依代の手
結局一人も友達が出来なかったけれど、どうにか中学校を卒業して、高校に入学することができた。それもこれも、全部おばあちゃんの支えもあってのことだ。
高校の制服は、戦前から変わっていないというセーラー服だった。
透明な厚手のビニールに包まれた、真新しいセーラー服。春からこれを着て学校に通うと思うと、なんだかそわそわしてしまう。
始めてこれを着た姿は、おばあちゃんに見せると決めていた。たった一人で私をここまで育ててくれたおばあちゃんに。
物心がついた時から、私にはおばあちゃんしか居なかった。よそのうちにいる「お母さん」や「お父さん」が居ない事にはさほど疑問を持たなかった。
小学校に入学したばかりの頃、同級生の意地悪な男の子に、「拾われっ子」とあだ名をつけられて、ひどく虐められた。それまでに薄々感じていた、よそとうちの違いや違和感が明確になった瞬間だった。
私は拾われた子。血の繋がった家族がいない。
拠り所のない寂しさに襲われておばあちゃんに泣いて抱きつくと、優しく頭を撫でて、慰めてくれた。
「私が拾ったんじゃない。一人ぼっちだった私の所に、あなたが流れ着いてきてくれたんだよ」
おばあちゃんはあまり昔の話をしたがらないけれど、ずっと昔はお父さんとお母さんと妹がいたらしい。けれど今は私だけ。
おばあちゃんはしばしば、私の手を褒めてくれた。白くて小さい、可愛らしい手だと言ってくれた。一方の私は、おばあちゃんの大きくてゴツゴツした、シワだらけの手が大好きだった。どんなに悲しくても、不安でも、あの大きな手を握れば、途端に安心できた。
それを伝えると、いつも寂しげに笑ったきり黙ってしまうものたから、いつしか言うのをやめてしまった。
おばあちゃん、喜んでくれるかな。もしかしたら感動して泣いちゃうかも。
制服に袖を通して、おばあちゃんに姿を見せた。
「見ておばあちゃん。セーラー服だよ」
おばあちゃんの反応は、どんな想像とも違った。おばあちゃんの顔から血の気が引いていく。あっという間に膝を折って床に座り込んだ。
「おばあちゃん大丈夫?」
「ごめんね、あんまりにもミヨちゃんに似ていたものだから」
そう言うおばあちゃんの表情は、恐怖や苦痛に染まっていた。まるで、今まで忘れていた痛みを思い出したかのような。
ミヨちゃんとは、おばあちゃんの妹さんの名前だったはずだ。だとしたら何がそんなにショックなのだろう。
あの日を堺に、おばあちゃんは日増しに弱っていった。食が細くなり、寝たきりになることが多くなった。
病院で検査を受けた頃には、すでに末期のがんだった。もう先は長くないという。ただの検査たったのに、そのまま入院となってしまった。
もうおばあちゃんは家に戻らないだろう。そんな予感がして、家に帰るなり、おばあちゃんの荷物を整理を始めた。
タンスの奥に仕舞われていた、お菓子でも入っていたような古びた缶の中に、おばあちゃんのお父さんの軍人手帳があった。そこには一枚の電報が挟まっていて、中国の南昌という場所で戦死したと書かれていた。
手帳と共に家族写真が出てきた。椅子に座る軍服を着た男性、その隣に寄り添う、着物を着た女性と、二人の女の子。背が高く、目尻が細い方がおばあちゃんだろうか。
するともう一人の女の子がミヨちゃんなのだろう。
私以外誰もいない家の中で、制服を着て鏡の前に立つ。確かに写真に映るミヨちゃんとそっくりだった。
「ねぇミヨちゃん。貴女はおばあちゃんに何をしたの?」
写真の中のミヨちゃんも、鏡の中の私も、何も答えてくれなかった。
あのとき、私の姿を見たおばあちゃんは、どうしてあんなに辛そうな顔をしたのだろうか。
辛い過去があったのなら、せめて亡くなる前に私におばあちゃんを助ける事はできないだろうか。
