書に、後に「神々の黄昏」と記されることになる、人類史上最大規模にして最も凄惨な艦隊決戦の火蓋が、ついに切って落とされた。戦場となったのは、両国の勢力圏が複雑に交錯し、戦略上の最終結節点と目されていた「ヴァルグリンド星域」。この広大な、しかし星間物質が濃く航行が困難な宙域に、クロノス帝政軍、リベルタス共和国連合軍、合わせて数十万隻に及ぶ空前絶後の大艦隊が集結し、互いの国家体制の存亡と、銀河の未来を賭けた、文字通り最後の戦い、「ラグナロク会戦」が始まったのである。
戦端は、アレクシス・フォン・シュトライザー率いる帝政軍の、計算され尽くした先制攻撃によって開かれた。彼は、この決戦のために数年間かけて周到に準備してきた、彼の戦略思想の集大成とも言える多次元複合戦略「神々の鉄槌」を発動した。それは、精密極まりない計算に基づいた艦隊配置による敵の分断と包囲、高度な電子戦(ECM)による敵指揮・通信系統の完全な麻痺、広範囲に展開された探知不能なステルス機雷原、そして精鋭中の精鋭で編成された特殊部隊「ヴァルキューレ」による敵中枢(旗艦や司令部)への奇襲攻撃などを、完璧なタイミングで組み合わせた、恐るべき複合戦略であった。
ヴァルグリンド星域の各所で、帝政軍の仕掛けた罠が、まるで連鎖反応のように次々と発動した。連合軍の先鋒部隊は、巧妙に偽装された味方からの偽情報に誘い出され、孤立したところを帝政軍の伏兵艦隊による集中砲火を浴びて壊滅。主力艦隊も、予期せぬ方向からの奇襲攻撃と、突如として機能を停止する索敵・通信システム、そして次々と誘爆する機雷によって大混乱に陥り、統制を失いかけた。帝政軍の艦艇は、あたかも北欧神話の神々が振るう無慈悲な鉄槌のように、正確かつ冷酷に、次々と連合艦隊を打ち砕いていく。序盤の戦況は、完全にアレクシスの支配下にあった。
「報告! 第七艦隊、指揮官戦死、通信完全に途絶!」「第十二艦隊、敵機雷原に接触、損害甚大、戦闘継続不能!」「敵特殊部隊が、後方補給基地及び野戦病院を奇襲、占拠された模様!」次々と司令部に飛び込んでくる凶報に、連合軍総旗艦『ヘクトル』のブリッジは、絶望的な緊迫感と、焦りの空気に包まれた。
「くっ…シュトライザーめ、ここまで用意周到だったとは…! こちらの動きが、何もかも読まれている…!」ソフィは、戦況表示モニターに映し出される味方の損害を示す赤い警告表示を睨みつけ、唇を噛み締めた。このままでは、自慢の機動力も活かせぬまま、艦隊は分断され、各個撃破されてしまう。彼女の心臓は、焦りと怒りで激しく鼓動していた。
だが、ソフィア・ベルナルドは、この絶望的な状況においても、決して諦めるという選択肢を持たなかった。彼女は、アレクシスの緻密な計算と論理を打ち破るには、計算や論理を超えた、「何か」…それは、人間の持つ、土壇場での閃き、あるいは狂気にも似た決断力…が必要だと直感した。彼女は、傍らで負傷したオペレーターの手当てをしていたラサール中将に向き直り、叫んだ。
「全艦隊に通達! 聞こえる全ての艦に告ぐ! これより、最終作戦フェーズに移行! プラン・デルタ…『グングニル・チャージ』を発動する!」
「グングニル・チャージ」。それは、ソフィがこの日のために、万が一の最後の切り札として温めていた、究極の、そして狂気の沙汰とも言える一点突破戦術であった。残存する全艦隊の、戦闘に使用する以外の全てのエネルギーを推進機関に集中させ、艦体の防御や回避運動をほぼ度外視した超々高速で、敵陣の最も強固と思われる一点…すなわち、敵総司令官アレクシス・フォン・シュトライザーの総旗艦『ブリュンヒルデ』が存在するであろう中枢部を目掛けて、文字通り、神話の必中の槍「グングニル」のように一直線に突撃するという、自殺行為にも等しい戦術であった。
「提督、それは無謀です! それでは味方の損害が、あまりにも大きすぎます! 我々自身も…!」ラサール中将が、血の気の引いた顔で叫ぶ。彼は、ソフィの作戦の意図を理解したが、そのあまりの危険性に、思わず制止の言葉が出た。
