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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

時計仕掛けの「歓喜に寄せて」

作者: James="BadTrip"=Boys


ブスってさぁ、いるじゃん。ネクラでもいいんだけど。ま、呼び方の違いなんて大差ないよね。



ああいうのってさ、ホント迷惑するよね。同じ場所にいるだけでもメイワク?ってゆーか。おんなじ空気吸ってるだけでカンセンしたらどーしよー、って思わない?



思うよね?そうじゃなけりゃさ、なんでみんな同じことやってんの?てゆーか、みんな同じことやってんだからさ、それって、人生のつーかてん、でしょ?こういう苦労があってこそ、人以上の悲しみを背負った人間は強く優しくなれるって、誰かが歌ってたじゃん。知らんけど。



だからまあ、なんていうの。ブスに生まれたことには同情するけどさ。性格なんてさ、いくらでも変えられるわけよ。だって私たち若いし、未来がある。でしょ?うちのクラスのブスにも、それを教えてやってるわけ。んでまあ、ちょろっと指導料をもらったりするけどさ、それなんて、ウィンウィンじゃん?



オトナがわざわざ首ツッコんでくることでもねーって言うのかな。あくまで遊びなのに、なんで訴えるとか、殺人だ、とか。そんな風にマジになっちゃうのかな。そういうのさ、サめるよね。



……あ、うちのクラスのブスに、興味ある? アヤコ、って言うんだけど、髪が長くて、もう完璧サダコって言うか、八尺様?そんな高くないけど。んで、俯いてて、いっつもぶつぶつ、気持ち悪い鼻歌歌ってんだよね。特にさ、こっちが構ってやってるときに限って歌いだすんだから、もうサイアク。空気を壊すことの天才なんよ。



こないださ、ちょっと蹴っ飛ばしてみたけどさ、中身が綿のマネキンみたいに吹っ飛んでさ、自分からロッカーにぶつかりに行ってんの。もうやってること完全にメンヘラだよね。一緒にいたら空気が悪くなるって言ってんのに、なんでわからないのかな。



で、ここで問題なんだけど、ブスはさ、生まれつき負け犬じゃん?



どうやっても勝ち目ないんだから、生まれてくんなって話。でも、そーいう奴に限って、親が溺愛してたりするんだよね。




アヤコの家ね、今から行くんだけど、タワマン。




まじでさ、どーなってんの。そんな帳尻合わせいらないでしょって。ブスとキモオタが結婚して、成功して、生まれてきたのがアヤコみたいなネクラだったら、もう泣けるよね。でもきっと、親からすれば人形みたいにかわいがってんだろうなー、って思うと、ブスとキモオタはまじで国にお金を払ってさ、死んだほうがいいと思うよ。だってそいつらのせいで、生まれつき優秀な人間が不幸になってたらさ、どう思う?世の中間違ってるよ。



でまあ、今そのタワマンのロビーにいるわけ。これで呼び出したのがアヤコじゃなけりゃ良かったんだけどさあ。そこそこのイケメンか、あ、フツメンでもいいよ。んで、お金持ちで、優しい人?



そういう人のだったらもっと楽しめたんだけどさ。世の中本当に不公平だよね。



アヤコはさ、今日、指導料を払うって言ってきたわけ。でもそれが大金になるから家に来てとか。マジでウケる。デート数回ですぐになくなっちゃうようなお金をさ、大金て。大袈裟だよね。まるで政治家のやり取りみたい。バカバカしくて、やってらんないよね。



あ、アヤコが来た。よく見といたほうがいいよ。男子もさ、うわー呪い殺されるぅ、とかヒくレベルのキモさだから。こういう地雷系にはついていっちゃダメって言う、ダメの見本市みたいな。歩くキモファッション。



一緒にエレベーターに乗る。ふわっとした匂いがするから、ナニコレ、って聞いたら、母親の香水だって。ありえない。ブスには必要ないよね、ホントに。見せつけてんのかな。



アヤコの家。やっと入れる。あたし、もうホント疲れたよ。さっさと帰りたいな。





「やぁぁっ!」


悲鳴が上がった。アヤコは見下ろしている。




ふくらはぎに包丁が刺さっていた。じわじわと血がにじみ出して、白いソックスがゆっくり赤く染まっていく。柄の部分を掴んで、ぐりっとねじると、また悲鳴が上がる。



ドアに鍵をかけた。芋虫みたいに蹲ったいじめの主犯格、ミキの襟を掴んだ。刺してない方の足が、バタバタもがいて、テーブルにぶつかる。



たった数歩の部屋が遠い。テーブルに置いていたスタンガンを取って、二本の電極を首に当てて、電源を押す。体がエビぞりになって、すぐにくたっと崩れ落ちた。包丁を引き抜いて、部屋に連れ込む。




ネームプレートには「ミキの部屋」と書かれていた。中は、普通の、どこにでもある子供部屋だ。大きなスピーカーと、勉強机、ベッド、それから椅子がある。スカートのポケットから取り出した手錠は、スタンガンと一緒に通販で買ったものだ。包丁は、昔母親がテレビコマーシャルを見て買って、放置していたのを拝借した。



