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第五十話 鬼の国で花が散る

 岡豊の城では、勝隆たちを迎え撃った酢漿草衆の姿が徐々に消えていっていた。

 彼らが次々と倒されていったということもあるが、大将である貞親が負傷し、戦場で姿が見えなくなると一人一人と逃亡し始めたのである。鉄の結束と謳われた酢漿草衆も、その核となる貞親がいなければ心の芯はいとも脆いものだった。しかしそれも無理からぬ事だった。もし自分たちの主である貞親の身に何かあれば、もはや長宗我部で酢漿草衆の立場は宙に浮いてしまう。元親が当主に納まったとあれば、粛正の対象となることも十分に考えられた。元々、貞親の取り立てで身を立て、それ以外に後ろ盾のない彼らを庇う者などほとんどいないのだ。

 一体何人を斬ったのだろう。

 降り注ぐ雨の清めも届かぬほどに、今や勝隆の身体は返り血にまみれていた。やはり自分は強かった。自信はあったが、確信まではなかった。その確信を持てたというのが、貞親に斬られた時と言うのが何とも皮肉なことである。

 鍛え上げられた身体でもさすがに息が荒くなり、水を含んだ衣が重いと感じ始める。

勝隆はついに、綾姫が捕らわれている館に辿り着いた。見たところ、館を守る兵はもういなかった。逃げ出したか、あるいは勝隆たちの猛攻にいきり立って、持ち場を離れた末に討たれたのか。目的地であり、激闘が予想された館は静かに、雨音だけが響いていた。

 勝隆は今一人だった。十兵衛たちが勝隆のために道を切り開き、ただひたすらにこの館を目指していると自然とそうなっていた。

 館に入ると勝隆は早足で廊下を駆けた。館といってもそれほど大きなものではない。


「綾姫!」


 勝隆が叫ぶと声は館中に響き渡った。綾姫の口が自由であれば、すぐに返事をしてくれるはずである。

返事はない。やはり自由を奪われているのかも知れない。薄暗い中、勝隆は素早く一つ一つ部屋を確かめていった。不意に、不安がよぎる。綾姫は、兼定の言っていたように残るといいだすのではないだろうか。貞親を自ら討ち取るまではここを離れない、離れるくらいならば死ぬと言い出したなら、自分は一体どうやって彼女を説得すればいいだろう。そんな不安が頭をよぎったが、勝隆は打ち消した。とにかく今は、生きて会えればそれで良いのだ。

三つ目の部屋に、綾姫はいた。


「勝隆」


 綾姫は自由を奪われてはいなかった。口を封じられてもいなければ、手足を縛られているというわけでもない。勝隆を待っていたかのように立ったまま、こちらを見ている。攫われた時と、衣が違っている。その事だけを見ても、彼女がここで比較的自由に捕らわれていたことが分かった。


「綾姫」


 勝隆は思わず駆け寄ってそのまま綾姫を抱きしめた。自分に付いている返り血のことなど、頭にはない。ただ再び生きてまた会えたことが何よりも嬉しかった。まるで自らの半身を取り戻せたかのように、どうして今まで離れていても正気を保っていられたのかと感じる。すると込められた力は自然と強いものになった。

 綾姫の腕、背中、肌のぬくもり、香りそのどれもがたまらなく愛おしい。今まで修羅の如く、殺していた感情が一気に吹き出てくるようだった。

 その瞬間、綾姫の身体は眩しいほどに輝き、無数の花びらと成って形の目の前を舞った。それは、木瓜の花である。溢れんばかりの光の中、木瓜の花びらが舞っている。

 綾姫、と叫びそうになったところで、勝隆はそれが自分の幻覚だと言うことに気がついた。

 どうして自分は、こんなにも確かな彼女の存在が、幻のように見えてしまったのか。


「勝隆、痛い」


 勝隆ははっとなり、慌てて身体を引いた。自分は、一体何をしてしまったのだろう。思わず抱きついてしまったが、嫌がられなかっただろうか。あるいは、綾姫の衣を汚してしまったのではないだろうか。

 勝隆がようやくそういったことに気が回せるようになると、今度は綾姫の表情が気になった。


「綾姫、助けに来た。早くここから逃げよう」


 表情を見て、勝隆の胸に一気に不安が広がっていく。どうか、今頭に浮かんだ不安が、どうか杞憂であって欲しいと心から願った。


「勝隆・・・私は、行けない」


「どうしてだ。もう貞親は傷を負って何処かへ行った。恐らく死んだ。配下の兵たちも散り散りになっている。今なら」


「だからこそ、私はいけない。逃げる必要もない」


 勝隆は、綾姫のこのように悲しい顔を見たことはなかった。


「長宗我部の当主が、いなくなったのよ。兄上がもし死んでいたなら、この長宗我部は大きく乱れる。それを他の六雄が、本山が放っておくはずない。すぐに兵を引き連れて、この岡豊に攻めてくるわ。それを防いで、長宗我部を立て直して守れるのは私しか・・・」