「分かってる! でも、これしか奴の計算を狂わせる方法はない! 私たちの速さは、奴の計算を超えられるはずだ! 行くよ、ジャン! みんな、私に続け!」ソフィの瞳には、決死の覚悟と、仲間への信頼の光が宿っていた。
ソフィの決然たる号令一下、混乱の中にあった連合艦隊は、まるで一つの生命体のように再び統制を取り戻し、隊列を再編。そして、恐るべき、信じられないほどの速度で加速を開始した。帝政軍の予測を遥かに超えた防御砲火を浴びながらも、次々と僚艦が閃光の中に消えながらも、彼らはただ一点、敵中枢を目指して突き進む。その常軌を逸した、捨て身の猛進撃は、アレクシスの計算され尽くした戦場に、予測不能な、巨大な亀裂を生じさせた。それは、論理に対する、感情と意志力の挑戦でもあった。
「報告! 敵主力、突如として我が中枢に向け、信じられない速度で突撃中! 回避不能!」帝政軍総旗艦『ブリュンヒルデ』のブリッジに、かつてないほどの驚愕と混乱の声が響いた。
「…『グングニル』か。やはり、あの女は最後の最後に、このような非合理な手に打って出るか。愚かな。自滅するだけだ」アレクシスは、迫り来る無数の光点をモニターで見つめながら、冷静に、しかし内心ではわずかな動揺を隠せずに呟いた。彼の完璧な計算の中に、これほどの速度と、これほどの犠牲を厭わない突撃は、含まれていなかった。「だが、それも計算のうちだ」彼は即座に迎撃態勢を最高レベルに引き上げるよう指示するが、連合艦隊の突撃速度は、彼の予想をもわずかに上回っていた。
ラグナロク会戦は、中盤から終盤にかけて、もはやどちらの司令官にも制御不能な、混沌とした激戦の様相を呈した。帝政軍の緻密な包囲網と、連合軍の捨て身の突撃が、銀河の一角で激しく衝突し、ヴァルグリンド星域は、灼熱の閃光と、巨大な爆炎、そして無数の艦艇の残骸が漂う、文字通りの地獄と化していった。
この想像を絶する激戦の中で、両軍の多くの名将、勇士たちが、その名前も忘れ去られるほどの数、次々と命を散らしていった。アレクシスの右腕として、常に彼の傍らにあり続けたオスカー・フォン・ベルク中将は、主君を守るために『ブリュンヒルデ』の直掩艦隊を指揮し、最前線で奮戦。しかし、連合軍戦闘艇の集中攻撃を受け、乗艦が大破。彼自身も重傷を負い、意識を失う寸前、「閣下…どうか…ご武運を…そして、帝国の…未来を…」彼は薄れゆく意識の中で、ただただ主君の勝利と理想の実現を祈った。
ソフィの長年の盟友であり、彼女の最も信頼する副官であったジャン・ラサール中将もまた、敵特殊部隊「ヴァルキューレ」の『ヘクトル』艦橋への強襲を、身を挺して防ぐ戦闘の最中、敵兵の凶弾を受け、瀕死の重傷を負ってしまう。「提督…あとは…頼み…ます…自由…を…」彼の最後の言葉は、途切れ途切れになりながらも、ソフィの耳にはっきりと届いた。彼の視界には、涙を堪えながらも、必死に指揮を執り続けるソフィの横顔が、最期に映っていた。
さらに、戦場の混乱は、予期せぬ、そして卑劣な方向からもたらされた。クロノス帝政内部で、戦況の混乱に乗じて、長年アレクシスを敵視してきた宰相ゲルハルト公が、ついにその牙を剥いたのである。彼は、自らに忠誠を誓う私兵艦隊(それは帝国正規軍とは別個に、彼が秘密裏に養成してきたものであった)を動かし、友軍であるはずのアレクシスの艦隊、特に旗艦『ブリュンヒルデ』に対して、後方から妨害工作、あるいは直接的な攻撃を開始したのである。アレクシスは、正面のソフィ率いる連合軍という最大の敵と戦いながら、同時に背後からの味方による裏切りにも対処しなければならないという、まさに絶望的な状況に追い込まれた。
「ゲルハルトめ…! この私怨のために、帝国そのものを滅ぼす気か!」アレクシスは、『ブリュンヒルデ』の艦橋で、かつてないほどの怒りに体を震わせた。彼の冷静な仮面が、初めて完全に剥がれ落ちた瞬間であった。