今までミキたちに払っていた金額から考えれば、遥かに安い額で監禁できたと言える。そっちの方がコスパがいいなら、もっと早くやればよかったかもしれない。



とはいえ、後は時間との戦いだ。ミキがいなくなれば、学校も騒ぎになる。すぐに、加害者連中が急に被害者面して、アヤコがうんぬんかんぬん、と言い出すかもしれない。



それまでに、どれくらいミキの心を壊せるか。そして、自分がどれだけ非情になれるか。



それだけが当面の課題だ。





手錠でミキの自由を奪う。ベッドの脚に手を回した状態で、手錠を念入りに締めあげる。勉強机の上に設置していたCDコンポで、音楽を流す。いつも鼻歌で歌っている、ベートーヴェンの第九。アバドかバレンボイムかで悩んだが、結局後者にした。防音室の中でめいいっぱいに上げたボリュームは、地響きとなって部屋を揺らす。男性のソロから合唱に流れていくダイナミックな構成は、何度聞いても心地よい。



いつも聞いていた。頭の中で、ミキたちにいじめられている時も、口ずさんだ。単純な、片手でも弾けるシンプルなテーマにすべてが詰まっている。バッハが物理学者、モーツァルトが数学の天才なら、ベートーヴェンは何だろう。モーツァルトが、自分の中から溢れ出るメロディを先行させて書きなぐったとしたら、ベートーヴェンは、どうやって違和感なく展開を煮詰めていくか、ずっと苦労している秀才のように思える。



うるさい、とミキが呟いた。手で耳を塞ごうとして、その手が拘束されていることに気づいて、暴れ出す。アヤコはひょいと脚を避けて、何ならもう一本、包丁を持ってこようかとも思った。傷は浅く、自然に止血する程度のものだ。ミキは単に、痛がりなだけだ。



やめて、止めて、うるさい、おかしくなる。



この素晴らしい音楽をどうして理解できないのか不思議に思う。やはり、バカはバカでしかないのか、とアヤコは若干落胆してしまう。自分をいじめていた人間だから、きっと自分よりも何かに優れている、秀でていると思ったが、そうでもないようだ。



それとも単に、金がものを言っただけか。ミキはアヤコから奪った金で豪遊して散財したが、アヤコはスタンガンと手錠といった具合に投資して、見事にそれを成功させた。目先の快楽に囚われると、こうなる。恐ろしいものだ、とアヤコは肩を竦めた。



少しだけ、ボリュームを下げる。結束バンドで、ミキの足首同士を縛り付ける。



なんで、こんなこと、するのよ、



ろれつの回らない口調で、ミキが言う。そのミキの体を跨いで、アヤコが顔を近づける。ミキが、顔をそらす。




「私、いじめの被害者。あなた、加害者。ゆえに正義は私の側になくても、同情はされる。OK?」




何言ってんのかわかんないわよ、



「これからわかってもらえればいいよ。時間はたっぷりある。まずはベートーヴェンの素晴らしさについて知ってくれればいいから」



暴れるミキの力を、再びスタンガンで奪う。それから目隠しをして、頭にヘッドフォンをつける。人のボリュームを調整してやるというのは、中々に難しい。鼓膜を破らない程度に、会話が聞こえる程度のボリュームに調整して、ヘッドフォンが外れないように固定した。



ベートーヴェンがスピーカーから聞こえなくなった。アヤコは少しため息をつく。勉強机の上には、非常食とミネラルウォーターが置いてある。それから、包丁が数本。



手錠の鍵は自分の部屋に置いておくことにして、アヤコはおむつを取りに行った。自分の服を汚すような粗相をすることほど、尊厳を傷つける術はないことをミキ本人から直々に教え込まれていたからだった。



しばらくミキの様子を見ていたが、つまらない。首を振れば、音楽が頭に入ってこないとでも思っているかのように、だらしなく口を開けて、何か叫びながら暴れている。アヤコは、同じ立場に置かれたときの自分のことをシュミレートしてみた。



まず、体力が減るようなバカな真似はしない。自分がどこにいるのかを突き止め、限られた感覚器で自分の置かれた状況を把握する。譲れないポイントを設定して、後は基本的に相手の言うとおりにする。



とはいえあまり叫ばれるとうんざりするので、耳元で怒鳴った。



「あんまり騒ぐとさ、指切り落とすよ」



途端に動かなくなった。あ、あ、と痙攣するように譫言を発し始めた。アヤコはため息をついて、プルーストを一巻から読み始めた。





ひぐっ、ひぐっ、と喉が鳴る。猫がえずいているような泣き声だった。ごめんなさいごめんなさい、と同じ言葉を念仏のように唱えながら、体をくねらせる。黒いスカートがめくれ上がって、腰のくびれがいやというほど強調される。異性相手であれば、色仕掛けも通用したかもしれないが、ミキの体などほしいと思ったことはない。