「そんなこと知るか!」


 勝隆は叫んでいた。綾姫の言葉と考えが、武士として、一族の当主として正当なものであることは分かっている。しかし、それでは一体どういう事になるのか、そこまで考えて、勝隆は納得出来なかった。


「綾姫、長宗我部を捨てて俺と生きよう。俺は自分が何者なのか今ではもう分からないし、まだ見つけてもいない情けない奴だ。けれど俺はお前と共に生きたい。俺と一緒に来い」


「ありがとう勝隆。でも・・・私は綾姫ではないの。本当は長宗我部の元親です」


「分かっている。分かっている!」


それはとうに気づいていたことである。


「いいえ、分かっていません。私は今まで長宗我部の当主となるべく育ってきました。私の考え方はそういう風になっている。今ここで、長宗我部とその家臣、岡豊の人々を捨てることなど私に出来ないことです。私は、生き方を変えられない」


 勝隆の思考はまとまることはなかった。恐ろしい闇が自分に向かってきている予感がした。その闇に飲み込まれてしまうと、全てが終わりなのだ。


「貞親を探そう。まだ生きているかもしれない。彼が健在なら、お前は俺と」


勝隆の言葉に、綾姫の瞳は揺るがなかった。


「少し前、あの妖狐がここに来ました。私は、天下を治めることはできないけれど、この土佐と四国を統一する星の下に生まれていると言われた。星の力のなんと恐ろしい事か。その時、私の中で長宗我部元親という野心家の男が目覚めた。岡豊の老臣たちのように本山に対する憎しみや、意地じゃない。ただ純粋に大業を成し遂げたいという武士の美徳。父国親が、四国の覇者たれと願いを込めて育てた私に、その野心が芽生えた。人の心とはこのように、一瞬で変わってしまうのね。私は、四国を統一したい。私はそういうやつなのです」


「そんなもの、捨てろ!」


 勝隆は無性に腹が立った。そんな夢や野心は綾姫には似合わない。込められた願いなど、呪いでしかない。現に、それらは今綾姫の女としての幸せを妨害しているではないか。

 今、自分と来れば幸せになれるのだと、勝隆は強く思った。


「俺は、俺たちは平家再興の夢を諦めた!」


綾姫はその言葉で勝隆が何を言いたいが理解出来た。そして同時に。


「そうね。私はそれが凄いことだと思う。でも、あなたたちは三百年もかかった。私は、今なの」


 自分の野心と夢に火が付いたのは、現在(いま)なのだと綾姫は訴えた。炎が付いたばかりの夢を消すことなど、出来はしない。夢が潰えたばかりの勝隆には、その事が痛いほど理解出来た。しかし、理解したくはなかった。


「その道を進んで、お前は幸せになれるのか」


 少し全身の力を抜くことができるようになった勝隆は、綾姫がこれから辿る道について思いを巡らせた。四国統一、華々しい夢である。この鬼国からそれが叶えば、それは確実に歴史に名を残すまさに大業である。だが土佐七雄を束ね、四国の豪族たちを下すまでに一体どれほどの血が流れるのか。そしてその果てに一体何があるのか。勝隆は最後まで想像する事を躊躇った。

 彼女の行く道は、決して煌びやかな英雄でも穏やかな女の道ではない。血と怨嗟にまみれたおぞましい道だ。そんな道を辿って、幸せになれるはずがない。


「幸せに辿り着く道を選んだわけじゃない。でも」


 綾姫は潤んだ瞳で真っ直ぐ勝隆を見つめた。勝隆は自然と、もう彼女のこのように儚げな眼差しを見ることが出来るのは最後なのだと悟った。あの時見たのが、あれほど儚く美しい月ではなくて、綺麗な夕日だったら、朝日だったら、何か変わっていたのだろうか。


「私はずっと世の中と運命を憎んでいた。このような身の上に生まれて、のしかかってくる自分よりも遙かに大きな力に翻弄されることが、理不尽でならなかった。でも、自分には幸せになれる道もあったのだと。選ばなかっただけで、自分にもそんな道もあったのだと思えば、この世に生まれてきて良かったと思う事が出来る。それで、もう幸せの半分は手に入れられた気がする。全部、勝隆のおかげよ。ありがとう」


 二人はあとは何も言わずに抱きしめ合い、口づけをした。それは間違いなく永遠のものだった。

 勝隆が綾姫に会ったのは、それが最後である。

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