一方、リベルタス連合内部でも、混乱は起きていた。戦争の早期終結を望む一部の厭戦派議員や官僚たちが、最高評議会の承認を得ずに、独断で帝政側(おそらくゲルハルト公派閥と裏で通じていたのかもしれない)に停戦を打診する秘密通信を送るなど、現場の混乱をさらに助長する動きが見られた。ソフィは、自軍の士気を維持し、目前の敵と戦いながら、こうした内部からの足の引っ張り合いにも、神経をすり減らさなければならなかった。「今は戦う時なのに! なぜ分からないんだ!」彼女の叫びは、混乱した通信の中で虚しく響いた。
神々の黄昏、ラグナロク。その名が示す通り、ヴァルグリンド星域は、もはや人間の理性や戦略を超えた、巨大な混沌の坩堝と化していた。そして、この血と炎と裏切りが渦巻く混沌の果てに、銀河の運命を担った二つの巨星は、まるで互いを引き合うかのように、その軌跡を交差させ、最後の、そして避けられない衝突へと向かっていくのである。
第九章:星、墜つるとき ~双星、砕け散る~
ラグナロク会戦は、想像を絶する破壊と混沌の末、最終局面を迎えていた。ヴァルグリンドの宙域は、破壊された数十万の艦艇の残骸が漂い、数百万、あるいはそれ以上の犠牲者の魂が彷徨う、巨大な墓場と化していた。もはや、どちらの軍にも組織的な戦闘を継続する力はほとんど残されていなかった。両軍の兵士たちは、疲弊しきり、絶望と虚脱感に打ちひしがれていた。だが、その広大な戦場の中央では、あたかもスポットライトを浴びるかのように、二つの艦影だけが、互いの存在を確かめ合い、最後の力を振り絞って対峙しようとしていた。
アレクシス・フォン・シュトライザーの総旗艦、白銀の超弩級巡洋艦『ブリュンヒルデ』。
ソフィア・ベルナルドの総旗艦、紅蓮の最新鋭大型巡洋艦『ヘクトル』。
両艦とも、これまでの筆舌に尽くしがたい激戦で深い傷を負い、装甲は剥がれ落ち、あちこちから黒煙を噴き上げ、満身創痍の状態であった。ブリッジのクルーも多くが倒れ、艦の機能の多くが失われ、戦闘能力は著しく低下していた。しかし、その艦橋に立つ二人の指揮官は、まるで古より定められた宿命に導かれるかのように、互いの旗艦を、この銀河大戦最後の決戦の場へと向けた。それは、もはや国家やイデオロギーを超えた、二人の天才による、魂の対決であったのかもしれない。
「ベルナルド…貴官との決着は、やはり、この私の手でつけさせてもらうしかないようだな」アレクシスは、戦闘で切ったのであろう額から流れる血を手の甲で拭い、割れたブリッジの窓越しに、紅蓮の敵艦を睨みつけながら、静かに、しかし確かな闘志を込めて呟いた。背後からの裏切りに遭いながらも、彼の瞳には、生涯を通じて唯一認め合った好敵手への敬意と、自らの手でこの長きにわたる戦いの歴史に終止符を打つという、揺るぎない、そして冷徹な決意が宿っていた。
「シュトライザー…あんただけは、私が倒す…! これ以上、誰も死なせないために! みんなの未来のために!」ソフィもまた、傍らで息を引き取ったクルーの手をそっと握りしめ、涙を振り払うように顔を上げ、最後の闘志を燃え上がらせていた。自由と平和のために、そして散っていった全ての仲間たちの想いを背負って、この憎むべき、しかし認めざるを得ない強大な敵を、ここで打ち破らねばならない。それが、生き残った者の、そして最高司令長官としての彼女の最後の責任だった。
二つの旗艦は、互いに残された最後の推進力を振り絞り、最後の突撃を開始した。それは、もはや戦術や戦略を超えた、二人の人間の、意地と意地の、そして魂と魂のぶつかり合いであった。銀河の歴史が、この瞬間に凝縮されたかのような、壮絶な光景であった。
アレクシスは、『ブリュンヒルデ』に残された最後の切り札、艦首に搭載された、一撃で戦艦すら蒸発させる威力を持つ戦略級の指向性エネルギー兵器「バルムンク」の最終チャージを命じた。莫大なエネルギーを極限まで圧縮し、一点に集中させ、『ヘクトル』の艦橋を、そこにいるであろうソフィア・ベルナルドごと、原子レベルで消滅させる。それが彼の、非情なまでの合理性に基づいた、最後の戦術であった。
