プロローグ
それは、よく晴れた、ある春の日のことだった。
「ねえ、ちょっとお小遣い貸してくれない? 同級生のよしみでさぁ」
午前の講義を終えた昼休憩、いつもどおり大学構内のベンチに座り、コンビニパンの袋を開けようとしていた僕は、いつの間にか金髪の怖そうな青年たち──顔も名前も覚えていないけど、同級生らしい──に囲まれていた。
「ちょっとでいいんだよ。絶対返すし。な、前髪くん」
『前髪くん』とは、僕がいつも顔の半ばまでを前髪で隠しているからだろう。僕はなんと言っていいか分からず、いつも猫背な背中を更に丸めて、視線を落とせば、スエットについた毛玉が目についた。彼らが苛立ちを募らせるのが分かった。
「おい、土門──」
怒りを込めた声が降り掛かったその瞬間。新たな人影が、僕の顔に影を落とした。
「ねぇ。ちょっと顔貸してくれる?」
聞き覚えのあるその声に顔を上げれば、そこにいたのは、迫力のある美人だった。艷やかなストレートロングの黒髪。今は険しく吊り上がった、長いまつげに縁取られた、アーモンド型の目。大きな黒目がちの瞳。目鼻立ちは整っていて、唇は何もつけなくても紅い。手足はスラリと伸びて、モデルみたいなスタイルだ。
それが、僕の幼馴染、羽島美鳥ちゃんだった。
僕を取り囲んでいた同級生たちのことを気にもとめず、彼女はピンと背を伸ばし、腕組みをして立っている。その迫力に、同級生たちもたじたじと距離を開けていく。
そして、彼女は返事も聞かずに僕の腕を掴んで立ち上がらせると、無理やり引きずって行ったのだった。僕からカツアゲしようとしてた同級生たちは、呆然と僕たちを見送っていた。
連れて行かれたのは、最近人気のバーガーショップ。おしゃれな内装で、正直僕にはちょっと敷居が高いのだけれど、客の賑わいと軽やかなBGMが混じり合う店内、テキパキと働く店員さん達、肉の焼けるいい匂い……うん、たまにはこういう店もいいものだ、と僕は店内を見回し、目の前から漂う剣呑な気配から現実逃避した。でも、そんな時間は長くは続かなかった。
美鳥ちゃんは、テーブルにバァン! と勢いよく手を叩きつけた。
「私、こうなったらもう、幸ちゃんと結婚する!」
「はぁ」
そんな生返事をした僕だけど、その『幸ちゃん』とは、すなわち土門幸太郎、つまるところ僕のことなのだった。
『こうなったらもう』という部分が気にかかるところだが、僕としても、実のところ、ずっと昔から、美鳥ちゃんを憎からず思っている。なにせ美人だし、もちろんそれだけじゃない。
性格だって、僕と違って明るく活発で、社交的だから友達だって多い。それなのに、それを鼻にかけず、幼馴染とは言え、自他ともに認める陰キャである僕みたいなやつにも別け隔てなく笑いかけてくれる。美鳥ちゃんはそんな人なのだ。
だったら、二つ返事でOKしてもよさそうなものだけど、僕がそうできないのには、二つの理由がある。
美鳥ちゃんは皿の上のハンバーガーを取り上げると、渾身の怒りをぶつけるように、勢いよく歯を立てた。むしゃむしゃと咀嚼し、ジンジャーエールでごくんと飲み干すと、吊り上がった目の端に涙を滲ませた。
「あいつ……なんなのよぉ! 『おまえ、一緒に遊んだり連れ歩くのにはいいけど、結婚って感じじゃないんだよね』って!」
これが一つ目の理由。美鳥ちゃんは彼氏にプロポーズしてフラれ、やけっぱちになって僕と結婚すると言い始めただけなのだ。
それにしても、美鳥ちゃんの歴代彼氏は皆ろくでもない。二股三股は当たり前、ギャンブル狂なのはまぁ個人の趣味と言えないこともないけど、美鳥ちゃんにまで金をたかろうとした挙げ句、断られて暴れた時にはさすがに僕が間に入って止めた。
「大体、私の男運が悪いのは、全部幸ちゃんのせいなんだからね! 幸ちゃんが私の運を吸い取ってるんだぁ! 責任を取りなさい、責任を!」
そんなわけないでしょう、とため息をつくが、今の美鳥ちゃんに何を言っても仕方ない。理不尽な罵声は黙って受け止めることにした。
そして、二つ目。
僕は泣いている美鳥ちゃんから目を逸らし、窓の外を見る。今日も空は青く、その中を白い雲が流れていく──中に、飛び交う炎色の巨鳥達。目線を下ろせば、街を歩く人達は皆楽しそうにわらいさざめき──時折、その背に黒い影。何もないところでつんのめった女性の足元では、巨大な蛙がきひゃひゃ、と笑っているが、女性にはそれは見えていない。
僕が見ているのは、常人には見えない世界。
──僕は、いわゆる妖怪退治人というやつだった。
物心ついた時には、人には見えないものが見えた。両親はそんな僕を恐れ、父方祖父の正太郎じいちゃんのもとに預けた。正太郎じいちゃんもまた、妖怪退治人だった。父には受け継がれなかった呪力が、隔世遺伝で僕に顕れてしまったのだ。以来、一人前の妖怪退治人となるべく育てられた僕だけど、子どもの頃は、自分の見ている世界が人には見えないなんてことが、よく理解できていなかった。校庭に遊びに来るかわいい兎の姿の妖怪を指差して、みんなに紹介しようとしては、嘘つきの変なやつ呼ばわりされた。