入学式を終えて、おばあちゃんのお見舞いに行く。おばあちゃんが入院しているのは、退院する見込みのない人達が入る特別な病棟だった。
病室に入ると、夕暮れの日差しが、眠るおばあちゃんを照らしていた。カーテンを閉めた音で、おばあちゃんは目を覚ました。
「ミヨちゃん」
私を見るなり、おばあちゃんは私をそう呼んだ。
「迎えに来てくれたの?」
「ううん。様子を見に来ただけよ」
少しがっかりしたようだった。
「私はまだ死ねないのね。ミヨちゃんを捨てて、こんなおばあちゃんになるまで、のうのうと生きてしまったというのに」
私には教えてくれなかった過去の出来事でも、ミヨちゃんになら教えてくれるだろうか。
「私、昔のことよく覚えていないの。良かったら教えて」
おばあちゃんは天井を見つめたまま黙っている。
「覚えている範囲で構わないから」
「あの頃の事、そしてあの夜の事。一時も忘れたことなんてないわ」
長い独白が始まった。
私とミヨちゃんはずっと一緒だった。何をするにしても片時も離れずに居た。両目と両手があって、両足が揃っているように、私の傍らにミヨちゃんがいて、ミヨちゃんの傍らには私がいる。それが当たり前だと思っていた。
けれど双子ではないから、違いも多くあった。 私はお父さんに似て、大柄で手足も大きかった。ミヨちゃんはお母さんに似て、ぱっちりとした目元。それに可愛らしい小さな手。私が持っていない全てを備えたミヨちゃんの全部が愛おしく、自慢の妹だった。
お父さんもお母さんも優しく、立派な人達だった。幸せに暮らしていたけれど、戦争が始まって、お父さんが出征する直前、みんなで花火を見に行ったのが、家族最後の思い出になってしまった。
まもなくお父さんが戦死して、お母さんは病死してしまった。私達は、港町で旅館を営む親戚にもらわれた。
幸運だったのは、おじさんもおばさんも、お父さんやお母さんに負けず劣らずの善人だった事。旅館の仕事を手伝えば、今までと変わらずに学校に通わせてくれた。
旅館での生活が何年か続いた頃、日本は戦争に負け始めて、大規模な空襲が増えてきた。
以前から港には軍艦が出入りしていて、旅館の客は海軍の軍人さんが多かったけれど、以前より格段に増えていた。船が全部沈んでしまって、海軍の兵隊がぜんぶ丘に上がったせいだと、誰かが言っていた。
そんな中、ミヨちゃんは海軍の若い将校さんと懇意になった。
未婚の男女が往来で一緒に歩くだけで白い目で見られた時代。二人は人目を避けて、旅館の空間や倉庫で逢瀬を重ねていた。
反して私は、一人になる時間が増えた。それもその筈。今までずっとミヨちゃんと一緒だったから。たった二人きりの家族だから、この先もずっと一緒だと思っていたのに。
私の唯一の支えをいとも簡単に奪おうとする将校さんが憎くて堪らなかった。
けれどそれ以上に、私よりも彼を優先するミヨちゃんを恨んでしまった。
将校さんが旅館に泊まりに来た晩。ミヨちゃんはいつになく、そわそわした様子だった。私はわざと
「今晩は空襲がありそうで怖いわ。手を繋いで寝ましょうよ」と誘った。
「お姉ちゃん、私達、もう子供じゃないのよ」
ミヨちゃんは一人で大人になっていたのかもしれない。けれど私は、少なくとも妹に執着する程度には、まだ子供だった。
「いいじゃない」
私は強引にミヨちゃんの手を握った。彼女はそれ以上、何も言わなかった。
夜半、私の手をするりと逃れて、ミヨちゃんは部屋を出ていった。
僅かな逡巡の後、私はこっそりと、将校さんが泊まる部屋に向かった。
少しだけ開いた襖から見えたのは、淡い明かりに照らされた、握り合う二人の手だった。
ミヨちゃんの小さくて白い手は桃色に染まっていた。
私の知らない色だった。
翌朝将校さんは帰っていった。帰り際、「もうすぐ大きな空襲があるかもしれないから、注意しなさい」と言っていた。