今となってはというよりも、ミキの体など、精神にダメージを与えるための伝達手段でしかない。やりすぎると死ぬ。止血のやり方は学んでいないので、肉体の損壊はできる限り控えなければならない。



人間を拉致監禁しても楽しいことは何一つない。とんだ不良債権だ、とアヤコはため息をつく。



「臓器って高く売れるんだっけ?」



また小さな悲鳴が漏れる。素人にそんなことができるとでも、本気で思っているのだろうか。第一、血を見るのは好きじゃない。そんなものを好き好んで見たがるのは本物の狂人だけだ。アヤコは鞄から学校の教科書を取り出して、授業の予習と復習を始めた。




帰りたい、帰りたい、という言葉が、呪詛のように響いていた。




夜までに一度、ミキは粗相をした。泣いていた。スカートを履いたまま、オムツを取った。めくれ上がったスカートを前に、ミキは顔を覆っていた。




それでもすぐ、腹が減ったと言い出したので、非常食と水を与えた。





何でもする、何でもするから、許して、と、少しだけ口調を変えてきた。腹が満たされて、少し緊張が弛緩したらしかった。飴と鞭、と口の中で呟く。



まるで死を宣告された病人のようだ、とも思う。初めはその事実を受け入れられない。何とかして、それに抵抗しようとする。その次は、抜け穴を探そうとする。



「古典的」


え、と声がする。



独り言だった。



「古典っていうのは凄い。古から脈々と受け継がれてきた個々の事象からパターンを見出して、帰納法的に推察して一つのパターンに当てはめる。キューブラー・ロスしかり、ベートーヴェンもそう。逆に言えば、そのパターンを見出した人間こそが発見者みたいになって、名を残す。でも、逆にその一人になれなかったら、受け継いできた人たちは何だったんだろう、とも思う。その人たちの存在を考えたことは?」




何を言ってるの、と声がうわずる。理解できないものを前にした、緊張と態度の硬化。



「同じレベルにない人間に、議論を持ち出しても無駄らしいってこと。教育しなきゃ」



ヘッドフォンを手に取る。今度は目隠しはなしだ。じりじりと下がろうとするミキを前に、また手錠がガチャガチャ鳴った。




アヤコはアイネ・クライネの一節を口笛で吹きながら、スタンガンも一緒に手に取って、置きなおした。



威嚇は目に見えるものの方がいい。包丁を取ると、すぐにおとなしくなった。



とはいえ、抵抗された時のことも考えないといけない。ぴく、とひきつるように指が動いたのが見えた。




アヤコは躊躇うことなく、包丁を手の甲に突き立てた。




絶叫は、ミキ自身には聞こえなかったかもしれない。既にヘッドフォンが押し込まれていた。絶叫を間近で聞いてなお、アヤコの脈は乱れなかった。アイネ・クライネを最後まで演奏し終えて、包丁を抜いた。



「意外と人間の体、頑丈だよね」




これなら少々のアルコールと包帯で事足りそうだ。エタノールを空になるほどぶっかけて、包帯でぐるぐる巻きにしておいた。手当を早くし過ぎて、手当の痛みを感じさせられなかったのは失敗だったな、とシャーペンを頬に当てながら、アヤコはため息をついた。





父親が使っていたアリピプラゾールをすりつぶし、グラスの中に流し込む。100%のリンゴジュースを注ぐと、泡立ちの中に消えた。



「たまには贅沢もいいでしょ。リンゴジュース」



おいしいの、とたった一晩で、ミキは疲れ果てていた。苦痛や悪寒からか、まだ顔には脂汗が浮かんでいた。上のベッドの寝心地は悪くなかったが、さすがに床に直で寝たら、寝心地は良くなかったらしい。



ストローをつけて、グラスを近づけるだけだ。一瞬顔をそむけたが、ミキはおとなしく差し出されたジュースを飲んだ。



混入させたアリピプラゾールは30ミリグラムにも満たないが、一日も経てば血中濃度が一気に高くなり、ちょっとした混乱を引き起こせるはずだ。興奮や焦りと、吐き気。



「眠れないなら言ってね。お父さんが処方されてた薬が結構あるし」



くすり、?



「睡眠薬とかね。ネクラにはネクラなりに、この世に対処する方法があるってわけ」




特に金持ちは、という嫌味は、聞こえなかったらしい。ストローで飲んだミキは、顔をしかめた。



にがい、



「果汁百パーセント、最近は結構高くなってるんだけど」




でもまずいものはまずい、とミキが言う。腕が動けば、必死に額の汗を拭ったことだろう。昨日のメイクは、既にほとんど剥がれ落ちている。涙や唾液で、顔中が汚れていた。



嫌味の一つでも言っておきたいところだった。日頃臭い臭い、とからかってきた当の自分が、風呂にも入れずにいる。とはいえそう言った事情を客観視できるほどの余裕もなさそうだった。



学校、行かなくていいの?



「不測の事態には備えておきたいし、準備もしてたからね」


じゅんび?