一方、ソフィもまた、『ヘクトル』に残された全てのエネルギーを、艦首に装備された大口径の主砲「アキレス」に注ぎ込むよう、残ったクルーに絶叫するように命じた。防御は完全に捨て、敵の砲火を浴びながらも、超近接戦闘距離まで肉薄し、『ブリュンヒルデ』の構造的弱点である巨大な動力炉セクションを、零距離から撃ち抜く。それが彼女の、直感と勇気に基づいた、最後の賭けであった。
閃光が、二度、迸った。
アレクシスの放った「バルムンク」の、全てを焼き尽くすかのような純白の光条が、『ヘクトル』の艦橋を正確に捉え、紅蓮の装甲を紙のように貫き、内部で炸裂した。
ほぼ同時に、ソフィの最後の賭け、『ヘクトル』の主砲「アキレス」から放たれた、灼熱のプラズマエネルギーの塊が、『ブリュンヒルデ』の厚い装甲を溶かしながら艦腹に深々と食い込み、艦体中枢の巨大な動力炉を誘爆させた。
時間にして、ほんの一瞬の出来事であった。
ヴァルグリンドの、残骸が漂う静寂の宙域に、二つの巨大な、そして恐ろしく美しい光球が生まれた。
白銀の『ブリュンヒルデ』が、内部からの凄まじい連鎖爆発により、その優美な姿を微塵も残さず、完全に砕け散った。
紅蓮の『ヘクトル』もまた、艦橋を含む上部構造物を完全に失い、制御不能のまま、ゆっくりと回転しながら、やがて大爆発を起こし、星屑と化した。
アレクシス・フォン・シュトライザー、戦死。享年34歳。
ソフィア・ベルナルド、戦死。享年32歳。
銀河を揺るがし、その運命を左右した二つの若き巨星は、「ラグナロク」の戦場で、文字通り、星屑となって砕け散ったのである。
彼らの最期の瞬間に、その脳裏に何が去来したのか。故郷の惑星の青い空か、守りたかった民衆の笑顔か、あるいは、生涯を通じて戦い、そして認め合った、ただ一人の好敵手の姿であったのか。それは、もはや誰にも知る由はない。歴史は、ただその事実だけを、冷徹に記録するのみであった。
二人の最高司令官の同時戦死という、信じがたい衝撃的な事実は、瞬く間に、混乱した通信網を通じて戦場全体へと伝わった。それは、疲弊しきっていた両軍の兵士たちから、最後の戦意をも、完全に奪い去るのに十分であった。憎むべき敵将の死を喜ぶ声よりも、自軍の英雄の喪失への悲嘆と、そしてこの不毛な戦いへの深い虚しさが、兵士たちの心を支配した。砲火は完全に止み、エンジン音も消え、ヴァルグリンドの宙域には、死んだような、重い静寂が訪れた。もはや、勝利者も、敗北者もいなかった。ただ、途方もない喪失感と、戦争そのものへの虚無感だけが、生き残った者たちの心を重く支配していた。
この絶望的な状況を収拾したのは、奇跡的に生き残った、両軍の次席以下の現場指揮官たちであった。帝政軍では、重傷を負いながらも医療班の懸命な処置で意識を取り戻したオスカー・フォン・ベルクが、朦朧とする意識の中で、しかし明確な意志を持って停戦を指示した。連合軍では、同じく瀕死の状態から蘇生したジャン・ラサールが、ソフィの最後の願いを汲み取るかのように、これ以上の無益な殺戮を避けるため、残存艦隊に戦闘停止を命じた。彼らは、緊急回線を通じて互いに連絡を取り合い、それぞれの最高司令官の最後の意志を(ある意味で勝手に)忖度し、現場レベルでの全面的な戦闘停止を宣言した。疲弊しきった両軍の兵士たちに、その命令に異を唱える者は、誰一人としていなかった。
「ラグナロク会戦」は、銀河史上最も壮絶で、最も多くの犠牲者を出し、そして最も悲劇的な結末を迎えた。歴史書は記す。「『ラグナロク会戦』における両軍最高司令官の同時戦死は、銀河史における最大の悲劇の一つとして、永遠に記憶されることとなるだろう。彼らの死は、百数十年にもわたって続いたクロノス・リベルタス戦争に、あまりにも劇的な、そして血塗られた形で終止符を打つこととなったのである。それは、二人の英雄の尊い犠牲によって、辛うじて銀河の完全な破滅が回避された瞬間であり、同時に、血塗られた瓦礫の上に築かれる、不確かな平和の時代の、静かな始まりでもあった」
終章:歴史という名の川 ~不確かな夜明け~