ミヨちゃんは「気をつけます」と言っていたけれど、私は、旅館も、荷物も国家も、私自身さえも、何もかも燃えてしまえばいいと思っていた。ミヨちゃんが居ないなら、この先の人生に何の意味もない。
ミヨちゃんは私のすべてだった。
その晩、将校さんの言うとおり、大きな空襲があった。防火活動なんてお構いなしにあちこちから火の手が上がった。
旅館にも火が付き、またたく間もなく火に包まれた。おじさんとおばさんは、私達を外に逃がすと、逃げ遅れた客を探しに旅館へ入っていった。その矢先、旅館は潰れ、炎の塊になった。
私達は逃げ惑う人々の走る方へ向かって駆け出した。
方々から、この世のすべての悲鳴が聞こえた。建物の歪む音。誰かを探す叫び、頭に付いた火を消せずに悶え死ぬ子供。
私たちは地獄の中を、行く宛もなく走った。
いつの間にか、私たちはどちらともなく手を繋いでいた。
ミヨちゃんの手を引いて走りながら、花火大会を思い出していた。
あのときもこうして、ミヨちゃんの手を引いて花火を見上げて歓喜する人々の間を駆け抜けた。
あのときと違って、人々の顔は恐怖に染まっていたし、歓声は誰かの断末魔で、花火の代わりに空に輝くのは、サーチライトと焼夷弾、そして銀色の腹を光らせて死を振りまく爆撃機だった。
けれどそんなことは些細な違いだった。大きな違いは別にあった。
あのときは、ミヨちゃんには私だけしかいなかった。私にはいまでも、ミヨちゃんしかいないのに。
ミヨちゃんは私の手を堅く握っていた。昨夜、私の手をすり抜けた手と同じとは思えないほどに。
途端、ミヨちゃんが憎くてたまらなくなった。
この一夜が終われば、私はまた一人。
ミヨちゃんは私を置いて、あの人の所へ。
今だけ私に縋るなんて都合が良すぎる。
私は、私の寂しさを、悲しさを、執着をミヨちゃんに知ってほしかったのだと思う。
私がミヨちゃんに執着するように、ミヨちゃんも私に執着してほしかった。
昨夜、ミヨちゃんが私にしたことを、仕返しでやろう。
悪魔の囁きに従うままに、私の手を固く握ったミヨちゃんの手を、乱暴に振り解いた。すると、私達は古布を裂くように簡単に引き離された。
背後に迫る劫火。その純粋な赤に、ミヨちゃんは吸い込まれて行った。
そしてもう二度と会うことはなかった。
「目を閉じると、ハッキリと情景浮かんでくる。真っ赤な背景に、私の手を求めて伸ばされた、白い手が」
魂を吐き出すような長いため息を最後に、おばあちゃんの独白は終わった。
おばあちゃんは今まで罪の意識に迫られていた。長い年月を経ても心のどこかに根付いた残り火が、私の姿を見て再燃し、今、おばあちゃんの心と身体を焼き尽くそうとしている。
「何か、私にしてほしいことはある?」
「私をミヨちゃんの所に連れて行って」
おばあちゃんのシワだらけの手が、血の気が引いていつもより白くなった私の手を、シワだらけの首へと誘った。
「お孫さんはどうするの?」
「あの子は……」
「あの子もお姉ちゃんと同じよう、一人ぼっちにさせてしまうの?お姉ちゃんだけが唯一の家族なのに」
そう言いながら、おばあちゃんの首に絡んだ私の手には、僅かに力が加わる。まるで私の手では無いかのように。
「あの子はあんまりにも、ミヨちゃんに似すぎているのよ。もう、私はあの子をミヨちゃんとしか思えない。あの子の手を、笑って握ってやることも、もうできない。あの子はなんにも悪くないのに。悪いのは私だけなのに……」
「お姉ちゃんは悪くないわ」
更に手に力が加わる。おばあちゃんの首を流れる細い空気に触れているかのようだった。声帯がその空気を震わせ、気道に残る僅かな隙間から、言葉を絞り出した。
「ごめんね……」
私はきっと、このために拾われたのだろう。
ミヨちゃんのところへ、おばあちゃんを連れて行くために。