「そ。下地を作ったのは、あなただけど」




嫌がらせを受けていて、それを苦に少し休んでいる。クラスメイトも担任も、そう受け取っているはずだ。



傍観者は重い空気を察しているだろうし、当事者二人が休んでいてほっとしていることだろう。



「人の縁なんて悪縁しかない。あるのはただの障りだけ。いるのは加害者と傍観者と、被害者だけ」



何言ってるのかわからない、



口を尖らせるミキは、だいぶ疲れているらしかった。言動がだいぶ正直になってきている。取り繕うこともできないらしい。




思った以上にこの同居生活は疲れる。早いところバラバラにした方が楽だろうか、とも思える。生きた人間をいたぶるなんて、コスパで考えれば正気の沙汰ではない。



アヤコは自分の部屋に戻った。もちろん、見せつけるための刃物や武器となるものは万が一を考えてすべてこちらの手元に戻している。




一人になって、ようやく自分の世界に浸ることができる。ワルターの第九はスローテンポで、それでいて乱れることがない。階段を駆け上がるのではなく、ゆっくりと盛り上がっていく。磔にされていたキリストが、ゆっくりと首をもたげ、項垂れていた顔を上げる。枷を解き放ち、素足で地面を踏みしめる。




抑圧からの解放、というよりは、己が抑えていたもの、己に科したものを解き放っていく姿だ。アヤコは陶酔したように、舌を転がす。





突如、隣室から絶叫が響いて、アヤコはため息をついた。キリストがまた項垂れる。時計の針が巻き戻され、イエスは沈黙する。



部屋に引き戻される。頭を抱えようとしてできずに、のたうち回っているミキがいた。いたいいたいいたい、と叫んでいる。




アヤコはミキを見下ろした。痛がっている様子は、演技には見えない。痛みがぶり返したのか、それとも恐怖が爆発したのか、どちらにせよ、助けを求めて自暴自棄になった、という風ではない。



あくびを漏らす。これなら放置しても問題はなさそうだ。




「ショック死するなら勝手にしてほしいけど……この程度で死なれてもねえ」




目をつぶり、悲鳴を無視して、第九のフレーズを口にする。以前ほどには、自分の中に潜り込めない。首をかしげる。第九は、魔法のフレーズだったはずなのに。



部屋に戻って、ロキソニンを飲みこむ。とりあえず舌を噛み切らないように、猿轡でも噛ませるべきだろうか。




匿名のアカウントに呟いた。


「同居人がうるさい」





オムツの中はひどいことになっていた。一日中叫びまくるので放置していた結果、食事も抜きになっていた。



ミキは、あたまが、あたまがいたい、と弱々しく体を震わせて、泣いていた。頭の中に痛みの芯のようなものがあって、それが粉ひきのようにゴリゴリ削られる感じなのだろう。少なくとも、アヤコにとっての頭痛とはそういうものだった。




そろそろ体臭が気になってきたので、濡らしたタオルを持って歩み寄れば、ミキは顔を引きつらせて哀願し始めた。




おねがい、もういたいことしないで、あやまるから、ゆるして、




顔を中心に、拭っていく。髪が脂ぎっていた。口に入った髪の一部は泣き叫ぶあまり噛みちぎって、唇にへばりついていた。服を脱がすのも面倒なので、最低限のケアだったのだが、ミキは幼児に退行したかのように、ごめんね、ごめんね、ありがとう、ありがとう、と透明の涙をこぼした。その泣き顔は笑顔にも見えた。





普段からこのくらい素直なら、お互いもっと有益な関係になれただろうに、とも思う。とはいえ、物事はうまくいかないものだ。ずっと第九を聞かせ続けてはいるが、一向にその素晴らしさには目覚めないらしい。



人間は、人間としか会話できないように、人間の芸術もなかなか通用しないものらしい。




「そう言えばあなた、クラシックはどんなのが好き?」


わからない、



「わからないって。好きな曲とかいないの?」



わからないのっ、と自分自身に苛立つように、ミキは何度も首を振る。



「第九は気に入った?」


わからない、



こちらが頭を抱えたくなるほど、会話が通じない。




ふと、最近はやりの音楽が、二人の会話を邪魔するように流れ出した。音源はポケットからで、探ってみれば、ミキのスマホだった。ご友人一行からの電話で、ご丁寧にも名前の後ろに、「うざい」とか「友達面すんな」とか付け加えられている。不在着信も山のようにたまっていた。




今更電源を落とすのは怪しまれるだろうか、とも思う。十分怪しまれるだろう。しかしそれも、後になってからの話だ。




そもそもこれを実行に移す時点で、どうなろうと知ったことではない。後は野となれ山となれ、だ。電源を落とし、スマホをポケットに滑り込ませる。




今まで通報されなかったのは、一気呵成だったからか、お互いに忘れていたからか。




スマホを取り上げてから、呆然と、こちらを見上げるミキの顔があった。忙しなく、視線がスマホとアヤコの両方を行き来する。



どう考えても、手が届くはずはない。




だというのに、一瞬、動かしかけた腕を、ぴくり、と自分で押さえ込んでいた。それから、お愛想のような笑みを浮かべて、ミキが首を振る。そんなこと、考えていないよとでもいうように。



