婚約者vs後輩
その日、家に帰った僕は、
「おかえり」
と居間でテレビを見ながら迎えてくれた美鳥ちゃんに挨拶もそこそこに、猛然と自分の部屋に向かった。そこは小さな僕の城。棚はもちろん、壁に床に、長年溜め込んだ呪具や道具類が溢れ、まるでゴミ溜めのように雑然としているが、僕にはどこに何があるか、すべて分かっている。大体の呪具なら、この部屋で制作することができるよう、長年をかけて作り上げた研究室だ。
椅子に座って机に向かった僕は、一気に呪具制作に集中する。他の何の音も聞こえなくなるし、手の中の呪具以外、何も見えなくなる。頭の中には無数の呪術理論が展開され、構築され、それを手の中で三次元に再現していく。
段ボールごと買い置きしているペットボトルの水だけを飲んで、ひたすら作業を続けた。
そして、一昼夜ほどかけただろうか。それは出来上がった。僕は立ち上がり、居間へと向かう。
居間では、じいちゃんと美鳥ちゃんが煎餅を食べながらテレビを見ていた。美鳥ちゃんは僕を見て、
「あ、幸ちゃん。なんかしらないけど終わったの? お風呂入ったら? 臭いよ」
と言ったが、僕はそれどころじゃなかった。
美鳥ちゃんの手を取り、その掌の上に、作り上げた呪具を乗せる。それは、金でできた指輪の形をしていた。
美鳥ちゃんは呆然と、僕と指輪を見比べる。僕は真剣な顔で言った。
「美鳥ちゃん。これを受け取って欲しい。そして、片時も離さず身につけていてほしいんだ」
「え……幸ちゃん」
「僕も同じものを身につける。だから──」
だから、この呪具があれば、もしも鬼森三兄妹が美鳥ちゃんに危害を加えるようなことになれば、すぐ僕に感知できる。そう言おうとしたが、妖怪退治業のことは美鳥ちゃんに秘密だった。それ以上言葉を続けられない僕に、美鳥ちゃんは首を横に振った。
「いいの、幸ちゃん。それ以上言わなくて。分かってるから。──私のために、今までこれを作ってくれていたのね?」
それはそのとおりだったので、僕は頷く。
「幸ちゃん!」
美鳥ちゃんが僕に飛びついた。徹夜の作業で疲弊しきっていた僕には、とてもその体重を受け止めることはできず──そのまま床に倒れ、頭を強打して意識を失った。
翌日、僕が目覚めるまで甲斐甲斐しく世話してくれていた美鳥ちゃんは、源三郎じいちゃんのところに見舞いに行ってしまったので、僕は正太郎じいちゃんと二人になった。風呂に入ってさっぱりした僕は、まだ身体から湯気を立てながら、居間でテレビを見るじいちゃんの隣に座る。
「……鬼森三兄妹の、残りの二人に会ったよ。あちこちでわざと霊障を起こして、『土門』を誘ってる」
そう告げると、じいちゃんは、
「そうか」
とだけ答えて、それきり何も言わなかった。何を考えているのかも、その横顔からは知れなかった。
こうなった以上、会社に迷惑をかける前に、アルバイトを辞めさせてもらったほうがいいだろう。そう思った僕は、熊澤社長に電話で辞意を伝えたのだが、社長は磊落に笑った。
「辞めなくていいって。鬼森三兄妹より、うちの人手不足の方が心配だよ。大丈夫だって、心配なら、対策してやるからさ」
と言って、聞く耳を持ってくれなかった。
対策とはなにか、そこで聞いておけばよかったのだが、あいにく僕はその時、そこまで深く考えていなかった。
そんなわけで、
「こんにちは~っ! 幸太郎先輩、漣光香、先輩のお迎え兼護衛にやって来ましたぁ!」
と光香ちゃんが近所中に聞こえるような大声でやって来るまで、僕はそれについて何も知らされていなかったのだった。
無視しようと思ったのだが、諦めずに騒ぐ光香ちゃんがあまりに近所迷惑だったので、家に入れてやる。出勤にはあまりに早い時間で、今から早めの晩御飯を食べようとしていたところだった。
「えへへ、初めての先輩のお宅訪問だと思うと気持ちがはやって、つい早く来ちゃいました。あ、ほんとに普段は前髪下ろしてるんですね! そんな先輩もかわいいっていうか……てへへ。あっいい匂いしますね! 晩御飯ですか!? 私はいつも仕事の後に食べるから、お腹が減っちゃって──」
そこで不自然に止まった声。光香ちゃんのこわばった眼差しの先を目で追うと、そこには美鳥ちゃんが腕組みをして立っていた。やけに冷たい眼差しで、光香ちゃんを見つめている。
「……幸ちゃん。この方は?」
「アルバイト先の後輩で、漣光香ちゃん、です」
その氷のような声に、なぜか敬語になってしまう。
「それで光香ちゃん、こっちが──」
「幸ちゃんの婚約者で、羽島美鳥といいます。いつも幸ちゃんがお世話になっていますね」
僕の声を遮って、美鳥ちゃんは光香ちゃんに笑いかける。なぜだろう。全然目が笑っていないような気がする。
対する光香ちゃんも、ふだんのふわふわした笑顔に、仕事中に獲物に見せるような鋭い眼光を乗せていた。
「こちらこそぉ。先輩には、いつも手取り足取り、優しく指導してもらっちゃってます。どうかよろしくですっ!」
誰も呪術は使っていない。それは確かなのに、目に見えない稲妻が飛び交っているようだ。
美鳥ちゃんは、ほほほ、と口元に手を当てて笑う。その左手の薬指には、僕が作った指輪が煌めいている。光香ちゃんは、その指輪を見て、同じものが僕の指にも嵌められているのを確認し、顔をこわばらせた。
「あ、この指輪、幸ちゃんが作ってくれたんですよ。私とお揃いで」
「……そぉなんですかぁ。先輩の方は、人差し指に嵌めてるみたいですけど?」
「幸ちゃんたら、作る時サイズを間違えたんでしょう。そのうち直せばいいわ」
ほほほ、ははは、と笑い声がする。背筋に冷や汗が伝った。
「……先輩、そろそろ仕事に行きませんか? 光香、先輩の送迎、一生懸命頑張りますね! もう、ぜったいおそばを離れない覚悟です!」
「え? でも、仕事の時間にはまだ早──」
「それより、光香さんもご飯を食べていかれたら? 晩御飯、まだなんでしょう? 聞こえたわ」
美鳥ちゃんの思いがけない言葉に、光香ちゃんは目を丸くする。
「え、いいんですかぁ?」
美鳥ちゃんは勝ち誇ったような顔で言った。
「ええ。今日は、幸ちゃんが腕によりをかけた酢豚よ。──幸ちゃん、私にプロポーズする時言ってくれたの。毎日、僕の作った酢豚を食べてくれって」
話が脚色されている気がする。
なぜだかすっかり青ざめてしまた光香ちゃんは、ようやく声を絞り出した。
「──飽きませんか? それ」
やっぱりそうだよね。