「ラグナロク会戦」におけるアレクシス・フォン・シュトライザーとソフィア・ベルナルドという、両国家の象徴とも言える二人の英雄の劇的な喪失は、クロノス帝政、リベルタス共和国連合双方の社会と人々の心に、計り知れないほどの衝撃と、そして深い変化をもたらした。ヴァルグリンドの悲劇から数十年、そして一世紀という時が流れる中で、銀河の様相は、ゆっくりと、しかし確実に変容していった。戦争の傷跡は深く、その記憶は容易には消えなかったが、それでも歴史は、新たなページを紡ぎ始めていた。
クロノス帝政では、アレクシス・フォン・シュトライザーという、改革の最大の推進力であると同時に、旧守派にとって最大の抵抗勢力でもあったカリスマを失ったことで、結果的に、急進的な共和制への移行も、旧態依然とした貴族支配体制への完全な回帰も起こらなかった。皇帝マクシミリアン3世の権威は、戦争の最終的な責任と、アレクシスを守りきれなかった(あるいは利用した)という批判の中で大きく揺らぎ、実権は徐々に形骸化していった。戦後の混乱した帝国の再建を主導したのは、「ラグナロク」で重傷を負いながらも奇跡的に回復し、軍と政界で重きをなしたオスカー・フォン・ベルク元帥(最終階級)ら、アレクシスの遺志を継ぐことを誓った穏健な改革派官僚や軍人たちであった。「閣下が見たかった帝国の未来は、果たしてこれだったのだろうか…我々は、その理想に少しでも近づけているのだろうか…」ベルクは、晩年になっても、執務室に飾られたアレクシスの肖像画の前で、常に自問自答を繰り返したという。彼らは、帝政という枠組みそのものは維持しつつも、貴族の世襲特権を大幅に制限し、民意を反映するための制限選挙による議会制度を部分的に導入するなど、実質的には立憲君主制に近い形での、緩やかな、しかし着実な改革を進めていった。アレクシスの蒔いた種は、彼の死後、形を変えながらも、少しずつ芽吹き始めていたのかもしれない。
リベルタス共和国連合でも、ソフィア・ベルナルドという、民衆の熱狂的な支持を集めたカリスマを失ったことで、極端なポピュリズムや感情的な世論は沈静化し、より現実的で協調的な政治運営へと舵が切られた。戦争指導の失敗と、救国班会議によるクーデター未遂事件の責任を問われ、アダムス元議長やマードック元元帥らは政界・軍部から完全に退場した。連合の再建にあたったのは、同じく「ラグナロク」で瀕死の重傷を負いながらも回復し、戦後の軍縮と再編に尽力したジャン・ラサール元帥(最終階級)ら、ソフィの理想と情熱を誰よりも理解しつつも、その現実的な側面と教訓を受け継いだ者たちであった。「提督の夢見た、誰もが自由に笑って暮らせる世界…それは、単なる理想だけでは成り立たない。我々は、その理想を実現するための、現実的で、強固な礎を、この手で築き上げていかねばならないのだ」ラサールは、フリーダムポートに新設された、ソフィの名を冠した公園の慰霊碑の前で、そう静かに誓ったと伝えられる。自由と平等の理念は国家の根幹として維持されつつも、過去の過度な個人主義や衆愚政治の弊害を深く反省し、より安定し、責任ある市民社会を基盤とした、成熟した共和制国家としての道を歩み始めた。
「ラグナロク会戦」の後、オスカー・フォン・ベルクとジャン・ラサールという、かつての上官の遺志を継ぐ二人の軍人(後に政治家としても活躍)が主導する形で、現場レベルで始まった停戦は、両国の新たな指導体制の下で正式に追認された。その後、数年にわたる、時に中断を挟む困難な交渉の末、宇宙暦799年、「ラグナロク休戦協定」として正式に締結された。それは、完全な平和条約ではなかったものの、両国の国境線の再確定、広大な非武装緩衝宙域の設定、段階的な軍備制限、そして限定的ながらも経済・文化交流の再開などを定めたものであり、少なくとも銀河に大規模な戦争のない「長い停戦」の時代をもたらした。人々は、この不安定ながらも戦争のない時代を、「緩やかな和平」と呼んだ。