心情的には、見逃しておきたい。ブラフだ、と考えることはできる。




状況は依然こちらが優勢だ。身動きは取れないようにしてある。スマホは完全に盲点だったが、偶然にも手に入った。アクシデントさえなければ、まだ時間は稼げる。



決定打が欲しいところだ。しかし、もう少し状況を見たい気持ちもある。



「ちょっとお互い疲れたし、飲み物でも持ってこようか」




返答を待たずに、一旦キッチンに戻った。父親の四次元ポケットから、フルニトラゼパムを取り出す。冷蔵庫にあったレモンサワーの中に砕いて入れる。使い回しのストローを用いて、グラスに突き刺して戻る。




部屋の中には、相変わらず笑みを貼り付けたミキがいる。




「はい、ストロー」

 

ミキは、無抵抗にレモンサワーを飲み干した。グラスの底に、泡立った白い粉が残っている。


あたまいたいの、さわりたいのに、さわれないの、


「仕方ないよ」


ぐるり、と目玉が眼窩で回転する。同じ環境にいるせいか、擬似的なままごとがそうさせるのか、互いの距離感がふわふわとして掴めない。




さっきの、炭酸?おいしかった、


「へえ」


リンゴジュースより、あっちの方がいい、


「じゃあ、いつでも用意してあげる」


ほかには何が欲しいか、と聞けば。




何か違う音楽が聴きたい、


「第九の良さがわかるようになったらね」


部屋を出ようとすると、ぎし、とベッドの脚が軋んだ。


いかないで、ひとりにしないで、


「悪いけどさ、お互いそういう仲じゃないでしょ」




ミキが泣いた。また、珠のような涙がこぼれた。それを、美しいとさえ思った。人は拷問されて、幼児退行して、初めて美しくなるのかもしれない。





父の部屋に行った。母の部屋同然、がらんとしていた。機能美を追求する父親らしい、無骨な電子オルガンが置かれていた。ちょくちょく触るせいか、埃はない。



電源を入れて、キイに指を置いた。あなたの弾き方はピアノじゃないね、と音楽の教師に言われたことを思い出す。



耳だけは良い。だから、楽譜が読めなくても弾ける。ゆえに、教師に言われた。



音楽の冒涜。間違えた弾き方。基本がなっていない。


楽譜通りに弾きなさい。



誰の演奏を真似たのか、自分でもわからない。多分、父親が片っ端から買ったグラモフォンのどこかに入っているのだろう。しかし、技量が全く追いついていないから、楽譜を無視して弾く演奏家たちの猿真似にしかならない。




白と黒の、見分けのつかない鍵盤。限られた世界の中で、何かを積み上げている。堆積したそれが、地層の中に埋もれる。有限に見えて無限の組み合わせから取り上げられたものが楽曲となって、現れる。その過程を、誰も辿ろうとしない。




味わうべきは、そこにある。アヤコはそれを味わえない。化石がどこにあるのかわかっていて、最適を埋め続けるだけ。宝探しごっこをしている、神の手を持った考古学者だ。




余計な鍵盤を叩いた。二度、三度、不協和音が生み出される。苛立たしい指だ。我が指ながら、恨めしく思う。




ふと、指の動きを止める。揃った指を、顔の前でかざす。



切り落とした指は、鍵盤の上に飾るべきか。あるべき場所を離れた指は、せめてあるべき場所に置かれるべきだ。



自分の家なのに、落ち着かない。




その日は朝から、ミキに馬乗りになっていた。髪の毛を掴んで強制的に顔を起こした状態で、ひたすらに拳を打ち付ける。肉と肉がぶつかり合い、弾ける音がした。初めこそ目をつぶっていたミキも、繰り返し繰り返し殴り続けられるうちに、虚ろに目を開いて力さえ失い、ただ身を任せていた。



アヤコがこういった暴力に動いた理由は、自分でもわからなかった。ただ、衝動に突き動かされて、やってみたかったから、とも言えるが、同時にそれを冷めた目で見つめる自分自身がいた。無駄なことをしている、という気持ちはあった。



殴り慣れていない拳は、すぐに痛みを訴えてくる。ミキの顔と同じくらいに、アヤコの拳も赤くなっていた。



額を中心に拳を振るっていたのだが、時々腕が滑って、鼻や眼窩、どうかしたら唇の方まで拳はズレた。唇は腫れ上がり、破れてポタポタと赤い雫をこぼした。鼻からも一筋、血が流れていた。



アヤコはため息をついて、髪の毛から手を引いた。ごとん、と音を立てて、ミキの後頭部が床に落ちた。されるがまま、ミキは動かない。



第九のフレーズを唱えようとした。しかし口から出てきたのは、うろ覚えのドイツ語の方だった。音だけを拾って適当に、クチャクチャと広げる歌。アヤコは顔をしかめる。これは第九に対する冒涜だった。