そんな僕を、唯一馬鹿にせず庇ってくれたのが、美鳥ちゃんだ。美鳥ちゃんは正太郎じいちゃんの親友の孫娘で、両親を事故で亡くしていた。祖父に育てられている者同士、僕に連帯感を持ってくれたのだろう。
でも、美鳥ちゃんにも妖怪たちは見えない。妖怪退治人の仕事のことは美鳥ちゃんには秘密だと、正太郎じいちゃんからも言い含められている。
そんな秘密を抱えて、美鳥ちゃんと結婚できるわけないだろう。
でも、美鳥ちゃんはハンバーガーを食べ終えると、ソースのついたままの手で、僕の手をがっしりと握った。
「真剣に考えてよ、幸ちゃん! 私、どうしても、おじいちゃんが死ぬ前に花嫁姿を見せたいの!」
まだ二十歳、僕と同じ大学生の美鳥ちゃんが、ここまで結婚を急ぐのには理由がある。美鳥ちゃんの祖父、羽島源之助じいちゃんが、末期がんで病床にあるのだ。『美鳥の花嫁姿を見れずに逝くのだけが心残りだよ』と源之助じいちゃんは事あるごとに言っている。僕も見舞いに行った時に聞いて、胸を打たれたものだ。あのおおらかで、その性格を表したようにふっくらとしていた源之助じいちゃんが、すっかり痩せこけてしまっていた。僕は子どもの頃から、祖父と喧嘩するごとに源之助じいちゃんのところに逃げ込み、その膝に頭を乗せて撫でてもらっていたという恩がある。僕だって、その源之助じいちゃんの望みを叶えてやりたいのは、やまやまなのだが。
手を握られたまま、言葉を出せずにいる僕の頭上から、声がかけられた。
「あれ? 美鳥? なんだ、もう次のやつに粉かけてるわけ? 結構軽いやつだったんだな、おまえ」
見上げれば、その男の顔には見覚えが会った。名前は忘れたが、美鳥ちゃんの元カレ。つまるところ、美鳥ちゃんのプロポーズを酷い言葉で断ったって贅沢者だ。そんなことを言う元カレの腕には、明るい色の巻き髪をした女の子が腕を絡ませている。軽いやつはどっちだ、と僕は思う。
「潤也……」
美鳥が気まずそうに元カレの名前を呼ぶ。潤也は僕を見て、嫌な笑いを浮かべる。
「しかも、今度はそんなダサい陰キャ? で、断られてるわけ? 着実に女としてのランク下げてるね、おまえ」
潤也は今度は新しい彼女とおぼしき女の子に向けて、嫌味な口調で言った。
「これ、俺の元カノなんだけどさ。こんな大和撫子でぇすって見た目しといて、料理もできないの。そのくせ、すっげぇ大食らい。これが。見た目に騙されたわ」
「えぇ~、ひどい~。あのねぇ、まゆかはハンバーグとか得意だよぉ」
あっはっは、という笑い声が目の前のカップルからして、美鳥は気丈に潤也を睨みつけているが、僕の手を握る手が震えていた。
それが僕の我慢の限界だった。
そして、僕は美鳥の手を解くと、立ち上がる。いつも猫背な僕だけど、ピンと背筋を伸ばすと、大抵の人間を見下ろせる。潤也は少し怯んだ。188cmある身長に今は感謝だ。
「今どき、自分で料理もできない男だって、どうかしてると思います。自分が作った料理を、美鳥ちゃんが美味しそうにたくさん食べてくれるのが、どれだけ幸せかも知らないなんて、あなたはかわいそうです。」
そうして僕は、普段は深く下ろしている前髪を掻き上げた。一般人に呪術を使うのは憚られるけれど、いちいち取り締まっていたらきりがないから、ちょっとくらいなら『協会』も目こぼししてくれる。僕は、『呪眼』を発動させる。目の奥がチリっと熱くなる。きっと今、僕の目の奥をよく覗き込めば、小さな黄色い光が揺らめいているはずだ。その眼で潤也を睨み据えれば、余人の眼には見えない光の粒が一つ、潤也のぽかんと開けた口に入った。痛みすら感じないはずだけど、僕の呪力が、水に墨を一滴垂らした如く、潤也の身体に染みていくのが分かる。
これで当分、こいつは些細な不幸──足の小指をぶつけるとか、犬の糞を踏むとか──に見舞われる予定だ。僕は溜飲を下げ、前髪を下ろすとともに、言葉を続けた。
「ちなみに、僕の得意料理は、酢豚です。」
潤也はしばし呆けていたが、やがて、チッと舌打ちをして、彼女を引きずるようにして別の席に歩いていった。彼女はなぜか、ぼうっとした顔で後ろを振り向き、僕のことを見つめている。彼女の方には、別に呪術をかけてないけど、どうしたんだろう。
首を傾げていると、美鳥が小さく息をついたのが聞こえ、振り返る。美鳥ちゃんは苦笑を浮かべていた。
「幸ちゃんの、ここぞという時にその顔利用するの、ホントずるいなぁ」
顔を利用とはなんだろう。美鳥ちゃんは時々、よく分からないことを言う。僕が困惑している間に、美鳥ちゃんは完全に立ち直ったらしく、僕に向けてニヤリと悪戯げな笑みを浮かべた。
「ところで──さっきのは、『僕の酢豚を毎日食べてくれ』ってプロポーズでいいのよね?」
しばしの沈黙。確かに……結果的に、そういうふうにも、聞こえる内容だったけど。
「──飽きない? それ」
僕に言えたのはそれだけだった。
そんなわけで、なし崩しに、僕と美鳥ちゃんの婚約は決まってしまった。