予兆
しょうがない、とにかく午後の授業──五限と六限の間、この幼女を隣の席に置いておけばいいだけの話だ。そう思った僕だったが、五限の授業がある教室に向かえば、黒板にでかでかと『休講』の文字。その文字を見ては三々五々去っていく学生たちの間に立ち尽くし、僕は額を押さえた。そんな僕の服の裾を、卯月がくいくいと引く。
「幸太郎。授業なくなったの? どうするの?」
「どうしようか……」
アイスでも食べに行く? と聞こうとしたが、それが先程の変質者とまったく同じセリフであることに気づき、何も言えなくなってしまう。
そんな僕に、救いの手が現れた。
「あれ? 幸ちゃんも休講? なら、お茶でもしにいかない……って、その子、どうしたの?」
美鳥ちゃんだった。
大学近くにある、女子に人気のおしゃれカフェに移動し、美鳥ちゃんはパンケーキのセット、卯月はいちごパフェに舌鼓を打っている。僕は一番安いホットコーヒーだけにした。なにせ僕の奢りなのだ。
卯月のことは、美鳥ちゃんには、『急遽預かることになった、知り合いの妹』と説明した。何一つ嘘はついていない。その知り合いは僕を仇敵と見なしているが今はそれに気づいておらず、なんならちゃんと話をしたのはさっきの数分だけ──といった込み入った事情は、なにも話さなくてもいいだろう。
「卯月ちゃん、パンケーキも一口食べる?」
「うん。美鳥も、パフェ、一口食べていいよ」
二人はケーキとパフェを交換し、きゃっきゃと楽しげだ。僕はやたら苦いコーヒーを啜りながら、黙ってそれを眺めている。
僕ら三人は、傍から見たら一体どう見えるんだろうな、と思う。姉妹とその知人、あるいは兄と妹二人、といったところか。僕と卯月だけだったら、確実に誘拐犯とその被害者だったろう。美鳥ちゃんがいてくれて、本当に良かったと、しみじみと思う。
その時だった。
「あれぇ? ……確か、『美鳥』さん、でしたっけぇ」
舌っ足らずなその声に、かすかに聞き覚えがあった。顔を上げれば、明るい色の髪を巻き髪にした女の子がそこにいた。誰だったっけ。一瞬考えるが、すぐに思い出す。『まゆか』だ。あのバーガーショップで会った、美鳥ちゃんの元カレ、潤也の今カノ。
そう気づいて、僕は急いで美鳥ちゃんを見た。美鳥ちゃんにとって、快い邂逅ではないと思ったのだ。でも、美鳥ちゃんは、ポカンと口を開けて首を捻っていた。
「あの……どなたでしたっけ?」
本当に覚えてない口調だった。僕はガクッと肩を落とす。その反応に、『まゆか』が眉を潜めた。
「……秋間まゆかでぇす。潤也の今カノのぉ」
「潤也……? ああ! あの時の」
というか、潤也のことすら思い出すのに時間がかかっていた。大丈夫か、美鳥ちゃん。
『まゆか』、もとい秋間さんが、フンと鼻を鳴らす。
「美鳥さんてぇ、噂どおりの人なんですねぇ。一度別れた男のことはさっぱり忘れて、次々男を乗り換えるってぇ」
「……ちょっと、やめてくださいよ」
さすがに不快になって、僕は止めに入った。そんな僕を制止したのは美鳥ちゃんだった。
「いいの、いいの。ていうか、秋間さんもあの男とは別れたほうがいいよ。めっちゃ浮気症だったし」
美鳥ちゃんはパンケーキをもりもり食べながら言う。気にした様子もない。秋間さんが、チッと舌打ちする。背を向けて立ち去ろうとしたが、その前に、卯月に目を留めて、捨て台詞を吐いた。
「もう今カレと子ども作ったんですか? 早すぎ」
……いや、計算が合わなさすぎだろ。
卯月は、去っていく秋間さんの背を、じーっと眺めていた。
「あ、ごめん、卯月ちゃん。嫌な思いをさせちゃったかな。なんかおかわりする?」
「プリン。……ねぇ幸太郎、あの人、『高女』だよ」
ちゃっかりプリンを要求し、卯月はそんなことを言う。
「高女?」
僕は分からないふりをするが、本当は知っている。
高女。それは、下半身を長く伸ばし、遊女屋などの二階を覗き歩くというよくわからない行動をする女の妖怪だ。醜い姿で、異性に愛されなかった恨みを、男女の交合を覗き見て晴らしているとも言われる。
『協会』に制限をかけられているとはいえ、卯月は鬼森三兄妹の末妹。その眼力は確かなはずだ。つまり、秋間さんには、高女が憑いているかなにかしているということか。
「幸太郎、これ、あげる。お守り」
卯月が差し出したのは、平たく畳まれた折り鶴だった。その腹の部分に、セーマン──五芒星が描かれている。霊符の一種であることが、そこに込められた呪力で分かる。
「あら、可愛い、折り鶴?」
「美鳥にもあげる」
卯月は美鳥ちゃんにも折り鶴を手渡した。
「持っておくといいよ。きっと、役に立つから」
卯月の黒い大きな瞳は、まるで先を見通しているかのようだった。
その時、美鳥ちゃんのスマートフォンが鳴った。
「あ、友達からLINEだ。ちょっと待っててね──え?」
美鳥ちゃんはスマートフォンから顔を上げると、奇妙な顔で僕に向き直った。
「六限も、全校休講だって。二階の窓を覗き込む、謎の不審者が現れたんだってさ」
結局、お茶をした後は、美鳥ちゃんも付き合ってくれて、ゲームセンターで時間を潰すこととなり、僕はクレーンゲームで卯月に大きなウサギのぬいぐるみを取ってやった。クレーンゲームは結構得意なのだ。卯月はふわふわしたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、気に入ったようだった。
そして、美鳥ちゃんは源三郎じいちゃんの病院に行き、僕は虎丸との待ち合わせ場所に向かった。虎丸は早めに着いていたらしく、僕と卯月を見つけると、
「よっありがとな、幸太郎」
と片手を上げた。卯月は虎丸に駆け寄り、虎丸はその髪をくしゃくしゃと撫でた。それは、仲の良い兄妹の姿そのもので──僕はなぜか、胸を突かれた。
虎丸は僕に向かって笑いかける。
「じゃあな、幸太郎。今日のことは借りにしとくぜ。何かあったら連絡しな。割引してやる」
そう言って、虎丸は名刺を寄越してきた。『鬼森解体業』という社名と、『鬼森虎丸』の名前、そして携帯電話の番号が書いてあった。
虎丸の足の影から、卯月がウサギのぬいぐるみとともに顔を出す。
「ばいばい、幸太郎。ありがとね」
そうして手を振る卯月は、年相応の幼子に見えて──そういえば、この子、学校行ってないのかなと、僕はそんなことを思った。
そして気がついた。あの廃村で、虎丸と顔を合わせたはずなのに、全然覚えられてなかった。……あの時防護マスクしてたから、そのせいだな。きっとそうだ、決して存在感が薄いわけじゃないぞと、僕は自分を慰める。
話はそれで終わると思っていた。僕が虎丸の携帯に電話することなどありえないし、工事も今日で終わった。これで、向こうが僕を『土門』として襲ってこない限り、バッタリ出会うことなどありえないだろうと。
だが、僕はもっと考えるべきだった。鬼森三兄妹は、霊障のありそうな場所をわざと選んで、所有者に解体を持ちかけているということを。
だが、僕がそのことを思い出すのは、もう少し後になる。その前に、『高女』の事件があったからだ。