自分自身の感情と、願望を持て余していた。人生を棒に振る覚悟で実行したいじめ、嫌がらせに対する自力救済。正当なる復讐は、包丁のめった刺しで終わらせておくべきだったのだろう。



しかしそれでは、好奇心は満たされないまま、なにかが欠けたまま、あっという間に勝利の余韻は失われていたはずだ。



今この場所でミキを教育し、洗脳し、拷問しているわけだが、出口はまだまだ遠く感じる。正直に言えば、手応えのなさに戸惑っていると言っていい。



だからこうして、一方的に殴りつけたり、向精神剤や睡眠薬を飲ませたりしているわけだが、そのきっかけが、きっかけのまま途切れてしまう。次のステップに繋がらない。



ミキは全身から諦めと虚無とを放出している。まるで、生きる屍だ。これが拉致監禁の成果であるなら、あっという間に目標は達せられたことになる。



だとしたら、これほどにつまらないことがあるだろうか。



アヤコが男であれば、異性の体に関心を持てたかも知れない。サディストであれば、もっと嫐ることで快楽を得られたかも知れない。



だが、アヤコはそうではない。自分でも驚くほど、平坦で、ニュートラルのままだ。



それはそれで、壊れていると誰かは言うかも知れない。いじめによって心が壊されて、同じ目に遭わせようと思ったに違いない、と心理学者はしたり顔で語るかもしれない。



だが、人の心など、誰がどうやってわかるというのだろう。アヤコは今のところフラットで、ミキは既に無力を学習している。少なくとも、外見上はそうだ。



アヤコ、手、いたくないの?



ミキが言った。別に、と答えた。ミキはそっか、と目を閉じた。そして、会話が途切れる。




自分の部屋に戻った。CDを、入れ替える。チッコリーニの演奏するサティを再生した。気が遠くなるほど変化の乏しい反復に、母親の抱擁をイメージする。安心する、とはこういうことなのだろう。機械的なほどに機械的でない、弁証法的な構成が、強張る筋肉を和らげてくれる。アヤコはCDをつけっぱなしにして、うとうとと微睡み始めていた。




チャイムの音に、はっと目を覚ました。最小限に絞ったボリュームさえ、耳をつんざくような振動だ。電話の着信音にせよ、チャイムにせよ、それを作っている人間は、その音がどれほど人の心の平穏を踏みにじるものなのか、わかっていないのだ。



カメラ越しに相手を見る。担任の男性教師が、そわそわとしながらこちらを覗き込んでいた。またチャイムが鳴る。



アヤコは、いつものように居留守を使おうかと思ったが、いじめに疎く教室の力関係も感じ取れない裸の王様は、一向に立ち去る気配を見せない。根負けして、ボタンを押す。




『学校を休んでるけど、どうしたんだ』

「ちょっと、体調が悪くて」

『なら、ちゃんと連絡してくれよ。そうじゃないと、みんな心配するだろ?』




みんな?誰のことを指しているのか。




『他にもな、連絡なしに休んでいるやつがいて……なあ、中学の授業は、スピードが早いし、全部高校受験に直結していると言っても過言ではないんだ。休めば休むほど、自分の進路を狭めていくんだよ』

「あの、何の話ですか?」




話についていけずに、アヤコが声を遮る。男性教師は不思議そうに、首を傾げる。




『学校の話だろ。学校、将来の話だ』

「はあ」

『真面目に考えても見ろ。今はまだ中学だからなんとかなるが、高校はそうはいかない。一日でも休んだら、ほとんど取り返すのは不可能なんだ。俺は、お前にそうなってほしくないんだよ』




わかるだろ、わかるだろ……と、担任は繰り返す。アヤコは頭が痛くなった。




そう言えば、ミキも、なにかとわかるでしょ、という言葉を使っていた。この言葉は、何かの流行りなのだろうか。わかるだろ、わかるでしょ、察しなさいよ……




ああ、とアヤコは、思い出す。どこかで聞き覚えがあると思ったら、そうか。父親も母親も、口癖のように言っていたのだ。




自分はとことん鈍いのに、相手にはわかってもらえると信じている……アヤコには、その理屈が理解できない。




『で、ここじゃなんだから、お前の部屋に行きたいんだ。開けてくれないか』

「今、親がいないんですけど」

『俺は教師だぞ。そんなに信頼がないか?』

「だって、先生のこと、よく知りませんし」




いい加減にしろ、と担任が吠えた。ネクタイを緩めて、激昂した自分を恥じるように、猫なで声になる。




『なあ頼むよ。わかるだろ、お互い顔と顔を突き合わせて話さないと、わからないこともあるんだ。ここまで来たんだから、入れてくれないか』




アヤコは、少し悩んだ。家に上げればバレるかもしれない、という思いは確かにある。




だがそれ以上に、担任が不快だった。この世の醜悪さをすべて煮詰めたら、こんな人間が出来上がるように思えてならなかった。チラチラと、マンションを見上げる担任の顔には、明確に卑屈さが浮かんでいた。




