言葉とは、嘘だ
言葉とは、嘘だ。
自分の思ったこと、考えたこと、実際に体験したことを正確に相手にイメージさせるのは不可能だ。だから。情報とは、言葉とは、全てが虚偽のものであり、人に聞いたこと、その人自身が話したことは、全て嘘に過ぎないのだ。
人が言葉にするのは自分の理想、らしい。こうありたい、こうであってほしい。言葉を発する前に考えるのはコンマ1秒に過ぎない。つまり、言葉とは反射である。人は常に理想を追い求めている。常に理想のことについて考える。特にそのように努力しているときは。だから、コンマ一秒の時に発される言葉は、自身の理想なのだ。誠実な人は好かれる。嘘つきは嫌われる。嘘はつきたくない。見栄を張りたくない。でも。相手が自分を尊敬していると知った時、本当に尊敬されるような眼差しを受けた時、見栄を張りたくなる。いや、張らざるを得ない。そんな自分を嫌う。そうやって人は自分が嫌いになる。自分が弱い人間であると知って欲しくない。人から尊敬されていたい。それは誰もが描く理想であるから、人は嘘を、やめられない。
人は、変わる。例えば君が、小学校の頃や幼稚園児の時、ドラ○もんがすごく好きで、毎回毎回アニメを見て笑っていたりジャイア○に憤りを感じたり、エンディングで踊ったりしていたとしよう。君は、今そのアニメを見た時に同じような感想を抱かないだろう。もうエンディングで踊りたいとは思わないだろう。今、そのアニメを見て、君は感動して泣くかもしれない。幼い頃に嘲笑っていたことを自分がしてしまったことに気づき、赤面しているかもしれない。ジャイア○に同情するかもしれない。あるいは単純につまらないと思うかもしれない。こんな極端な例でなくとも、つまらないと思っていた失恋物語が自分が失恋した直後に読めば、その主人公に同情し、泣き出すなんてこともあり得るだろう。その時考えたこと、その時感じたこと、その日、自分がどのような状況なのか、その日の心情、あるいは周りの状況によっても変わる。個性派俳優の佐藤さんと言う人がこんな言葉を発していた。「明日、僕、意見変わります。」これはこの俳優さんが「実力派俳優という言葉が好きではないと言ったことに自身で反省し、謝罪の意を込めて言ったことだ。昨日の言葉はたとえ真実であっても嘘になるのだ。
数学とは、宗教だ。数式という見えない経典を信じ、信者はそれに従うから。私が人伝に聞いた考えだ。私はこの考えが嫌いではない。だが、どこか引っ掛かりを覚えていた。それを言うなれば全てのものが、宗教である。言葉だろうが、物理だろうが、化学だろうが。全てに法則があり、それに従う。本当か定かでない、本に載ってあることを信じる。特に、言葉というものは宗教という言葉がぴったりであるように思う。数学の経典から導き出されるものは事実だ。しかし、言葉には民族性があり、文法という法則があり、皆が信じる物のイメージが異なり、極めて抽象的なものなのである。抽象的なものだからこそ画家の描くマリア様が異なり、宗派があり、衝突が生まれる。言葉も同じだ。言葉が持つ意味は人によって異なるし、また言葉にも訛りがあり、ちょっとした行き違いで喧嘩になる。
先生が言っていた。人類が発展したのは見えないものを信じる力による物である、と。言葉も、見えないものを信じる力である。また、見えないものであるから、それを正確に伝えることなど、できないのだ。
だから私たちは言葉とは嘘であることを前提に、全てのことを進めなければならない。
一度、考えてほしい。
君が嘘と呼ぶものは、本当に嘘だと思うか?