そして、時が流れるにつれて、アレクシス・フォン・シュトライザーとソフィア・ベルナルドは、敵味方の区別なく、銀河全体で語り継がれる「悲劇の双星」として、伝説的な存在となっていった。彼らの卓越した才能、対照的ながらも互いを深く認め合い、そして惹かれ合いながらも、国家と時代の宿命によって戦うしかなかった関係性、そして「ラグナロク」でのあまりにも劇的で、あまりにも悲劇的な最期は、数多くの歴史書、伝記、文学、詩、演劇、オペラ、そしてホログラム映像作品などの題材となり、繰り返し描かれ、人々の心に深く刻まれた。
「氷の叡智と炎の勇気」「秩序を求めし者と自由を愛せし者」「敵でありながら、誰よりも互いを理解し合っていた二人」…様々な言葉で語られる彼らの物語は、人々に戦争の恐ろしさ、悲劇性、そして英雄主義の虚しさを教え、同時に、いかに困難な時代にあっても、人間が持つ輝きや可能性、そして愛や理想の尊さをも示唆した。「彼らの死があったからこそ、銀河は破滅的な終末戦争を回避し、我々はこの不確かながらも平和な時代を得ることができたのだ」という歴史的評価が、いつしか一般的なものとなっていった。両国の軍事アカデミーでは、彼らの戦術・戦略が今もなお重要な教材として研究されているが、同時にその悲劇的な結末は、戦争がいかに大きな代償を要求し、いかに多くのものを奪い去るかという、重い教訓として、未来の指揮官たちに語り継がれている。
『ねえ、おじいちゃん、あの空に光る二つの星はなあに?』
『あれかい? あれはな、ずっと昔、この銀河を守るために戦って、一緒に星になった、勇敢な男の人と女の人の魂なんじゃよ。だから、お前たちは、決して戦争なんてしちゃいけないんだ。あの星たちが見守ってくれているからな』
これは、戦後数世代を経た平和な時代に、ある惑星の片田舎で、祖父と孫娘の間で交わされたとされる、ありふれた会話の一場面である。双星の伝説は、形を変えながらも、人々の心の中に生き続けていた。
銀河には、依然としてクロノス帝政とリベルタス共和国連合という、体制も価値観も異なる二つの巨大な星間国家が存在し、両者の間には、見えない壁と、潜在的な利害の対立という火種が残り続けている。人々が享受している「緩やかな和平」は、決して盤石なものではなく、いつか再び、誤解や猜疑心、あるいは新たな野心によって対立が激化し、歴史が繰り返されるかもしれないという不安は、賢明な人々の心の中から、完全には払拭されていない。
しかし、「ラグナロク会戦」のあまりにも大きな犠牲の記憶と、若くして散った「悲劇の双星」の伝説は、未来の世代にとって、安易な戦争への道を思いとどまらせる、重い、そして感情的な錨となっている。人々は、この不完全で、時に危うさを孕む平和の中で、アレクシスが目指したかもしれない、公正な法と秩序に基づく安定した社会と、ソフィが願ったかもしれない、誰もが自分らしく生きられる自由で公正な社会の実現を、それぞれの立場で、それぞれのやり方で、対立ではなく対話を通じて模索し続けている。
ヴァルグリンド星域には、かつて銀河史上最大の激戦が繰り広げられた宙域を見渡すように、巨大な、そして静謐な慰霊碑が建立された。そこには、敵味方の区別なく、「ラグナロク会戦」で命を落とした全ての兵士たちの名が、レーザーで刻まれている。そして、その慰霊碑の中央には、青い星と赤い星が、互いに寄り添いながら、永遠の宇宙を巡るように描かれた、美しいレリーフが掲げられている。
星々は巡り、歴史という名の、時に穏やかに、時に激しく流れる川は、止まることなく未来へと流れ続ける。かつて銀河を二分し、その双肩にそれぞれの国家と民衆の運命を担い、激しく戦い、そして共に星屑と散っていった二つの魂。アレクシス・フォン・シュトライザーとソフィア・ベルナルド。彼らの戦いは終わり、その名は銀河の伝説となった。
だが、彼らが駆け抜けた激動の時代が、現代に生きる我々に問いかけるものは、今もなお、重く、そして深い。我々はこの「長い停戦」の先に、彼らが垣間見たかもしれない、真の平和と相互理解の未来を見出すことができるのか。それとも歴史は、その非情な法則に従い、再び悲劇を繰り返すのか…?
銀河の無数の星々は、ただ、その答えを知ることなく、永遠の沈黙のうちに、我々人類の選択を、静かに見守るばかりである。
おわり