「わかりました」




アヤコは鍵を解除した。それから、自分の部屋を開けっ放しにしてCDを変え、音楽のボリュームを上げた。ミキのところに行って、口の中にタオルを突っ込む。




「ねえ、担任の教師のこと、好き?」



ミキは、力なく首を振った。




ミキの部屋に鍵をかけて、ポケットに仕舞う。それから急須にぬるま湯を入れたり、湯呑みの中にフルニトラゼパムを混ぜたりした。だいたい準備を整えた頃、担任が玄関のチャイムを鳴らした。


アヤコはドアを開けて、担任を出迎えた。






「なんだか、コンサート会場みたいだな」



担任はそそくさと入ってきて、当然顔でリビングの椅子に腰を下ろした。汚らしいスーツで椅子が汚されたが、アヤコは答える。



「父がムラヴィンスキーが好きなんです」

「ムラヴィンスキー?ドストエフスキーじゃなくて?」



舌打ちか、露骨にため息を付いてやりたかったが、その必要もないほど、顔は歪んでいたらしい。担任がまた愛想笑いを浮かべた。



「今部屋の中で赤狩りをやってまして」

「赤狩り?」

「ええ。あれを聞けば、コミュニストどもが押し寄せてくるんです。革命とは大層な名前をつけたものですが、あれは、『カルミナ・ブラーナ』みたいなものですよ。下手くそがやれば、ノイジィなだけです」



また曖昧な笑みが浮かぶ。なんとも言えない顔で、担任がお茶を飲む。1オクターブ高い声で、うまい、とわざとらしい声を上げる。



「それで、今日はなぜ、学校を休んだんだ?」

「体調不良です」

「あの音楽のせいじゃないのかな」

「少なくとも、そこらの雑音をかき消してくれるという点で、ロキソニンよりよほど優れてます」

「その変な言い回し、よくわからないんだが」

「わかりました。では体調不良なので早々にお引き取り願えるとありがたいのですが何卒ご配慮いただけないでしょうか」



担任の顔から笑みが消えた。唇がブルブルと震え、威嚇するように歯をむき出した。




「大人を、ばかにしてるのか」

「自分の胸に聞いてみたらいかがですか」




アヤコは、ますます冷えていく胸元を押さえながら言う。




「私がどう思っているかわからないなら、先生が、私と同い年だった頃の自分が、今の自分を見たらどう思うかを思い浮かべたらよろしいかと」

「ふざけるなっ」




湯呑みが、テーブルに叩きつけられた。遅すぎる激昂に自分で狼狽するように、振り下ろしたそれにまた口をつける。




「……大人にも、事情がある。君も大人になればわかる。だからこそ、今の君の、大人に対する態度は、見て見ぬふりはできない」

「と言うと?」

「将来のことを考えろ、と言いたいんだ。甘えるな。社会はこういうことを、許してはくれない。大切なのは、自制心だ。礼節を守って、社会のルールに従って生きる。何よりも大事なそれを、お前は反抗心からだけで、踏み躙ろうとしている」

「反抗心じゃありません」

「じゃ、なんだ」

「憎悪と、嫌悪と、絶望です」




一瞬間があった。猛々しく、オーケストラが観客を熱狂の渦に巻き込んでいく。ショスタコーヴィチの革命は、ムラヴィンスキーの手にかかれば、見事なコントラストが浮かび上がる。


アヤコにとってのそのコントラストは、引き裂かれた自我だ。絶頂と転落。勝利とその余韻ではなく、躁鬱の苦しみが明滅する。


それこそが人生だ、と思う。



ドストエフスキーやトルストイらが苦悩の末に結論せざるを得なかった人間について。





アヤコの人生の中心には音楽がある。音楽を取ればなにもない。


両親と、教師から学んだことはなかった。それを埋めてくれるのは音楽だ。


音楽こそが、人生の教師だった。


緻密な構成や、天才的な刹那の知性に比べれば、そこらの人間がどれだけ愚鈍で、醜悪なものであるかわかるというものだ。




教わるものはと言えば、退廃と悪徳だけ。なり損ないの悪魔や、出来損ないのサイコパスのような、自分可愛さに自己正当化を繰り返す連中と、この先もずっと付き合っていかなければならないとしたら、もはや絶望しか残らない。






ああ、そうか、と。


アヤコは悟る。自分が過激な方法で、(教師からすれば)自分の将来を棒に振るような「馬鹿な真似」をした理由。


ーーそれは、絶望からだ。刑務所だろうと世間だろうと、居場所はない。あるのは絶望の一択。




「先生は正しかった」


アヤコが唇を湿らせて、言った。




ただ、音楽だけが慰めだ。




「俺のことか?」

「うぬぼれるな」



アヤコが怒鳴る。気圧されたように、担任が身を引いた。


「私が先生と呼べるのは、お前みたいな汚らわしい保身の塊じゃない。ショーペンハウアー先生だけ。あとは、偉大な作曲家たちだけ」




もっとも、偉大な作曲家は、みんな分解されてしまいましたけど、とモンティ・パイソンから引用してくすくす笑うアヤコを、担任は狂人を見るような目つきで探りを入れていた。




アヤコは立ち上がったまま、ゆっくりと教師の方に回り込んだ。座ったままの教師が、首だけを動かしてアヤコを見つめている。座っている彼の肩に、軽く手を置いた。感電したように、体を震わせる成人男性の体は、小さい。






もう片方の手で、包丁を腰にねじこんだ。



弾かれたように、担任が立ち上がった。しかし、どうすればいいのかわからないように、傷口を中心に体を折り曲げて、テーブルに体を打ちつける。



包丁を引き抜き、刀のように、スーツの上に滑らせる。一瞬で布切れを引き裂いた刃が、滑らかに皮膚に滑り込み、筋繊維をブチブチと切断した。担任が足を押さえて、蹲ろうとする。



「死ね」





アヤコは、包丁で教師を刺しながら言った。







「アンタみたいな醜悪で汚らしい小心者の、自分だけが可愛いクズみたいなのは、知能のない動物よりたちが悪い。赤ん坊の頃は誰だってきれいなのに、老人、ホームレス、売りの女、虚勢を張る男、街中に溢れてる汚らしい連中。いつかはそうなる。私にはわかる。そいつらとアンタの違いは、スーツを着てるかどうかだけ。アンタらが少しでも社会に貢献したいと思うのなら、今すぐとっとと死ね。私の世界からいなくなれ。誰があんたらみたいな汚いのと、仲良しこよしで生きていかなきゃならないの。PTAのオバサンも、教師も、政治家も、みんな欲望のままセックスして、子供が生まれて、その子供を汚染していく。アンタはその最前線に立ってる。誰よりも子供を汚染してるくせに教育者とか言われて、いい気になってる。将来なんてどこにもなくて保証もないのにあたかもそれが本当にあるものと信じ込ませて洗脳しようとしている詐欺師。頂き女子とかキャバクラの女とかホストの男と同じ。そいつらと違うのはろくな夢も見せてくれないし、刹那の喜びさえ与えてくれない。ゲームにも漫画にもアニメにすら劣る下劣さ。だから死ね。お前らなんかいらない。存在しちゃいけない。だから死ね。お前は何もわかっちゃいない。お前らにはモーツァルトもバッハもベートーヴェンも過ぎた存在。芸術のかけらも理解できない劣った感性は社会に順応してきたから。だから死ね。死ね。汚らしく惨めに人生を終えて、誰の目にも届かないうちに死ね。お前の人生のどこにも栄光はない。鬱屈したまま働いてるサラリーマン、OL、バイト、派遣、パート、そんな連中。誰も彼も大差ないのに、必死に違うものであろうと足掻いてる汚らしい連中。だから死ね。自分のことを芸術品、人生こそが作品だとでも思ってるんだろ、誰かから聞いた耳に優しいルサンチマンの慰めで生きてるんだろ、馬鹿なフリーター、作家気取り、芸術気取り、そのへんの路上で歌ってる下手くそなストリートミュージシャン、みんな死ね。身内で笑いを取ってるお笑い芸人、いじめっ子、空気が読めないとかなんとか、死ね。気持ち悪い。近寄るな。触るな。死ね」








頭の中で割れんばかりに第九が鳴り響いていた。トスカニーニがフルトヴェングラーとともに指揮棒を振っていた。マグマのように言葉が溢れて、どれ一つとして脈絡がなかった。それでもアヤコは、とにかく伝えようとして、溜まった唾液を飛ばした。



床に崩れ落ちた担任に馬乗りになった。首、胸、腹と包丁を体重をかけて刺していき、死ね、と呪い続けた。誰かの悲鳴も、合唱に掻き消されていた。







ふと、合唱が終わった。刺し傷のあちこちから染み出した血が、ようやくスーツを伝って、床に広がり始めていた。




アヤコは額の汗を拭った。ミキの部屋を開けようとして、震える手で鍵を回した。




ミキが、アヤコを見るなり震え出した。手汗を拭おうとして、それが血だった事に気づいた。全身の毛穴が開いたような感じで、汗と返り血の違いがよくわからなくなっていた。





「もう少しさ、時間をかけて仲良くするつもりだったけど、もうどうでも良くなっちゃった」




ヘッドフォンの音量を確かめる。




それからアヤコは、ボリュームのつまみを、最大まで一気に引き上げた。







ミキがのたうち回っていた。アヤコは、指揮台に立っていた。




狭い室内に鳴り響く拍手に、アヤコは、一礼をもって応えた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 作中でアヤコ自身はこうして凶行に及んだ理由を絶望からだと表現していましたが、それだけではないように思える心理的描写に圧倒されます。 そして何より終盤の担任への痛烈な否定と直後のたたみかける…
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